第三期の政論


第一  国会期成同盟


兵馬の争は言論の争を停止するの力あり、鹿児島私学校党の一揆は啻に
当時の政府を驚駭せしめたるのみならす、世の言論を以て政府に反対す
る諸人をも驚かし一時文墨の業を中止して投筆の志を興さしめたり、吾
輩は此の期節を以て近時政論史の一大段落と為す。而して第三期の政論
を紀するに先たち、爰に当時以後の政論に関し一言し置くへきことあり、
何そや他にあらす、政事に係る新思想は此の変乱に因りて殆んと全国に
延蔓せしこと是れなり。当時に至る迄政論を唱へたるものは主として東
京に在り、且つ民間に在りて政論に従事せしものは重に旧幕臣又は維新
以来江戸に居留せし人々に係る、地方土着の土人に至りては尚ほ脾肉の
疲せたるを慨嘆し、父祖伝来の戎器を貯蔵して時機を俟ちたる、是れ当
時一般の状態にあらすや。試に全国を大別して之を観察せんに、新らし
き政事思想を抱きて国事を吟味するものは文明の中心たる東京を以て本
と為し、之に次きたるは第二の都府とも称すへき大阪を然りとす、大阪
は商業の地なり、何故に政事思想は此の地に発達せし歟、曰く土着の人
民然るにあらす、土佐人の出張所あるを以てなり。
嚮きに民選議院論を唱へたる政事家の一人板垣退助氏は時の政府に不平
を抱きて其の郷里土佐に在り、薩摩の西郷と共に民間の勢力を有ちたる
か如し。当地其の同論者たる江藤氏は佐賀の乱に殪れ、後藤氏は政界を
去りて実業に当り、副島氏は東京に在りて高談雅話に閑日月を送る、是
に於て政府の反対者たる政事家は只た九州と四国とに蟠踞して所謂る西
南の天には殺気の横はるを見るに至れり。吾輩は第二期の政論派即ち
権論派
を直別して四種と為せり、其の中に悒欝的論派とも云ふへき慷慨
民権派は実に薩摩なる西郷氏を欽慕するものに係る、而して快活的論派
とも云ふへきは即ち土佐の板垣氏に連絡ありて其の根拠を大阪の立志社
連に有せり。十年の乱は実に政界を一変せり、夫の一派の民権論者は西
郷の敗亡と共に殆んど其の跡を絶ち、或は官途に入り或は実業に従ひ又
或は零落して社会の下層に沈没し去れり、快活的の一派は之に反して益
々其の勢力を博し、当時西郷の敗亡を袖手傍観したる板垣氏は独り民権
派の首領たる名誉を擅にして政界の将来に大望を有するに至る、是れを
十年十一年の交に於ける政論の一局状と為す。
兵馬の力を以て政権を取らんと欲するものは此の時を以て殆んど屏息せ
り、之と同時に政論は殆んど全国に延蔓するに至る。関西地方は土佐の
立志社大阪の愛国社即ち夫の快活的論派を以て誘導せられ、関東地方は
多く夫の飜訳的論派に動されたり、而して夫の折衷的論派は関の東西を
問はす凡そ老実の思想を有する者皆な之を標準とせしものに似たり。十
年以後一二年間政論の全局は以上に述へたるか如し、此の間に於て政論
は幾分か高尚の点に向つて進み、自由民権の説は夫の王権及ひ政府権威
の理と共に世人の漸く講究する所と為れり、是れ実に第三期の政論の萌
芽と云ふへし。且つ当時の一政変は政論をして益々改革的方針に向はし
めたるものあり、十一年の中頃、時の政府に強大の権力を占め内閣の機
軸たる所の一政事家は賊の兇手に罹りて生命を殞したり、岩倉右府の力
量を以てすと雖も抑制すぺからざりし二三藩閥の関係は之か為めに幾分
か調和を失ひ、政府部内の権力は再ひ一致を欠き遂に種々の政弊を世人
に認めしむるに至る。
西南の役に当り兵馬倥の際に矯激の建白書を捧け、平和の手段を以て
暗に薩州の叛軍に応したる夫の土州民権論者は、大久保参議の薨去を見
て再ひ其の気焔を吐き、度々の有志者を促して国会開設の請願を為さし
めたり、遂に国会期成同盟会なるものは成立せり。此の同盟会なるもの
は即ち第二期政論より第三期に遷るの連鎖にして、猶ほ第一期の後に於
ける民選議院建白と殆んと同一の効力ありき。次に第三期の政論に前駆
を為したるか如きものは大隈参議の退職なり、此の政事家は曩に征韓論
に不同意なりし人なり、多分夫の民選議院建白にも不同意なりし人なり
大久保参議の時代には現政府の順良なる同意者なりき、而して当時に至
り俄かに政府に反対して民間の国会論者に同意を表したり。此の政事家
は国権論派にあらすして国富論派なりき、政事上に向つては板垣氏其の
他の人々に比して寧ろ保守主義の人なるや疑なし、而して十三年の当時
に在り速に国会を開設すへきことを発論し、他の内閣員に合はすして職
を退きたり。此の一政変は第三期の政論に頗る大なる誘起力を与へ期成
同盟会に入らざりし大の飜訳的論派は一変して一の強大なる政論派を成
すに至れり、而して隠然保守主義を取りたる折衷的論派は全く政府の弁
護者と為りて他の二政論派に反対を為したり是を第三期政論の啓端と為
す。