第二 民選議院論

戊辰の大改革は或る点に於ては新思想と旧思想との調和に起れり、或点
に於ては主戦論と主和論との譲歩に成れり、去れば維新以後の功臣政府
に此二分子の存在すること自然の結果なりと謂ふへし、学者間に於て政
論の二派に分かるゝ以上は、其の反照として政事家間にも亦た隠然両派
の党を生するに至らん、何となれば当時の政事家は特に知識の供給を学
者輩に仰きたれはなり明治七年に至りて一派の急進論者は突然政事家の
社会より出て来れり、是より先き、時の廟議は既に国権派と内治派との
二大分裂を孕み、度々政事家間に衝突を起したりと云ふ、明治四年廃藩
置県の業成りて後、内治派の巨擘たる岩倉公は欧米回覧の企を為し、木
戸、大久保、伊藤の諸官を率ひて本国を去れり、是に於て廟堂は西郷大
将を始め副島、江藤、後藤、板垣の諸参議を残し、殆ど国権派の世と為
れり。勝、大木、大隈の諸政事家は此の間専ら其の主任の政に鞅掌し廟
堂の大義は多く彼の人々を以て決定せしにあらさる歟、遂に征韓論は諸
公の間に勢力を占め、六年の中頃に至りて益々其の歩を進めたるものゝ
如し、同九月に至りて岩倉大使の一行は欧米より帰り皆な此の議を聞て
固く其不可を論じ、終に所謂る内閣分離を見るに至る、此の分離は翌年
に及んで彼の有名なる民撰議院論に変じ、立憲政体催促の嚆矢と為れ
り。
一種特別の事情より突出したる此の急進論派は夫の二政論派と如何なる
関係ある歟、吾輩は、前に述べ置きたる如く、今ま其の裏面を穿鑿する
ことを敢てせす、表面上より之を見れば当時の学者間に現はれたる国権
論派と相ひ照応するに似たり。当時に在り法制上の改革を主張したるも
のは実に此の論派なり、政体上の新説を立てたる者は此論派なり、特に
政府部内に在りて時の政事家に新思想を注入したるものは皆な此の論派
なり、去れば民撰議院論は大の国権論派より産出したりと謂ふも豈に不
可ならんや。夫れ真理を説きて人に示すは学者の事なり、其説を聞きて
之を行ふは則ち政事家なり、学者なるものは必すしも其の説の実行を促
さす、唯た政事家は機に応じて之か行否を決するのみ、吾輩は当時の民
選議院論を以て学者の論派と為すにあらす、然れとも権力を失ひたる政
事家が其の持説として唱道し、大に世道人心を動すに至りては則ち一の
論派と見做すに於て妨けあらじ。此の急進論派は他年の民権説に端啓を
与へたるや疑ふへからす、而して当時に在りては第一に其の師友たりし
国権論派の反対を受け唯た一時の空論と見做されて止みぬ、是れ豈に気
運の未た熟せざるが故にあらすや、然れども爾後一年を経すして士論は
此の急進論を奉じ所謂る民権論は政府に反対して勃興するに至る。
民選議院論派は第一期の政論派の後殿として興り、第二期の政論派たる
過激論派の先駆を為せり、吾輩は此の両期の続目に於て夫の政論史上記
臆すへき一の出来事を略敍せさるへからす、当時新に帰朝したる岩倉大
使の一行は一の政策を抱き来りしや疑なきが如し。思ふに夫の国権論派
は民権論を主張するには至らさるも頗る自由主義を是認し、専制政治に
向つて遠慮なく非難を加へたるに似たり、国富論派と雖も此の点に於て
は殆んど同一の論旨ありき。加藤氏が軽国政府と云へる題にて述ぺたる
短文にも「人民をして敢て国事を聴く能はざらしめ以て恣に人民を制圧
せんと欲する所の政府は余之を目して国家を軽んするの政府と云ふ」云
々と明言したり。神田孝平氏の財政論にも「人民は給料と費用を出して
政府を雇ひ政を為さしむるものなり」などの語ありて頗ふる自由的論旨
を猶予なく発揮したり、而して政府は毫も此等の論述に嫌忌を挟ます、
当時は実に言論自由の世にてありき。
国権派の政事家、即ち後の民選議院建白者は政策に於て粗豪の嫌なきに
あらざれども、其の気質は正大を旨とし、学者の講談志士の横議に
は毫も危懼を抱かす、寧ろ喜んて聴くの風ありき、特に旧幕吏の圧制に
懲り又欧米各国が言論の自由を貴ふことを聞き深く此の点に付て自ら戒
めたるか如し。征韓の議は端なく此の政事家等をして其位を去らしめ、
廟堂に残りたる他の一派は此に至りて始めて民間に強大の反対党を有し
たり、然れども此の分離が寧ろ岩倉右府一派の希望に合したることは爾
後の政策を見て推知するに足る。彼等は欧米回覧に於て各国の政府皆な
同主義の政事家を以て組織することを実見し、及ひ政府の威力を保つ為
に幾分か言論の自由を抑制することを発見したるや疑なし、此の分離以
後は政府に奉仕する学者復た旧時の如く政論を公にすることなく、是等
学者の機関たる明六雑誌の類も暫時にして廃刊し言論の自由は是より漸
く退縮の期に臨めり。