福本日南篇




  菅沼貞風君卒す


明治二十二年七月六日菅沼貞風君病て真韮府の客舘に没したり、鳴呼今日国家内外多事の時に当り有為有望の士君か如き者を失ふ、上、国家の為めに天を呼ひて哀惜せさるを得んや、鳴呼狷介孤立訂交広からさるの余を以て一朝同感同志の士君か如き者を喪ふ、下、一身の為めに地に号ひて慟哭せさるを得んや
余や汨々早く一世の半はを経過せり此間知友故旧の永訣を告け不還の路に上りし者を数ふれは指屈するに遑あらす而して悲痛の情未た嘗て君か永眠を弔するより切迫なるものあらす是れ余か境遇の以て然らしむるもの歟余か年歯の以て然らしむるもの歟、或は時の以て然らしむるもの歟、終た交道の以て然らしむるもの歟、是等のもの亦或は之れあらん、而れとも余か感覚を打ち来るの最も切迫なるものは実に君か平生の人となりに在り
回頭すれは前年の夏余東京に在り一日客の余か草堂を叩く者有り其人を見れは年紀二十四五、躯幹短矮なりと雖も筋骨強健事に堪ゆ可きを示し、眼晴偏邪すと雖も敢為の気象勃々眉宇に溢れ一見して其異男児たる可きを知る、既にして其人卒然刺を通して曰く僕は菅沼貞風となす聞く足下日南の事に志有りと僕も亦足下と所感を固くする者なり乞ふ其意見を聴かんと余乃ち一二の管見を挙けて之を試む共人之に応し諄々懐抱を陳ふ議論風発言々皆肺腑より出つ是れに於て論難上下日の傾くを知らす次くに燭を以てす是れより両意相投して断琴の交を訂し十年の掩識に異ならす日に往来して日南の事を議れり
蓋し吾輩は常に以為へらく今の世界に国し其智力其武力其財力我に超越したる欧米の諸国に桔抗し能く我独立を維持し我国権を拡張せんと欲せは退守苟且の以て能く為す所に非す、夫れ純然たる防戦を為すなり、然も常守の勢を取ることは今世の兵家の決して許さゝる所なり、全国に覇たらんと欲して僅に一方を保つに過きさるは昔時の名将か予言せし所なり、国人挙りて国威を宇内に伸へんと欲するの決心ありて而る後ち始めて我独立を維持し我国権を保全するを得可し若し徒らに退守苟且以て独立の維持、国権の保全を望まは是れ亦支那となり土耳基とならんのみ、是故に今日の急務は国民の勢力を挙けて外に伸ふるの道を講するより先きなるは無し、我力役者の労働能く欧米の力役者に拮抗し、我工業者の製造能く欧米の工業者と角逐し、我商業家の商業能く欧米の商業家と競争するの地位を世界に得るに至らは大艦堅堡を造らす、巨砲大兵を備へすして独立の基礎は自から鞏く、国権の伸張は自から見えん而して其之に従ふは之を遐きに求めんより透きに求むるに若くは無く、之を其少数
 を容る可き地に求めんより多数を容る可きの地に求むるより書きは無し、
 願ふに今日日南の諸島、地廉くして人寡く、土美にして産多し、諸島若
 し我国人の手を措くことを許さは強健にして資産無き者は行きて勢力を
 試るに宜しかる可く、智力有りて資産を備へたる者は行きて商業を試る
 に宜しかる可し、三五の人十百を誘ひ、十百の士千萬を起さは近来我国
 に於ける毎年三十萬除の人口増殖深く憂ふるに足らす、西南地方の人口
 過多も亦之を威するに難からす、国家の富強期す可からさるに非す、国
 権の伸張望む可からさるに非す、而して一世を通現すれは海内有為の人
 士は概ね内政の改良に熟哀して外を願るの飴力を遺さす、鳴呼内政の改
 良固より急なり然れとも国権の伸張亦豊一日を寛にす可けんや、終に君


 と相均へて日南諸島の現況を硯察するに決したり
 是に放て本年三四月余は君と相績て東京を覆し深く二千里外熱帯圏内の
地に入り暫らく足をマレージー中呂宋の眞丑府に駐む蓋し眞韮府は群島
 の大都にして日南諸島百の事情を硯査するの便有るを以てなり爾来君は
地理、物産、製造、商業等の事項に就き探討議究夜を以て日に次き須央
も間断無し人皆其勤勉に驚かさる無し而して其問良や意に合する所有り
婿に一たひ辟朝して計量する所有らんとす後程己に十日の内を期す何そ
周らん本月五日の夜半卒かに篤疾に躍らんとは余等驚憧瞥を延き薬を佑
め看護甚勉む而して翌朝に至り病勢漸く革まる然れとも此時に至る迄君
か精神宅も耗磨せす環坐の人を願晒して其好意を謝し且つ尚ほ将来の希
望を談す既にして最後の期来る、君は一撃叫ひて曰く礪本君何虞に在る
や僕は亦君を祓る能はすと余は悲傷胸に充ち飲泣言ふ能ハす進みて余か
手を輿へ永訣の意を致す、此時君か攣眼既に明を失し口亦言ふ能はす六
日よ丁前十時小丁重しく一世の雄国を斎らして溢然也県≠並府の客舘に卒したり
享年箕に二十五歳なり
君は九州の一隅肥前平戸の士なり英人となり貿直にして飾らす、剛毅に
して擁ます、深沈にして決断に富み、周密にして思慮多し、其事を諭す
る毎に眼を全局に注き着資正確宅も浮乾ならす是を以て鵜者皆其老成の
見に服したり、然れとも君か始めて東京に出つるや年少気鋭天馬の勒を
脱するか如く先輩往々之か裁判に苦しむ、一例有り君昔て賛を秋月胤永
翁に執り其塾に入る在ること暫くにして塾中の臍輩君か強賽剛腹に苦し
み廣々翁に訴へて止ます逮に其門より逐はる然れとも翁、君か尋常の士
 に非さるを見て伺ほ詳々導きて止ます是れに於て君大に悟る所有り節を
折りて書を讃む爾来勤苦自から持す終に大草に入りて古典講習科を卒業
 せり、君か質直剛毅の人となりに加ふるに持身の謹厳と思慮の周密とを
以てしたるものは此問の工夫に成りしもの多かる可し
大挙の例畢生の卒業に際してハ各々一篇の文章を徹して其革力を試る之
 を卒業論文といふ君平生多く文章を作らす故に教師憐輩亦太た意を君に

 淀めさりし既にして人々文章を呈するに臨み君は「日本古代商業史」と
 題する一筋を革し我国の海外各国と通商貿易せし古今の事頗を列挙し商
 業を以て我国を建てさる可からさる所以を論断す此文重欝累巻、紙数々
 千葉に捗り引拳の正確、論断の明快、蓋し一世の大著述なり、是れに於
 て一校皆驚かさる者無し、而して君か日南の事業に志せるもの亦一朝一
 夕の故に非さるを見る可し
 咋二十一年の夏君か古典科を卒業して大挙を出るや其卒業論文君を先輩
 に紹介し幾何もなく職を東京高等商業学校に奉し再ひ日本商業史の編纂
 に従事す、而るに君は夢凍の間も未た曾て日南の事業を忘れす、一義人
 有り君か志を憐み数百金を出して日南行を資く是れに於て君は大に力を
 得日夜租勉して商業史中共槍任せし部分を次第し了り仇て其職を辞せん
 ことを乞ふ校長某、君を惜み且つ年壮経験に乏しく其或は事を誤らんこ
 とを恐れ静止するもの再三、然れとも君か志の終に奪ふ可からさるを見
 て之を聴す是れに至り多年の宿志一試の横合を得て決然鵬程に来せしは
 僅に五ケ月の前に在り而して満腹の経済未た宅も伸ふる所あらすして其
 身先つ日南の土に化したり
 君か人となりを見れは醇粋にして長山の瑛玉の如く、君か志想を見れは
 堅確にして恒河の金剛石の如し、是れを以て先輩の君子深く君を親愛し、
 同年の朋友亦深く君を敬重せり、余か硝介を以て伺ほ君に輿みするに奇
 傑の士を以てせり天若し君に仮すに十年を以てせは共国家に幸する決し
 て砂少ならさりしならんと信するなり、鳴呼戦国の時に官りては一矢且
 つ惜む可し況や隠然たる一敵図の如きものに於てをや金堂国家の魚めに
 君を悼み一身の馬めに君を惜まさらんと欲するも得んや、君か著述に
 「日本古代商業史」及ひ「頗南の夢」有り、其他未定稲敷種あり余異に
 フイリツピーヌ群島に於ける日本人を革す而して英資料は君か周南の夢
 に得るもの多し
 君か病起るの夕なり人々晩餐を了りたる後ち一堂に在りて雑談時を移す
 中に就きて偶然の一語有り君か長逝の意識を為し又君か父母に対する孝

01

情の紀念と偽れり、人有り講次人生の期す可からさる朝たタヘを国らさ
るの事に及ひ因て生命保険の必要を拳けて云く身後の計無き者は死して
且つ葬る能はすと、君側らより突然語を拝みて曰く僕も亦辟朝せは必ら
す約を生命保険曾杜に訂す可しと、其言眞率深く身後を慮るもの1如し、
余大笑君を嘲りて曰く男兄事を殊域に困る青山境野宣皆我好真田に非す
ゃ何そ其れ葬資を用ゆるをせんと、君之に應して曰く然り、故に身後の
計を要す、吾倦固より身を以て事に許す今日裁に在るも何れの時何れの
虞に小るゝや改め知る可からす、僕兄弟無し、而して僕の二親尚ほ春秋
多し、僕にして一旦二親に先た1は誰か二親営生の苦を助くる著そ、僕
の生命を保険せんと欲するものは務め若干の金を留めて二親老後の需に
充てんと欲するか為めのみと、是れに於て余は深く君か用意の周到なる
と孝情の隆漫なるとに感したり、既にして各々嬢に就く夜半俄かに病起
り翌朝終に起たす、余は想ふて嘗夜の談に至れは悲感胸に塞り沸油日に
満ち復たひ此稿を績くる能はす
君か邁骸は眞韮府の西南一里四方噴潤極目平原の中一丘隆起する魔の地
異勝ケ岡の上に於で東北を枕にし首丘の義を存して之を葬る、鳴呼君の
逝くや早くして未た其効果を見るに至らさりしと雄も君は貨に日本人土
中身を以て先つ日南の事業に殉したる者なり巽くは海内同志の人士穎々
興起して君か志業を完成し国家百年の大計を清爽に策せんことを
            眞韮府の客舘に於て日南居士誌す
                    (明治二十二年八月二日「日本」)