雨政事家の政略に感有り

   はつせい                               そんりつ
 其餞生の内よりせしと又外よりせしとを間はす、共存立の古昔より来り
    .はん一ぎん
 しと又挽近より見はれしとを問はす、科学、科学、凡そ一科挙として今


    しゃくわい     がくもん
日吾人の敢禽に有する所の学問は数千年以雅語人々頬か数十古代を重ね
 こうきうじつけん       とくいう
講究貰験し来りて始めて得有せし所の一の結果に非さるは無し、則ち之
       レジユメ
を講究賓験の線計と構するも亦不可なかるぺし、吾人今日此都祁鮮蹴の
    けういう
総計を享有するの慶に頼ることを得たる者は能ふ可き丈け之を吾人の社
  り 上う                けんし     げんしやう
曾に利用することを忘る可からす。今夫れ物体の琴不せる自然の現象を
         せいしつ            さ よう
知り、又其自然の性質を以て他の物体上に働くの作用を暁らんと欲せん
                            へんくわ
歎、物理学なる科挙に就くことを要す。若し又物体の襲化に通し、叉其
      ほうごう      い せい
原物体数種の抱合を以て新たi浦佐の物体を生するの作用に明かならん
 と欲せん歎、須らく化寧なる専科を講すへし。人有り之を外にして自家
    こうあんし けん            どくとく
一個の考案私見を以て其所謂総計の結果を濁得せんと欲せん歎、徒らに
                     む え▲き
 前人か累世重代講究賓験せし道行きの跡を無益に再演せざる可らず、而
          く しんさんたん                 じようき
 して其物理上項人の苦心惨憺の間より出てたる引力の理の如き、蒸気の
                 どくhソ上く
餞明の如き、後人卜渦の濁力を以て果して之に達し得可きや呑やを期す
 可らす、好し慣令僚倖にして之に達し得たりとするも今日に在りてハ菜
 既に世に知れ切りたる道理たるに過きす、是れ眞に愚の至りに非すや、
  い じ   へいじ   せいじ   けいざい     ほうりつ
 其他留事なり、兵事なり、政事なり、経済の事なや、法律の事なり、几
                       をヽノ上人ノ
 百の事に捗りて皆然らざるは無し、科挙の應用量止むを得んや
 よ この
余頃ころ近世史を讃み近世に有名なgに個の政事家の政客と及ひ其政略
  けつくわ
 の結果とを案し深く史寧の政事家に必要なるに感する有り。蓋し内外園、
                       せんしゆほんよ▲ノ
 古今世、文明進歩の度よりして之を観れば千種萬様の相同しからざるも
           Aノんこうさ い
 の有りと錐も、人顆の運行作為には元と自から天則の在る有り、国家人
     せいすいこうばうせいはいしエうち上う                           いつていふ どう
 民の盛衰興亡成敗滑長せし跡より之を察する時は其間一定不動の季ふ
                           じんるいてき上ノんこう
 可からざるもの有り、而して史学なるものは費に此人類的連行作為の絶
                                 ころノきスノ
 計を吾人に輿ふるの一科挙なれは吾人ハ日常之を講究して能ふ可き丈け
    い りう           書いゑん
 前人の遺留せし良果に就き、慈果を再演するの愚を避けさる可からさる
 なり
                             せいりやく けつ
 夫の近世史上有名なる二個の政事家徳川家康及ひ井伊直弼の政客と其結
 くわ             つうしようばうゑき      ふ Cつ ぞう
 果とを見よ。家康夙に海外諸国との通商貿易を盛にして我観の富貰を増



 しん                         じ げム せうれい
 h堪せんと欲し、其将軍たり、大御所たるの間、毎に是等の事業を奨励し
      もくてき
 て以て其目的を逢せんことを勉めたるは讃者の皆能く知れる所に非すや、
                い げ すいたい      へいさ
 而して共通商貿易ハ数十年にして萎徽衰退し終に海港の閉鎖を以て其跡
 を失ふまてに辟したるものは果して何にか由る、他無し、家康の外交政
   ぜんぜん
 署は全然政略上の関係を絶ちて単に通商貿易の事業に止めんと欲せしを
 以てなり。抑よ海外通商の事業と政略上の関係とは一連鎖の中に在り、
 故に外国と一たひ通商貿易の事業を興せは従て英国と政略上の関係を生
 す可きは固より避く可からさるの教なりとす、然るに彼を欲して是を悪
                              さ こ▲ノ しよち
 まば勢ひ通商を廃せさるを得す、是れ英子及孫に至り鎖港の虞置に出て
              またわがくに   だいせいじ か      あに
 たる所以なり。然れとも家康も亦我図に於ける大政事家の一人なり、豊
 くわいがいつうしようじげ▲    くわんけい   れんさ
 海外通商事業と政略上の関係との間に連鎖の離る可からさるもの有る
   たんじゆん                  けつか
 か如き単純見易きの理を知らさる者ならんや、両して其結果の此に至り
              くわんけい          しんろ
 しものは是亦所謂「政略上の関係を薄くして通商貿易の針路を取る」と
    せいりやく
 の小腸政略に出てしものに非さる無きを得んや、鳴呼、此政略誠に差ヘ
                      ム じつ  しゆくさつ   そう
川、些差ハ終に千里の謬となり我国の元気と富貰とを粛殺して以て創
痍を明治の今日にまて残留したり、但た扶れ家康に在りては外交上前人
         れきし                               またふか
 の遺留せし歴史の好適例を有せされは其謬見を取りしも亦深く尤むるに
                        かうてきれい      しゆ
 足らすと錐も、明治の今日、人有り斯かる著明の好適例を威す同一の手
 だん      このご ぴうせいりやく みちゆ
 段により再たひ此誤謬政略の道行きを演する者有らは、英人の愚も亦費
                                     ふ
 に太甚しきに非すや、英人の愚は余れ関せす、濁り之より来る国家の不
 こう い かん
 幸を如何せん
           はくふ たいらう  ないぐわい せいむ
今又挿して徳川氏の末年幕府の大老として内外の政務に当りし井伊直弼
  い りう  し せき
 の遺留せし史跡に見れは人をして感更に深きこと一層ならしむるもの有
     ぐわいかうでうやく しよぐわいこく ていけつ      くわいないいうこく
 り、直弼の外交條約を諸外国と訂結するに官りてや海内憂国の士にして
   い けん               はんたい
 己れと意見を異にする者四方より起つて其條約に反封するを見て一切是
      きつりくけいしう げんみつ
等の志士を殺教繋囚し厳密に之か運動を止め、而して其薫長野主膳の徒
            ふるま      もくてき        じゆく
 をして忌惇無く京江の問に振舞はしめ以て其目的を達したるは世人の熟
 ち      このし上ち    はんたいしや
知する所なり、此虞置たる一時反封者の働を止め、反封者の撃を絶ち、
                 ペんr、               おく
 自業の裳論を質行するに於て良や便宜なりしなる可しと錐も、斯かる臆
 びやう    ざんばう   しエち                                ふんえん けい
 病にして残暴なる虞置は天下の共に服せさる所にして偶ま以て慣怨と軽
 ぶ
 侮とを買ふの原となり此時に至るまて幕府を倒すに意無かりし天下の志
     そんわう            ぜ にん
 士をして尊王の二字外更に倒幕の二字を是認せしめ直弼か切角に千歳の
                   ▲ノんめい
 後ちまて保支せんと欲したる幕府の運命をして却て十数年間まて短促せ
 しめたるに非すや、此資験は今を距ること箕に三十年に退きされば今日
 たうろ はんはく          なほき おく
 嘗路斑自の諸公は親しく見聞し倫記臆せらる1所なる可し、我国既に斯
               みちゆ  さいえん
 くの如き好賓例有り、今日宣其道行きを再演するの愚に倣ふ可けんや、
 而るも人有り目下若し又此道行きを再演し自薫中似て非なる償長野主臍
 の徒に開き反封入士のロを籍し手を縛して其連動を妨け一切志士の感能
                    てうりやうはつこ
 を奪ひ、其傍に於て償主膳の徒をして其跳梁版庖を達くせしめ以て自真
 の目的を達せんとする者有らは或は一時其事を偽合する猶ほ井伊直満の
                              せうらい
 外交條約訂結の時のことくなるやも未た知る可からすと錐も将来是より
     けつか
 来す可き結果の如何は務め深く今日に慮らざる可からざるなり。鳴呼今
                                                  上▲ノiとく
 の日本是等家康垂準一政事家の資験せし悪果を一身に兼ね潰して揚々得
 しよく              きんし
 色有る政事家無きを必せす、余近史を讃み二氏の事に鑑み深く史寧の
 政事家に必要なるに感有り、謹て後ちの小事に智にして大体に暗き政事
         これら せいじ か      だいもんだい
 家に告く。若し夫れ是等の政事家にして目下の大問題を取りて之を史学
                               けつくわ
 に徹するに意有らは世に波蘭史及ひ換及史の在る有り余宣敢て其結果の
 い かん 上し上人ノ
 如何を漁語するを辞する者ならんや
                   (明治二十二年九月十七日「日本」)