革命の理


(天)

国なるものは国家に由りて代表せられ、国家なるものは政府に由りて代
表せらる、故に国民たる者は政府を尊敬せざる可からず。兼ねて政府に
服従せざる可からず、之を為国の経といふ、惟だ其れ国家といふものは
正義を持して公道を行ふを以て其本然の任と為す、故に国民が政府を尊
敬し服従するは、其政府が善く国家の任務を代表し、正義を持し公道を
行ふの限りに於て其義務あるものと為す。然れども政府なるものは元と
人を以つて構成せられ、而して人には即ち正あり邪あり忠あり姦あり、
若し不幸にして政府姦邪の徒が手に落ち、国家本然の任を蔑し、単だ其
権力を妄用して国を非命に沈淪せしむるあらんか、其政府は正しく国家
の意思に反するものにして、自ら之が代表者たるの資格を喪失したるも
のなり、彼が如きの政府に対しては国民たる者は啻に尊敬及び服従の義
務なきのみならず之を廃して更に正当なる代表物を建立す可きの義務あ
るなり、之を為国の権と為す。
国家の生命は永遠不死を期す、而して忠正の士必らず世々進まず、姦邪
の輩時ありてか局に当る、若し其れ姦邪の輩をして局に当り、政府を代
表せしむるあらんか、国家の生命朝た夕べを期せず、是に於てか権道以
て之を救ふ、而して経道復して全たし。故に為国の道は経と権とに在り、
是れ天の国民に許す所にして、万古に亙りて誣う可からざるものなり、
鬼神に質して疑ふ可からざるものなり、而して権道の発動之を革命とい
ふ、革命也は時ありてか国に無かる可からざるものなり。
唯だ其れ革命なる語は人の視聴を驚かし易し、従ひて誤鮮を来さゞるの
恐なき能はず、故にわれ嘗て『日本人』に於て之を弁しゝことあり、復
たび此に之を挙げん
 われ今ま革命の必要を主張せんと欲するに当り、予め一言して意義の
 誤解を避けん。抑々支那に謂ふ所の革命なる語は天の命を革むといふ
 の約語なるが如し、蓋し支那の古に在りて帝位を践む者は、自ら称し
 て皇天の御子即ち天子といふが如く、其帝として一国に君臨するは、
 皇天の命に由するものゝ如く信しゝならん、従ひて其帝位を廃し己れ
 代りて之を践むときは天の命を革むとは称しにけんか、然れば革命な
 る語は吾人の夢想にだに上らざる所、何ぞ況や之が必要を主張するに
 於てをや。
 今ま我謂ふ所の革命は之に異なり、海西に称する「レヴオリユーシヨ
 ン」即ち政治の変革を暫く革命と名くるのみ。蓋し命なる語に精神の
 義ありとせば、政治の精神を変革するの挙を指して之を革命といふに
 於て、穏当を欠かじと信ずればなり、若し其れ明治戊辰の政変、彼が
 如きの挙を以て、彼が如きの業を成すを維新といはゞ、我謂ふ所の革
 命は即ち維新の意なり、若し又彼が如きの挙を以て彼が如きの業を成
 すを根本的改革といはゞ、我謂所の革命は即ち根本的改革の義なり、
 乃ち維新の必要、根本的改革の必要を主張せんと欲するに過ぎざるの
 み。
我謂ふ所の革命なるもの其れ諒とするを得んか、之に関しては西人亦夙
に其意を致せるあり、シヤルゝ、ド、レミユザン等が所謂『其目的や則
ち真実に、其主義や則ち公正に、其行為や則ち邁嘗に、其結果や則ち事
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頑に、其事業や則ち鰭紹す可き、是れ之を十九世紀に於ける革命の紳髄
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と為す』と、是れ亦我志を得たり、革命也は時ありて囲に無かる可から
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ざるものなり。
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厳ふに一世の人概ね綻造の尚ぶ可きを知りて、樺造の無かる可からざる
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を知らず、政府に衣食する者に論なく、皇漠の古拳者も、西寧の新拳者
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も、甚しければ根本的改革をロにする政窯政祀の諸人士も樺の義を知ら
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ず、又樺の義を思はず、樺道をいへば乱臣賊子たらんかと長れ、革命を
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いへば共和政治に傾くかと驚く、一世斯くの如く後世も亦斯くの如くな
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らば、経造も亦死せん、圃を危くするものは茸に此死経に在り、われ請
ふ之を古今に徽せん。
(地)
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蓋し囲といふものあれば、其政饅の如何に論なく、革命の畢時に己む可
からず、他邦の事は暫く摘き、一たび我朝の歴史に就きて之を同憶せょ、
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如何なる忌革命論者と雉も、裕然として革命の図に無かる可からざる所
以を頓悟するを得ん。看よ皇朝の十五世紀に至るまで我囲の政植を専に
し1者は蘇我氏の一族には非ずや、若し一たび天智の革命を経ざらまし
かば、園家の危殆其れ之を如何と魚すや、囲民の不章其れ之を如何と馬
すや。近くは維新の革命の如きも亦然り、若し其れ官日此革命の壮畢を
一経し来らずば、皇威の光被と人樺の伸暢と以て今日の如くなるを得る
能はじ。而して蘇我氏や徳川氏や皆な時の政府を代表する所のものなり、
若し今の論者の如く、政府に封し革命の畢に出づる者を以て乳臣賊子と
為すあらは、天智鎌足は皆乳臣賊子なり而して推新中興の元動三條岩倉
の諸公より西郷木戸の諸氏に至るまで、亦皆乳臣賊子たらん、乃ち其未
光を仰き飴澤を蒙りて今月今日政府の要路に立てる公侯相清亦又乳臣賊
子に非ざるは無けん、天下寧ろ此理あらんや。
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伶ほ詳に之を言へば、蘇我氏の政府や徳川氏の政府や囲家の本旨に背反
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し、園家の生命を残賊するものなり、囲民の之を争敬し之に服従するの
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義務は此時眈に絶えたるものなり、此義務眈に絶ゆ、之と同時に正富に
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圃家を代表す可き眞誠の新政府を創立せざる可からざるなり、是れ亦図
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民たる本然の義務と為す、為囲の樺とは則ち是なり、革命也は賓に此植
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の磯動なり、天智の革命や維新の革命は此樺の賓行に外ならず、天下今
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に至るまで一人の其盛拳に疑なき者は囲民の自ら此樺に獣契冥識するの
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明徽なり、而して今日革命を言へば論者の愕胎遼巡するは何の故ぞ。
且つ革命の時に無かる可からざる必要は濁り此に止まらず、図家を代表
するの政府は常に人に由りて表彰せられ、而して人は動もすれば必要以
外に政府を膨脆せしめんとするの傾あり、挽に我図の如き園制に於ては
最も此傾向を長するの弊あり、此弊をして際限なく滋蔓せしめんか、人
民の幸両は拳げて政府の犠牲に上る可し、之を救ふは又革命に在り、わ
れ叉昔て『日本人』に於て之を言ひしことあり、
惟ふに我園の革命は、藤原氏の革命、源苧氏の革命、北條氏の革命、
足利氏の革命、織田氏の革命、豊臣氏の革命、徳川氏の革命、薩長氏
の革命、之を革命の甚大尤著なるものと窺す、若し我囲にして一も是
等の革命を経ず、而して圃初以衆の政府依然として継々承々し来らん
か、帝室を囲続し〜蘇我氏の一族、朝廷に充滴し1藤原氏の一家、藷
州に散在し1諸源の後裔、三十鎗州を分領し1平氏の一其より、降り
て北條、足利、織田、豊臣と、就中自家の兄弟子孫恩願譜代を以て海
内を専有し1徳川氏とは、今の薩長氏以外に皆貴族たるの利と樺とを
有し、其生清を囲家の上に托し1ならん、斯くの如くば三分の人民に
七分の政府を有するに至る可く、園何を以てか生存することを得んや、
印ち以上の数革命を経、其度ごとに後者は前者の特植を奪ひ特利を収
め、其大分を治者より引卸し、之を被治者の列に降し1が故に一国の
樺衡僅に推持する所あり、不十分ながら人民今日の幸頑を享布するを
得たりしなれ、革命其れ己むを得んや。
治者の一たぴ園家に擾り其特樺と特利とを聾断するや、一般に封して
は口賓なかる可からず、是に於てか何れの治者も口を閑けば則ち日く、
賓族なるものは皇室の藩屏なりと、膏だ貴族を然りといふのみならず、
治者全饅を合して皆皇室の藩屏となす、現に今の薩長氏より吾人の日
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々稔聞する所、呼是れ賓に笑ふ可きの至りなり、我園に於ては四千飴
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萬の民皆勤王薫、全園を通じて悉く皇室の藩屏ならざるは無し、謂ふ
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所の非動王某、反帝政篤なるもの何虞にかある、斯る目出度き囲柄に
緋い、仰ぞ」針が酢尉がが酢際iγ封卦が軒酔い軒ががが軒がjで
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其藩屏と稀する者の十の入九分は、其賓00000なるのみ今の00
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00に於て最も其然るを見る。
薩長氏一たぴ政府に接りしより業に己に三十年、もろ′′〜の特樺と特
利とを収めて悉く二家の私門に集め、一族薫輿に五裔を授けたる者無
慮敷官人、其他動位恩金に食む者に至りては、拳げて教ふ可からず、
若し構密に其中に就き直ちに殊動偉功の士を求めんか、其教宣幾何あ
らんや、其の他自家の功名の馬に乃至私恩を費らんが馬に、図民の慶
礪如何に干はらず、囲家を檜大し1こと振古未だ曾て其此を見ず、呼

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是れ冷眼忙して地郷すぺきものとなすか。
願ふに以上列畢し〜革命中には、眞誠の革命を以て日す可からざるもの
亦これあり、丙も政府燕用の膨大を裁節したるの効能は毎度之を伴なひ
たるを認むるを碍ぺt革令其れ無かる可けんや。
(明治二十九年六月十五1十六日「日本」)