板垣伯
明治維新の大改革は薩長圭たる原動カたりしと錐ど鴻土肥も亦輿りてカ
あり、就中土は最も力あり、故に天下は薩長土を聯呼して以て其の功を
稗しにき」『雨のふる楼に銭砲の玉の来る中をトコトンヤレトンヤレナ
命も惜まず魁するのが薩長土トコトンヤレトンヤレナ』の促詰は今に至
り入をして首時の状を迫想せしむるに足るものあらん。其の幕府恭順し
て東北も亦た苧らぎ、庶政太政官より出づるに及び、三藩一流の士は概
ね辟りて藩に就き、政府に坐する者は二流以下の士に過ぎず、是を以て
三閥毎に相軋りて為政潮樽たらず、且つ尾大不捧の勢あり、是に於てか
長老を起して其弊を匡正せんとの議あり、明治四年(?)薩よりは西郷、
長よりは木戸、土よりは板垣を畢げて参議と為し、以て大政に参せしめ
ぬ、之を板垣侶が第一同の入閣と鳥す、伯が政府に重祓せられたること
未だ是時より盛なるはあらじ、郎ち稗して板垣伯全盛の時代といふも亦
不可なけんか、明治七年西郷江藤副島の諸氏と征韓論を主張して志を得
ず、終に諸氏と冠を捷け、決を聯ねて政府を去れり、此進退出虞に祀れ
ば伯も亦重んず可きものあり、宜なり普時天下の伯を囁稲し1や。
侶の一たび政府を退くや、江藤副島の諸氏と共に民選義院の設立を建議
し、以て一世を風靡しゝ、合ミ政府にも木戸氏の如き義院制度に私淑す
るの士あり、伯等と輿に西のかた大阪に曾合し、婿来の政針に舶し協議
する研あり、常時世人は之を稗して徳星大阪に衆まるとまで謂へり、惨
議の紬果は伯筏た入りて参議となりぬ、之を第二同の入閣と為す、此間
だ伯は竜院制度の取調に裾事すと聞えしが、明治八年立憲の聖詔あり、
尚ほ伯の翼賛多きを想望し1、眈にして其意見他の諸参義と相容れず、
復た廟堂より引きて去りぬ、乃ち伯が第二岡の進退出虞に於ける亦政事
家たるの徳操を失はザ。
爾衆伯は野に在りて或は立志杜に、立憲政篤に、愛囲公薫に、自由賞に、
紹えず之が牛耳を取り、十飴年間常に自由民植の論を主張し、以て専制
を喜ぶの政府に反封し、藩閥政治の積弊を打破し、立憲政治の楕紳を蜃
揺するを以て自ら任じたり、伯にして幸に此際だに穀しなば、東方に於
ける自由民樺家の鼻租として、ジヤンジヤツタ、ルーソー輩をして美名
を西方に檀にせざらしめたるならん、惜む可し伯の晩年、志は齢と輿に
傾覇し、遽かに官貴と植勢とを懸羨し、二十飴年打破を以て自ら期した
る藩閥政府の憐を乞ひ、二三年来頻に其歓心を迎へ、本年の議合閲くる
に及びては、一切平生の素論を棄て一薫を率ゐて藩閥の脚下に旬旬し、
一意専心其指命に屈従し、之が恩賞として一脚内務の椅子を嵐得し、揚
々自得するには至れり、之を伯が第三の入閣とは馬す、是に於てか天下
の人皆な弾指して伯を待ち、二十年の清節は泡沫と滑えて痕なきに至れ
り。
夫れ伯が第一の入閣には西郷木戸を以て待たれ、第二の入閣亦木戸氏等
の伴たeを失はず、而して最後の入開は嘗時の子弟たりし伊藤の牛馬走
とは為れり、何ぞ其の前に重にして後に軽なるや、且つ其一二南同の出
虞は意見の離合行香を以てして、一今は則ち初よ打反封なる政針の内閣に
は就けり、何ぞ其の前に清にして後に濁なるや、若し常識より之を推せ
ば、一楼の人にtて南般の拳ある彼の如き、定に惑なき能はじ、然れど
も王葬も護倹士に下るの時あり、前の清属なる其本意には非ざりしやも
知る可らず、又願麒も老いては鴛馬に劣ることあり、今の髄劣なる其老
葛に坐するやも亦た知る可らず、且つ若くして少文を慕ひ、壮にして闘
争を好み、老いて利慾に玩るものは常人の常情なり、故に老者は之を戒
むること得るに在りといふ、伯が今日の拳は其れ老食の情に由るか、伯
が入閣たる必らず三者の外に出でじ、之を統ぷるに皆名審上自殺の畢な
り、伯に於てか何か責めん。
然りと錐も古来百歳の寿は稀なり、伯が腰支の七分は眈に荒革離々の裳
に在り、伯が飴生も亦幾何かあらん、天若し全く伯が衷を奪はずば、少
しく自ら思念すぺし、昔て非征韓論に憤激して廟堂を退漕たる伯にして、
遼東退附乃至朝鮮放却を敢てし且つ敢てせんとする内閣に就く、宜恥づ
る所あらざるか。昔て漸進薫政論に反封して朝冠を郷ちたる伯にして、
樺利問題を土芥硯する政府に腰を屈するは、宣潔き所なるか。昔て藩閥
打破を競呼したる伯にして、却て之を封植するの畢に出づる、堂醜とす
る所なきか。陪劣飴驚たる侶を以て僅に伴食宰相となる、われ其の今の
政府に於て能く為すなきを知ると錐も、伯にして一たぴ之に念到し、良
心に少しく恥づるものあらば、宜しく其飴驚を奮ひ、一たぴ噂昔の素論
を把りて之を閣上に主張す可し、われつやノト其主張に由りて囲家に補
禅せんとまでは思はずと雄も、只だ伯が晩節をして費めて少しにても面
目を保たしめんと欲するのみ、伯が西郷木戸の蕾知なりといふに由りて、
菊の毒の徐り一言を寄するのみ、但だ之を受くると受けざるとは、咋の
自由論者たるに免じ伯が自由に任ぜんのみ。
(明治二十九年四月十六日「日本」)