労働農民情況、一般民心の動向
(内務省警保局保安課木村事務官昭和二十年六月十二日)
一、労働農民情勢
最近の労働農民情勢中特に注意を要すると認められる問題に就て其の概略を申述べ度と存じます。
開戦以来の労働農民情勢は、一般的には前線に於ける皇軍勇士の勇戦奮闘に応へ各種の悪条件を克服して真摯敢闘を続けて参つたのでありますが、一部の労働者農民中には功利観念に支配せられ高賃金に眩惑されて長期欠勤による二重稼働、或は離農転職、供出物資の闇値横流しを為し、其の他生活不安を理由として労働、小作紛争議の発生を見る等、勤労意慾の低下並厭農思想は漸次瀰漫せんとする様な傾向も看取せられて此の種部層の思想動向は厳に注意を要するものがあつたのであります。
而して其の後特に最近に於ける戦局の急展開に伴ふ一般的民心不安の濃化は、必然的に労働者、農民層にも相当大きな不安動揺の様相を現出致しまして、何かと注意を要する事象が起る様になつて参つたのであります。
最近に於ける労働情勢の推移は、労働者の空襲に対する恐怖感並戦局観等を中心として之を凡そ二つの時期に区分して観案〔ママ〕することが出来ると存じます。即ち第一の段階は概ね昨年十一月頃から本年二月頃迄の期間で、此の期間に於きましては敵の空襲も其の規模、度数に於て未だ本格化を見せず、従つて此の間の労働情勢は直接爆撃の目標となりました工場に於きまする労働者の欠勤、遅刻、早退及び集団的待避事案の発生を見ると云ふ程度であつて、其の動揺は概して極部〔ママ〕的且一時的の現象でありまして其の復元性が極めて顕著であり、全般的には、敵愾心を昂揚し一般によく生産の重要性を認識して其の就労態度にも健実性の見るぺきものがあつたのであります。
然るに第二の段階、詳しく申しますと、本年二月十六日の敵艦載機の大挙来襲、更に又B二九を併用した大規模の空襲を見る様になりまして以来、戦局の不振と相絡みまして、特に被爆地帯労務者に極度の不安、動揺を与へ、其の思想状態は生産から遊離して極めて自己保全的となり、又其の言動等にも自棄的、敗戦的傾向が著しく濃化して参つたのであります。
以下梢詳しく極く最近の労働者の思想動向に就て申述べ度と存じます。
第一は生産から遊離した労働者の自己保全的な動向であります。最近に於ける特質的傾向として見逃すことの出来ない事実は、労働者の殆んど全般的に亘つて戦時下彼等に課せられました生産の重要性を忘却して自己保全に汲々としてゐる事でありまして、或は職場を放擲して無断帰郷し、或は疎開に便乗して長期欠勤するものが激増し、又勝手に安全工場に転換したり、安全な職種に変換したりする者が続出致しまして、其の出勤率は極度の低下を示すと共に著しい労務者散逸の傾向を現出し、目下のところ之等労務者の生産戦列への復帰は相当困難の実情にあるのであります。
第二に注意を要する事は労務者の戦意の低下と其の思想悪化の問題であります。最近に於ける戦況の顧勢と本土空襲の激化に伴ひまして一般に戦局の前途に対する不安感を極度に濃化したかの感があるのでありますが、殊に大都市居住労務者の悲観的見透しに基因致しますところの不安動揺は掩い難いものあるを看取せられ、其の戦意は漸次低下の傾向にあるやに見受けられるのであります。
而して又斯の様に戦局の不振を招来したのは、軍官等戦争指導者の責任であるとして、反軍、反官的態度を表面化し、或は公然と軍罵倒乃至は誹謗的な言辞〔を〕弄し、或は政府の戦争行政施来[ママ]の遅滞乃至は官公吏の執務態度の失当を難詰致します等、従来から其の心底に内包して居りました反軍反官的感情を露骨に表面化しつゝありますと共に、一部には厭戦反戦、自棄的傾向すらも看取せられまして労働部層の思想傾向は極めて注意を変する動向を示してゐるのであります。
以下は当面の戦局と空襲の激化を直接原因と致しますところの労働情勢の概略でありますが、更に従来から引続き発生して居りますところの労働者の生活を続け〔ママ〕る問題並生産現場に於ける上下対立の問題等も依然として決して軽視することを許されない状況にあるのであります。即ち労働者の生活を続る[繞?]不安は依然として解消を見せませず、食糧の不足、闇物価の横行、竝に二重生活等に基きまする生活は、戦局の熾烈化と共に益々困窮を加へつゝありまして、彼等は依然深刻なる不平不満を吐露すると共に具体的には職場を放擲して物資獲得に狂弄し、或は賃上要求争議の増加となり、或は又怠業ともなつて現はれてゐるのであります。
次に経営主脳者並工場幹部の無自覚的行為、態度に対する労務者の反撥は、之亦愈々顕著に持続せられつゝありまして、斯る原因に基く処の集団暴行、生産妨害、同盟罷怠業等の事象は益々増加の傾向を辿りつゝあるやに看取せられるのであります。殊に注意を要します事は、新規徴用工員並に学徒の一部に在りましては、戦局の重大性を忘却した経営指導者の営利主義的生産態度乃至は指導能力の欠如に対して極めて強烈な反感を抱き、露骨な反撥を為しつゝあることでありまして、斯様な生産現場に於ける上下の対立竝戦局を続[繞?]る労働者の不安動揺の間隙に便乗致しまして、最近労働運動前歴者の活躍も漸く活溌化の傾向にあるやに窺はれまして、最近の労働情勢は極めて警戒を要する状況にあるのであります。
次に農村情勢に就て簡単に申述ぺます。最近に於ける一聯の農政は概して耕作農民中心主義的傾向強きものがあります処から、小作人階層は愈々増長感を強くしてゐる一方、中小地主層は経済諸統制の強化に依りまして其の農業経営は漸次窮屈化し、困難を伴つて参りました為、往時に於ける様な社会的地位は次第に弱体化して参り、従つて其の指導力も亦漸く弱化致さうとする萌芽的現象が散見せられるのであります。而して此の間農民運動前歴者の指導部面への進出傾向も窺はれまして、斯様な情勢を以て推移致しましたならば、農村に於きまする社会構成は不知不識の間に其の根底に触れて変化を来すのではなからうかとも杞憂せられる節がないでもないのであります。又最近農村に於ける供出物資の闇値横流し行為は、漸く常識化致さうとする傾向にあり、加ふるに都市疎開者の農村に於ける闇の買出等が漸次瀰漫しっゝありまして、農民の純朴性乃至道義は漸次稀薄化して参り、更に一部には功利打算的乃至は厭農的気運から所謂飯米農家、職工農家に転落して離農減反する者も亦増加の傾向が窺はれますと共に、米麦等の供出を続る農民の動向に就きましても相当留意を要するものがあり、供出の重圧が今後の農業経営並農民生活への脅威を一層濃化するものなりとして、之が不平不満に基因する各種不穏言動は漸増且悪質化の趨勢にありまして、最近の農村情勢は思想治安並生産増強の両面より観まして極めて注意を要する状況にあるのであります。
一、一般民心の動向
大東亜戦争勃発以来、国内思想情勢は比較的静穏に推移して居り、治安上些したる問題も御座居ませんでしたが、戦局が愈々苛烈深刻化するに伴ひまして国内思想の動向は種々重要なる問題を内包しつゝ緊迫的傾向を辿りつゝあるのであります。殊に比島戦局の不振、硫黄島の失陥は沖縄に対する敵の大挙侵寇並に本土空襲の激化等戦局の急展開に伴ひ、一般民心の動向は戦況の不振、戦局に対する不安感より著しく悲観的、敗戦的感情を濃化して参つた様に看取せられるのでありまして、治安上留意を要するものがあると思はれます。就中大規模空襲の惨禍を直接体験致しました被爆地帯の住民、或は建物の強制疎開を受けた市民中には我が軍防空並に邀撃戦闘の劣勢を云々して早くも相当の不安動揺を来し、或は職場を放擲して疎開に狂奔し、或は単なる情報、流言に怯へて一時的退避を企て、又陣地構築沿岸地方住民に在りましても、郷在〔ママ〕軍人の不用意の言動に乃至は誤り伝へられたる情報等に戦々兢々として家財を梱包して山間部に退避する等、其の情況は当に総浮腰の観があるのであります。而も亦地方中小都市方面に於きましても空襲避難民の言動又は硫黄島失陥、沖縄上陸等に尠からず恐怖感を深めて、漸次衣料、家具等の疎開に狂奔して参りまして、甚しいのは建具、畳の類に至るまで山間方面に運搬するものすら生ずる等、戦局不振に基く不安動揺は漸次全国的に拡大しつゝあるやに看取せらるゝのであります。
而して一方斯の様な戦局不振を招来したのは、一に軍官等戦争指導の責任なりとして反軍、反官的態度を表面化し、軍防空の弱体、聯合艦隊の弱体、軍人の政治面、生産面に対する進出、或は官吏の実行力欠如等に関聯する軍官反信、指導者層誹誘の言動は最近著しく増加の傾向にありますと共に、斯様な罵倒的、反軍的言辞が公然と放たるる様になりましたことは、治安上極めて注意を要する事象であります。而も亦従来より国民感情の底流に内包して居りました厭戦、反戦的気運は最近漸次表面化し、自暴自棄的、厭戦、反戦、和平的言動乃至は落書、投書等が相当散見せられるのであります。
然し乍ら又他面に於きましては戦況の頽勢を眼前に見まして、国家の前途を深憂しつゝ、「こんな有様では戦争に勝てぬ」と云ふ切実真剣なる焦燥感より強力政治の断行、国内政治の革新等を要望する声は相当深く国民の間に擡頭しつゝあるのが看取せられ、或は各地に強力戦時施策の断行建議、学徒総蹶起大会の開催、或は工場方面に於ける日の丸特攻隊、神風同志連の結成等、種々具体的運動の発生を見つゝあるものでありまして、国民各層の中には依然強靭なる健全部面も存することは看過がすことが出来ないと存じます。
以上の如く最近に於ける国内民心の推移は全般的に見まして相当注意を要するものがあるのでありますが、更に今後戦局の苛烈化、食糧事情の深刻化並闇物価の大幅昂騰等に伴ひまして、民心の上に深刻なる影響を与へるものと思料せられるのでありまして、他面之等民心の間隙に乗ぜんとする共産主義者、社会民主々義者、朝鮮人並一部の宗教人等の敗戦乃至は反軍策動、及び之等に対決的関係に立つて所謂国内維新を標傍する革新分子の動向に就ては充分の警戒を要するものと認めらるゝ次第であります。
最後に戦時下民心の動向を示す最も良き指標の一つとして御参考までに流言蜚語の状況を申上げますと、言論事犯として起訴せられました件数は逐年増加の趨勢にありまして、
昭和十五年 二九件
昭和十六年 八九件
昭和十七年 三六三件
昭和十八年 六六一件
昭和十九年 一、〇二九件
の如き多数に上り、本年度に於ても依然増加の傾向にありますと共に、之等事犯の内容を検討致しますならば、軍事に関するものが最も多く、次は食糧不足及び配給制度に関するもの等国民生活問題を主題とするものが多数を占めてゐるのであります。又最近の傾向として特に注意を要しますのは、不敬、反戦、反軍其の他不穏内容を有する言動が増加の傾向にあることでありまして、最近に於ける落書、投書、歌詞等の発生状況に就て之を見まするに、
昭和十七年度(四月−三月) 一七三件 月平均一四、四件
昭和十八年度(四月−三月) 二三七件 月平均一九、七件
昭和十九年度(四月−十一月) 二四四件 月平均 三〇、五件
と云ふ様に漸増の傾向を示し、特に昭和十九年度に於ては飛躍的に増加致してゐるのであります。就中注意すぺきことは、反戦、反軍思想を内容とする事犯が、昭和十九年度に於ては、昭和十七年度並十八年度の四倍に上り、著しく増加し、本年度も矢張り増加の傾向にあります。
現在に於ける斯の種言動の発生は未だ部分的でありまして、大衆的組織的なものとして現はれてゐるのではありませんが、然し右の如き言動の内容を検討致しまする時、真に注目すぺき点が二点あるのであります。其の第一は之等言動の多くが左傾的な物の考へ方に胚胎してゐる様に思はれる点であります。之は一面から言へは左傾思想の大衆化であり、左翼運動の大衆的基礎となる虞あるものと考へなければならぬのであります。其の二は之等言動の多くが、国民生活の中に深く根底を有することであります。即ち観念的にではなく、具体的な生活感情から送り出てゐるのでありまして、このことは之等の言動が普遍性、流通性を包蔵してゐることを示すものであります。