日華同盟条約締結に当りて   情報局総裁 天 羽 英 二

 宇笛は常に野き世界は常に輿りつつあろ。しかし環在の文頭程、大
きく明るく動きつつある例は抄い。恰も湖魔の跳梁した暗夜の天地
に、旭光一閃黎明を告げる感がある。
 米英の多年に亙る衆正使略は他界人璃騰史上の】大汚軒であつたが
今や大東魂自存自衛の馳革が起り、大淑墟は米英の樺地上b解放せら
h各国各民族に上る大来電の建設は着々弘抄を且つつある。
 所邦中華民囲は由来同文同種、孝鋲狭軌の槻促にあるが日華関係を
戊乱し、古垂をして相岡はしめ、以て双方を傾け倒さしめんとするの
が米英の政鮨である。昭和十二年、支那邸娘勤教するや密かに北璧笑
みしは米英であり、叉米英に痢らされんものは今日の重慶にゐる人々
であつた。かくて中国は琴げて所謂扶助に狂弊したが、その中に国父
坪文の温訓を拳しアジアの位免に日蝕めて起つたのが窪輌衝氏であつ
た。琵氏はその同志と共に和平雑国の大洗の下に、日本と和群へて東
亜新秩序を建設せんとし囲民政府を樹て、昭和十五年三月南京に遭都
し次で同年十一月≡十日日華基本繍僻憮約の調印を了し、同時に日浦
葦共同宜音を以て≡国の来聴なる研潔を中外に澄明したのである。
 南東ここに浦三年、四民政府に上る中囲復興の大業は済々として湛
砂し、日華基本條約はあらゆる事態に即彪して、非凡なる碓戦力を教
揮し来つたのであるが、特に昭和十大年十二月、大東竜職申勃盈し東
魂の状弊が研段帽に入るに及び、名甥共に大東亜鈍設の主柾となつた
のである。しかして大東亜に放ては緬句、フィリビソ相畑いで濁流を
完成し、印度傾政府の成立あり更にその他の諸民族また政治参輿の段
階に進み大東亜の事態は日を違うて本然の褒に覆しっつある。この如
きほもちろん大東亜各民族の盛り上る熱情の教裔に外なら鞄が、一方
これが後楯として口浦睾≡圃が堅き盟約に上つて結ばれ、確乎不動の
中核を成してゐた事毀にカつけられたことは快く銘記せねばならぬ。
 しかしその後、情勢の奨化は更に日華両国粥様に飛躍駒なる展開を
瀧した0大東頭数寧が勃蒙し次で国民政府の封米英宜職あり中斡の大
東亜建慧に対する責任は更に重加せられたが、我が威は基本憮約の規
定に準挿して或は専管租界の返還、共同租界及び公使館宮城岡故に対
する協力、或は治外法他の撤廃等、着々封革新政策を甥施し来わ、国
民政府もまた我が政熊に呼虚して極力国内状態の改善に努力しその成
果粥に楕目すべきものがあつた。
 そこで新事態に印戯する岱に基本條約を根本的に改訂して今岡の同
盟條約の樺領を見るにいたつた東鶉である。
 斬同盟礁約ほハ一)自主粥並の相互暑Eハ〓)道教に基く大東車♯
(7)

設泣に安定接保の焉の協力(三)互高を基調とする繹済提携ハ四)敵
軍状態経了時に放ける既成芸の調嶋及び璧ハ彗簡潔にしてカ軸き
表現に盛られ、正に大東亜慧表にアジア復興の大昔環ともいふべき
でちる。
中頭の国父孫文の生前私は齢架に於て撃晶氏と大アジア竜鵡を談
じ、「アジア人のアジア」を語る槻何を得たが、その際同氏は小閥は
国内を改造して底に自生払立の国家とならねばならぬと同時に、臼本
も進んでいはゆる不平等條約を陛粟して日支の浄然たる融和をY現せ
しめたいと、熱情を吐正したのである彼の雷々句々ほ、今なほ切々と
して私の耳架を打つのである0昔時洋主席も蒋介右も孫凶父の定右に
菅・現在南京及び軍慶に在る曳多の黎人もまた彼の†に在つて固父
の大ア写生轟の教訓を遵奉してゐたのであるが、不幸にしでその後
蒜の者はこれに背き今なほ米英に脚つて東亜を奴藤の蛇地に障らし
めんとしてゐる。
しかしいはゆる不予等慌約はB支両国間に於ては今や全く解消せら
るるにいたつた0図民政府は日本と共に泉亜を守り、東亜を再建する
馬に職つてゐる0地下にある孫文の感慨は果して如何であらうか。
惟ふに〓〃に於て大親槙にして苛烈なる馳甥を遼行しながら、他方
において大水魂建設を進めることは室に停大なる構胤に基くものであ
るが、同時に容易ならぬ事業である0しかし我々は必勝の信念を以て
この数学に勝ち抜き、大東亜を米英の接穂より解放し、以つて大東亜
の平和を確保し、進んで道義に基く新しき世界を祉設せんと努力して
ゐる0
 日重岡盟條約揃緒を見たるこの槻禽に嘗り、私は日華関係の申期的
展開に対して心から臣郁芋ると共に、B垂南国国民が新同盟條約の膝
章を遊撃し、寧ふの結束を同くし相携へてこの倖策に蓮すること
を期待するものである0     

                           (十一月一日放送)