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自由印度仮政府誕生を祝して  外務省調査局第四課長 太 田 三 郎

 鴨再に放て開催されました印庶拘立聯盟東亜代表大倉に放きまして
掬立聯盟線裁ス・ハス・チヤyドラ・ボース氏を首筋とする自由印度偲
政府の笹生を月ましたことほ、既に皆様御承抑の通りであbますご」
の自由抑圧収政府の成立は印度国民主義浬動の上に於きまして正に掛
期駒な事繁でありまして−今後の印度濁立浬動に極めて大なる悪宅か
有†るものであります。
新政府の首班に就任いたしましたボース氏ほ、この真如として屯
亜に現れ、日本にもまゐわ芋して世界にセソセイショソな措き転した
ことは費E柑仰のことと存じまナ。
 ボース氏は子供の頃か、り非凡な人と環りの持主でありました0同氏
から直換私が州きましたところに上りますると若い窮、一切の物質的
欲望を晰ち暖い家を出て、持絆的光明を求あて、長いあひだヒマラヤ
山中をさま上つたこともあるといふ−しこであわます。大正九年、「イン
デイアン・レディル・サーワイス」即ち印度高等文官許故に合格し、
印度高専文官に任命されたのであります。印度私等文官は那幣な高給
と粗めて快適な生活を保辞され、印度に放ては絶大なる威厳と地力か
帯ひ得るのであむまして、印度人イソテリ青年の偉かの帥了訴わ 立
身出世の最高の響寵門で養わます。然るに費醒の筆偶に燃えたボース
青年は物質的禿筆は撫薫味なりとし、一時に二人の主人軌ち英国と甑
園たる印度の双方に奉仕得ないとて、在任魅力一年にして人も敦む高
等文官の地位を惰気もなく振り捨て、反共野郎在勤に身を役じたので
&ります。雨水二十二年間のポース氏の生河を貰くものは反共のこ字
に艶きると申し得るであわませう。その問に投掛せられたこと毀に入
岡に遠†るのであむまサが、如何なる魅迫にも屁せず、不橙不凪の精
紳を以て、髄畝印度の解放の績め献の鵡を】故に歩んで来たのであり
ます。
 昭和由年国民倉執沢はラホールに於て、園鹿骨払沢の目標が印まの
先議立に在ることを明かにしたのであゎますが、ボース氏はこの宜
官の最も有力なる支持藷の一人でありました。
 ボース氏は昭和十ニ‥年及び十凶年のニケ年間引き払いて駒鳥曾熊沢
の払故に濯欝されたのでありますが、これは盤前のことであむまし
て、彼の人召が加何に大なるかき那す一つの例旺であります。ボース
氏の主張の娘匝を尽すものは先に申しましセや〜に稚匝的な反英、官
ひ換へれば、印度の完全翔立の錘得であります.そして、この大日d
達成の手段として飽くまで武力に上るべしと主張するところに、ボー
ス托の印度国民鼓轟捷動に恰ける特典なる地位があるのであります.
いはゆる非義が、不服従運動ほ駆制者たる英国人の鵡義心に訴へんと
するものであります。ボース民はかかる消挽的な芋虫るい方法で、道
義心を全然持合せめ英国人を印度から迫ひ出すことは、到底出来る皆
ほないから印度の解放は貌く武力に上らねばならぬと主張するのであ
りまナ。そしてボース氏は、叉印度人は前世紀中興の有名な印度兵の
振乱以東武器を動はれてゐるから印度人の武装に努めると同時に、印
度の解放に同情を有し、援軌の芋を伸ばサ招外閑の軌は遠路なくこれ
を侍りて、印度の完全拓立の搾待といふ大目標麺成の籍め蛮†べき
だと主鎚するのであります。ボース氏はこの見地から撃一女世界大取
のはじまるずつと以前上り来るべき世外的捌軋の際にほ、印度人が荘
滞なく起ち上わ得る筆力を券成†る鳥め前節に耶年の訓硬に努めてを
つたさうであります。
 ボース氏が発亜に婆を現ほすまで】年飴の聞、ドイツに滞在さわた
ことは御承知の通りであゎま†が、その執】時米国の輿論が印度に同
情するかのやうに見へたことがあわました。しかし、ボース氏は英世
の友は絶て印庶の敵であむ、英国の敵は楓て印度の友であるとの堅い
信念から、英国と協同する米国の帝国卓故ほ正に印度の敵であり、英
由と組†る王睡政描の如きも印度の解款を紡ぐるものなりと祝いてを
つたのであります。
 ボース氏はガンジー串、ネールと非に印度開放禽鎖汲のこ一瓦醸とい
ほれてをりますが、未だ年齢由十七簸でありまして、ガyジI翁及び
ネールに比して叢に若く、今なは野年の情熱に払えてをゎます.上〈
(9)

ガソジーほ信仰の人、ネールは埋智の人、ポースは情熱の人と呼ばれ
るのでありまナが、親しくボース氏と摸して見ますと、同氏は信仰
と−理智と情熱を発ね嫡へた世界的指輪代eあることを感ずるのであ
ります0極めて現慣的な叉行動的な放流雀として鋭敏なる感覚と、指
導者としての慣行カを併せ有してをり、しかも粥瀞は常に明確にして
且つ一貫Lてをるのであゎます。
 ボース氏ほ決して単なる鳴動政治毅でもなけれげ、破蟹的な革命家
さもありませぬ0英囲の魅制から僻放さかた印度の牌来について具饅
駒なまた合理的な泣代的印耗鏡設乃ガ恥七川悪してゐることを知り、
私は一層ボース氏に射する尊敬の念を挟めたのであります。例へば印
乾の杜曾開題についてであゎますが1印恍に於ては宗教的、階級的対
立が常に印度の続▲妄妨げて来たとは英岬の上下が印度を語る母に口
にいたすところでありますが、ボース氏はかくの如き封宰」そ英国の
いほゆる分潮流治の結果であり、新しき印度に於ては宗教的、階級的
反目は必ず消滅せしめ得ると申してをる打であります。果せるかな教
義せられました新政府の構成を見ますると、同数徒も印度教徒も伸好
く肩を並べてさ加いたしてをるのであります。また印度の箪陵内に放
ては同じ聯喝同じ中除の内に放ても、宗教によつて隻禽所も、食堂
も、壱折も厳格に筒別されてゐるのであbますが、ボース氏の統率い
たしてをゎまする坪度国民平に放きましては、既にかかることは一切
吸止され、何等の不平不満も起つてをら如と閃いてをります。また青
菜の偶笹であゎま†0印耗の冒張は大別して七つに分れますが、詳細
に分散いたしますと二召飴りに連するとしふことであります。ポース
氏性この官兼の開碇についても、十分研兜いたしました。兵盟的な案
 故持ってちるのでありまして−新しき印度の言葉は座席宇を使用する
ヒソドスターニであると申してをるのであります。
枚て今岡成立いたしました自由仰度憫政府は一世紀年前に英国統治
が開始されて以東、印度人の自由璽筐上つて樹立された、最初の艮
の印変人の政府たる粘に放て最初申しましたやうに極めて大なる意義
を持つてゐるのであります。従来印究を治めて来ました印乾政府なる
ものは印度国民と全くかけ難れた政府でありました。印庶政府は如何
なる意味に放ても印度人の政府でなかつたのでありまして、武器を持
たぬ印度人を銃創を以て強制して来た政府であります。ボース氏は英
米が武力を背景として印匿を抑挺してゐる以上、印度人自らの武力或
は他国の武力の壌助を得て英米の勢力を印安から蝉稚†ることこそ、
沌立達成の絶勤惰件なりとなすのであります。今岡成立いたしました
政府が、印床内に放ける英米の一切の支配を罪逐†ること宮晶とい
たしてをることは変表されました茸雷に放て艮に明確に述べられてを
るのでありまナ。またポース氏の統率の下に在つた印度幽民軍は摘永
野盟の手を離れて新政府の直耗の指揮下に立つこととなつたといふこ
とでありま†¢この意味に放きまして如何なる安協なも排除し、印床
人を武装し、英米を撒医的に印度から柿溢するといふ、ボース氏年来
の主張は新政府によつて、正し<表現されてをるのでありまサ。新政
府は何エりも先づ取圃駒組織であり、共駒及びその同盟者を相手に最
後まで馳碑を逸行することこそその主歩目的であり、掟つて研政府は
この自由の績めに取に必要た機関な以て構成されると述べてをるので
ありま†。
 軌つて印故国内を見まナと、今日印夜は産前の飢饉に製はれてをむ
毎日の飢死者取は故知れずいたるところ惨渦たる光駄をなしてをるの
であ皇す・由来印反政府は不利、不都合なことは】勿外部に女声い
(10)
たさ嬰」ととしじなりますが、賂遽電報に上わまナと甲谷陀市内だけ
でも今潜の飢死者は二千人以上に通してゐるのであります0
 この原因は多年に亙る英明の濡政に上るものでありまして、特に職
雫効率以来一般の抄度人の需要を全く細別して1印度政府の軍需竺
主義の績果であわまして、政府の撫持撫絹は印度人を痛く憤激せしめ
印度民衆の反美感情を益ヒ深刻ならしめてゐるのでありまづ<英印歯
局は印度人の正普なる要望に封して叩鮎の一手を以て悔む決意を短め
た梅様であわます。最近英南の何報大田デラ・テンプラツチンは、敵
軍鞭続中印まの政治開顔は冷概庸に仕抑つて置くと放言してゐる位で
ぁゎます。ガyジIを初め有力なる印舵掬立の志士は全て昏卒研に繋
れてゐる曳在、♯々しくも反共向学を叫んでゐるのは我がスバス●チ
ャyドラ・ポース氏噸}人であわます。ポース虎は印度解放の噴には、
僧政府は印度開局全建の自由意志に上り選ばるべき的出的政府に地位
を許ると言明いたしてをります0即ち新政府はいはげ全印度円低の民
衆を代表して成立Lたのであわます。ボース氏の不屈の決意、祀団解
放の燃ゆるが如き情琴烈々たる反英の崩塊は必ずや印度朗位の民衆
に甚大なる刺戯を輿へずに置かないでありませゥ0印緬的場の職槻急
を告げてをわま→今日、全印資の衆増を放つて成瀬した新政府の正大
なる使命を思ひまして、その誕生を戒心上り祀ひますと共に−その力
強き襲展を所つて止まぬ次鮨でありま→U 
                  (十月二十二日放送)