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祖先の闘魂を承け継がふ


ればなりません。私共の筒先ほそ
の手本を鹿央の上に立晩に示して
ゐて具わます。
 日本が初めて外国と大野申をし
たの止望ル簸で†文永弘安と前後
大東塵取早は日本姶つて以来の
大枚争であゎます。紳武天皇の
御東征が日本民族最初の粥扶とす
れば元親の敬は撃一の許煉であり
B#執争は革一山の試煉であbませ
うが、今旺の斯学は正に乾田の重
大な粥秩でありまサ。私共ほ合い
畷牲を袴み越え、この楚前の大散
争な乗り切らねばたゎません。あ
らゆる貼難、苦痛を耐へ忍び、石
に叫トついしても最後に米英を醍
漉して新しい東寵の黎明を迎へな
ければならぬのでサ。私共は勝つ
まではどこまでも頑始りぬかなけ
赦周に亙る蒙古の木製は昔時の日
本にとつては陶関山来の大国難で
した。沙挟の}糾から解くべき乗
敢な武力を以て、アジアからヨー
ロッパを惰巻した蒙古は四方征眼
の飴奴をかつて、塗に我が国を脅
鞋して来たのであります。この蛮
古の武力的払出の前に、全日本の
国民駒治緒はいやが上にも晶払さ
れました。上は皇室から幕府も、
新人も非衆人も老若盤女一致幽綜
し時の執他北晩時宗の大美称、大
信念の下に全図址はl丸となつて
絆囲の擁故に歯つたのです。この
学園一致の熱誠功武と糾凪とにエ
つて、さしもの大敵も寵全に鄭排
され、帥囲日本の意誠は独く喚び
醒まされ、普時ヨーロッパから丈
恋愛尚にわたつて襲古帝国】色に
ぬりつぷされてゐた地甑のうち
に、我が日本のみが凛平たる瑞立
を確保しえたのであります。
 畏くも亀山上皇は弘安田年再姪
の来襲にあたつて渓輩の願文を許
富に奉り拾ひ、御身を以て国難に
代らんと所らせられました。全く
おそれ多い極みでごぎいます。こ
れをきいた国民は確乎不抜の固持
心をもつて應起し、執椎時宗も亦
快く国浬の安危を轟へ自ら諸軽を
血審して敵国降伏と国土安泰を所
りました。文水の役後、幕府は払
毯的に異国湛撃を計生し、遠征革
を募つた時には、全的の勇士は苦
敢を経て来たにも拘らず、士気旺
勢彗つて奉公の誠をいたさんとし
たのであります。肥後の武士井芹
秀重は自分は眈に入十五哉の老齢
で出酔おほつかないが、嫡子は六
†五草、蛸擁はこ一十入議、一族にほ
十九裁と四十歳の弟子があつて、
武具乗鵜を俄へてゐるから是非忠
 勤ないたさせ庇いと注池した程で
 あむま†C又北山真の地演で浜岡
といふ尼は息子の北東と婿公俸と
を、在を日についで馳せ向はせる
から従軍させてくれといつてをり
ます。これを見ましても常時の印
民が断じて筆古など曳れてゐなか
つたことがわかります。これを見
ても軍国の父、軍囲の母の血潮は
我が国史の上に脆々と拭うつてゐ
たのであります。
 これらはほんの一例にすぎませ
んが、千葉鉢倉耗府と撫渕係にあ
つた祀寺払門もこの大国軒に箇つ
ては片々たる私榊を捨て園家総力
職の蛙制をととのへました。さう
して皇室を中心として撃破l致の
毀をあけ故に一指も染めさせなか
つたのであります。
 大東亜数学を勝ち取くためには
圃杓睦制をととのへ団塊の】人}
人が冗費を節約し生産力を挽充し
なければなりませんが、この常時
も批に、鋭担の諸飯主に厳命して
阿防を戯にしたのみでなく、全担
的に徹底的な節約な行ひ、冗虫を
 はぷき、拘防費の充繁に労力Lた
(28)
のです。畏くも皇室にぶかれまし
ては、粍費の節減、行政の賎理を
行はせられ、最も統制ある横転を
元苔れましたので、時の幕府も日
らこれにならひ、九州から中期に
わたり、年真のL椚を中止し、幕
府や富める者のもつお米は凡てこ
れを貯へて戦時尭糧としたので
ナ。かうして国内物賓の大規模な
敬時統制化が行はれたればこそ撤
ひのさ中に勇敢にも元に向つて逆
襲の針里までたてられたのです。
永い聞かくれてゐた脈々たる日本
捕群が今や一つの大きな嵐となつ
て強くあらはれたのです。
 元塩といふ未曾有の大圏難に営
つて皇革の将士がいかに懲放した
かは申すまでもあむませんが、小
胎に乗つて敵船に捲りこみ、見る
見る手近の敢を蘇ぎ潮し、終にほ
大将とおぽしき富津を生補にして
悠々引きとげた河野通有、夜弾を
決行して敵船に斬りこみ、二十T
の首をあげ火を放つて引き上げた
草野次郎など頻殊洋やアッツの軍
紳に劣らぬ忠烈無比の祀先のあつ
たことを忘れてはなりません。
 しかし敵も必姥です。政は絶反
故をもつて我に桃梢し縫蛤苛烈な
職況を庫関してまゐわましたP殊
に元の頂は沌虐の限りを表したの
です。叱州地方では 【ム〆り」、
「コクリ」といふ雷処で増酷とい
ふ意味に使つてゐまサが、「ムク
リ」は棚破古、「コクリ▼一は苛監の
ことで「ムブイ」ことをする、と
いふのはそれから梱訳したといつ
てゐる人もあります。珊時のm況
を智いた「入瞞似和記」といふ留
物を見ますと、元耶は十飴洗とい
ふ大将が大砲をもつてやつて来た
のですから、弓矢を以て汚職した
我が耶がいかに苛和したかは明か
です。敵の大砲は山や林にまで飛
んで釆て御阪をたく蝿をめがけて
ぅって求ましたので人々は家をす
てて避難し生米をかんでこの苦難
にたへました。この状況を考へれ
ばガダルカナルや、アツツ、一三
−ギニアの勇士連な思ひ起すでは
あむませんか.ところポ押し寄せ
る敵はこれら濯難民を求めて山林
に分け入り赤子の泣き昭をききつ
けて虐殺せんとしましたので、人
人は己の野する子供意を刺し潤し
て取つたといふことです。私兆の
祀先のなかにはかうして敬つたも
のもあるのです。
 常時の懐胎日濯が「我れ日本の
柱とならん、我れ日本の鳩目とな
らん、我れ日本の大槻とたらん」
と身をもつて圃難に殉せんとしま
したが、この意菊は日本国比全盟
の意気を示すものであり、このl
佐山心の和が大勝利をかちえたの
です。l且綬急あらば発声公に奉
ずるこの和の構紳、これこそ元老
や日罪取牢を見事にかちぬいた蓼
諦であわます。元塩の大勝利は、
天の時も官しく紳鼠の加漆にもよ
り、又九州の地の利に辞しかつた
縮西将兵の赤誠も預つて力あるも
のでせう。しかし、「天の時は地
の利に若かず、地の利は人の和に
若かず」と申しまサこの弊園一致
の和こそあの大野利をもたらした
ものに他なりません。
 大衆墟俄窄も概況は正に探刻苛
烈です。私共圃民はあくまで辛抱
傾く、昭鞍な梢紳をもつて、いか
なる相野にも堪へT低時宗の気概
を示して簡局を爽り切らねばなり
ません.元延にも日粛の故にも膠
ちぬいて来た日本四民ですから、
私兆は今後もまサま†必勝の信念
を似て繍内博労の強化に努め、宰
相生硬力の村瀬に沌悲しなければ
なりません〇
 六十二日悶、−璧に租つて肇古
調伏を所つた宏職印帥は
 宋の陛の宋の末までわが国は
  上ろづの組に†ぐれたる声
と詠みました。粂枇界征服を理想
とした元もさすがに我が成には→
歩も蹄み入ることができなかつた
のです。私共はこの甜先から受け
ついだ園戌的誇をもつて米英撃汝
のため石に噛りついても勝ち抜か
うではありませんか。
   ハ十月二十一日故鹿)
(錮)