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第三十八回陸軍記念日に当りての所感
              大本営陸軍報道部長陸軍少佐 谷萩那華雄

 

 臼舛Z坤は髄椚新株序柏花の叫巾妙であり士した廿その後の浦和♯
鞭も、乾瓢林野も、大東駈職甲も、総て日恥敬申の鞭蛾であり、日粥
鰍本此咤軍増滞粕 谷 萩 耶、準 雄
他山叩の確‖躾であろと・岬†ことが川東るのであります.
 日蕗戦争は日本の夙怜的地位を上月して列強に伍し一等同の班に姓

らしめたものでありますが、更に世墓史に於イ孟大なるぜ芸も者す
ろことは、呈といふ霊革族竺醒家が西洋の蓋への侵略に封し
て組めて有数適切なる一筆を加へたことであります。
軒みれば十五世紀末ハスコ・〆・ガ宗竃噂を姐航して印鑑にポ
ルトガル研宗晶して上り約四世紀の間、東紹の殆ど大部は西坪遠州
申してゐたと申しても敢へて讐ではなかつたので告ノます。
 然るに彼等が炎等離してゐた東塩の宗に托する諒島酌である日
本が、担洋列欝悪例と日されてゐた霞翌打破つたことは、俄然
霊氏族モて西洋鍵竣の壌夢上り亀彗しめ、是と同様志政馳
な慧し、拘太白童の研甜屍姦慧んとナノ轟彗促彗た等あ
ります0
 支弛や帥彗ペルシャやトルコ等いたるところに、革渕故地醐悪
事命苛を菅超したのがそれであります0
 中華民豊民政府立憮琵挿櫛時下は日寵研の竺十才の一Z埠で
法政大雪前身法律革校建成科に思丁し言たのですが、貰諒激
を彗ミその頃北京には約二常人怜の中国笥拳宗ゐモたの私適
性稲梓士や有井博芸鸞をきいてゐろと誠党の近くで彗軌外菅
の飴の菅が申く、革生がこれを貰つ宗ろ、革師はこれを海ひ収つて
救稚で群み上げる、それが何れも是大野利の情報、拳生は狂喜乳韓
して昔芸々芸連呼したのであ皇す・西洋の帝国主義的毒下に叫
吟し竺をのんで解放の豊待つてゐたわれわか霊民族でありまし
 た二日姦れ<は丈亜無しと信念し盲本の敬併読り掛けてゐたわ
 れわれ東亜民族でありました9ですから日本の野報いたらばかくの如
 き有様であつたのであります1と述憐してならかます0
 申床政府はまる言九8是との非生向殆の竿も新たに封米英嘉
な布告しましたが−往時を周崩して碧海喝↑は革慨登だつたと信
じます0
嘉に爪創にせ器錘動が展開したのは品彗丁後と申しノしも上ろし
いと存じます.
大渠丁三年十盲‡入日緒文先生が紳戸に於て試みたいはゆる大
丁ジャ鼓武の神埼に於ノしも
 「是が勝つたことは良蒜苦年間に於てソジャ人が∃こツバ人
 に職誓た最初蒜讐あつたから、そ表替は讐大き〈碑ちに
 苧ジャ民族な成著せしめ、全′ジャ鍵族は羞叩して我が防利の如
 く苦、そしてアジヤの前彗讐大な宗讐抱く上う貰った
と申してゐるのであります.
r窮細慧嵐」の雲として讐れて宏ハッチソソソは、品等
に於ける是の勝利が東雲革民族に肴表替を輿へ、驚をして
東亜の笹興露営せしむろにいたつたことな彗て
 「今日の支那青年、印ま青年は彼等の耐震何等の進歩改善霊す
 ことなく依然乱脈の状態にあるにかかはらず、触等の前琴卜対して
 光明姦めやがて繁希望拝する日が彗如く信じてゐろが、か
 かる態琵孟彗丁に雪是が示した繁力に刺彗られたのであ


・4−
印悪串堆ガソジー翁は封英抗軍の彗晰衰を決行し、肉憧は島
にやせ細りましても烈芸ろ内攻を示したのであ呈†が、このY必
rや三十入年前アジヤに黎明来るの感慨を想ひ出Lたに逢ひないと倍
 ろ」
と晰じてゐるのであります.
 ヒ†ラヤ山の奥地の印鹿人まで
も†に日強敵申の頃であります9
明治天皇の榊凪影を拝みましたの
じ一l†q
 りの五味に放て、白†頓雫は南洋の俄界支配に射すろ東娼の解放の
瀬なろ確執であつたといふことが出来るのであります。
 併し帝可はこの日#一等に十分の自信必併の確信を似て臨んだので
はない、それどりろか平河焦土たるを梵博し難牡の決心を以て侵略の
銃舛に身を挺して昔つたことは、常時の電臣脱僚等の岡想に上つても
明かなところであります¢旦に叫耕万両から申しましても概に官易な
1らね苦心があり裁多の危#に辻過してゐるのであります.


 常時わが陳半の作興計丑ほ諦餉の/べリヤ揮沼に⊥る妊力輸幾の払
増ならぎるに報じて、我が舗中の払迎なろを利して兵力の妨弊を憾み
附…関川…附戟c州川川附椚州…閑…g約‥………”肘附`
熱水鵠一軍及び異端二軍の上押には抑留の背心を抑つたのであ・`敵
権麻を族咽堵に撃滅または封鎖する拐め聞取と兆に寄♯む決行し、ま
た決柁除が三岡に亙つて閉来を敢行したのでありま†。
 併し補筆に対してほこれを艦赦すろ壕戊であわましたから唯コ一隻し
かゐなかつた茶園舵醸は、或ひけ対比海峡に川で来つて冊俳丸、佐鹿
丸等を襲ひ、朝鮮北部海岸を迩七してほ金州丸申を沈め、また或ろ呼
は津拠海峡を頴渦して凄く太平伴に出で金#山沖まで璃下した馬に、
沿岸の漁胎は出港を見合せ文京魚河岸にほこ掴僻も鮎曲がなかつたこ
とすらあります.
 日甜戦争に砕て三河干渉の枯果流東平鳥を温附してから、尚民はい
ほゆる臥新嘗曙し漑悦十年一渕を背いたのであります。こ仙十年聞の
甘易を創つた申備にもかかはらず兵群の不良、押醇の秋乏には再lニ持
四不利なろ鞍さを繰返し泡に憎み嫁いたのであります。明治ゴ」†七年
五月絹山の取粥でけ初めて敢の#醐砲の蔽カを浦喫し、また甘崗が六
ケ月分と息つて坤府した坤兼を庸か一日で射耗したので普局は取さの
暴き前途を息つて噸然としたので為りまナ.
 族噸黎親の政略は明治三十七年入巧から三十入牢l月まで牛哉のよ
きに亙む肉押また肉翔の疎放強襲を加へて斯くこれを陥落したのであ
ります¢
 明治三十七年八月渡鴇甘取に放てほ取カの滑耗恭しく沙河の繰上り
遠く重し柑なかつたのでありまナ。ところが十月には軌は軟一方雨
上り糖按を柑て攻勢に輔じてまゐりました.
 この博労に兄玉槻さ媒長は適格倉故の名目を以て各半の葬課長を集
めてそれとなく封策な放いたのであります。見王将笹は辞任に悔し砺
くも何故用典に崩してけ部下の濃見を許さぬと申し滞したのでありま
すが、この状況に於てほ流石の将軍も部下から少しでも上い智撼を借
り上うとしたのであります。
一般の意見は現在娘に掛て写守防繋といふことに落者きさうになり
ましと。この時範−零さ謙長に侍行せる周的雅太郎大尉尊称後の大郷
が死中に捕態求む▼心の途け改革前進あろのみと意見を申しましたとこ
ろ兇束縛軍は出場ぎた口をきくなと大喝l申したのであbます.
 併しその凍大山蝕司令官上り菱せられれ愈令は全軍】舛に攻学割盤
とあり、ここに雨半け沙河河畔にl大領浪靴を展開したのであります。
 甘馳は我が野利を以て絵フたが、特に押粥の放乏上涛く遊軍するこ
とが出来ずかくて沙河の汚挿いはゆろ沙河を挑んで多驚することにな
つかのであります。
 との急簡苧は正に兵力を増加して我が左又洋河右岸地官に大戎


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妙に出表した.肝治ご一十入牢一月下旬であります.
 立見山・府の指挿する鴇八帥覿を吋唇と†る陀爬北見耶は、帆雫を汚
して黒肺数万簡に敵を攻撃し常妨二革司令官グりツペンベルク大堀の
率ゆる約培欺の敵を撃退したのでありま†.
 ☆見特革が兵に命じて凍結した土地に火を刷らせた、そわけ肖分の
身を守る稚噴ではなく常に基穴¢あつた、渦耶ほ小利山Z睨.∵″判ら
ば制帽H決してその穴に身な和める憶帖ウふつたのeありま†り
 また人山絶司令官が堀後山吻合は和雄妙舛故∵耗つて存†と桝し十
気を妹解さわましたが、糾蝉浪後そのお馳抄雛む紫わましたところ「緒
珂に几ち故に架許するつもりだつた」と小さわたなどといふ挿試ほ、
この倉敷が如何に†敬で+∴一たかを物棚和んものであbま†.
 準大倉頓に於てほなる梓和天山野仁一一十舵を袋の鼠にした.のです
が、併し我けこの袋の口を締める兵力が足りない、燃かl山里足らずの
袋¢ロから見け盗に逃げたのでありま†.そしてこの池げろ鼠に撃ち
かけ一ハ押九がなかつたのであゎま†。

 かくの如く準天甘執は大勝利ではありますが、併し避憎ながら敵の
車力を♯過せるに止まり掃叔礁漉すろことが出来なかつたのでありま
す0暢上の我が職粥力け準天附近に於てそり終末鮎に適し、触触の背
後▲ヱ宅叩力とを有する敵に如しその前塗け碓氷の緒戦適材及び海鞘の
日本海海戦に放ける戦勝にも拘らす銭よ多桝なものがあゎました.
 七月十二日捷官印と寺内哩川とほ大本営禽為に騰んで村兵第む焔執
 しましたが、六ケ師醜稗混実は蕗に関胡の容ろるところとならすに経
 つたのでありま†.
  八月十七日見電線さ戊声は大本常に射し馳局の危瞼を替肯し四十九
封〓十九にては併算なしと細べ、職雫の初期には我が軍の窮質の領地
む以て酌の敬的健也を打破Lたが、今や糞革も低下しこれに鋳ろな待
ず且つは執がなほ多数の稚解鞘を和すろのに反し、吾は一兵をも有し
ない。この状態け泡に袈心に囁へ†とカ祝し、大ケ緬陶の樹設を重ね
て嬰求したのであゎまLたが、そして大本皆はこれを首相陛和に移牒
Lたがその返裕りないmに中にし.d下げ他山的∴燐利は成瀬したので
あ.‥ま†。口木はこの機や∵十ケH刷に市舵人を動員し、陸軍の入に
ても〓十一砥七千松山柁伯ろ那じ、二十憶捌の敬確を斉したのであり
ま†が、このことほ常時の我が圃としてその職力を最高慶長極限に動
員したものでありま†。常時世界血の祖国常酵は何故に我に降り伏し
たのでありませぅか、こわ鋭上わ 明治夷基の大御樺威の然らしむる
ところでありま†.
 #開け†に名目のない侵略職準をやbました0鵡外商里の遠征作戦
をやりました。そして憧に海に適職題敗であゎます。晩学開始後閑内
革命斌延滞現し民心は漸く動橋,よ」来ましたそこへ米大統領の桝和故
旋があゎましたので、ここが潮時とあつさb馳研糖櫻を断念したので
あります。
 常時の帯同のこの状況と現在の米英の状況とけ泡に似通つてゐます
肺史は鞭返サといふことを辟ずろ次範でありますゥ

 さて、今次大東頑戦争け、我が再力の伸偶に伴ふ故牢各般の斌耗の
瑚大け申†までもなく、開襟情勢の確離化、取申性格の溌刻化など九
に涌世の感もただならぬものがあり、すこJとにヒットラI捜統の官の
如く、単純なろ勝者と敗譜との別を似て曲事の軽同を見るが如きは全
く漁期し持ず、断ち残つて】琴ヌるもの以外には、取れて戦亡†るもの
、ノ

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もろの入でもる.故に唐中粥管むく、史他家沙の敵地もない.ただ
■‡長者永劫の生魚を鵜して滋局の聯利を革ふのみであろ.
 B‡取手に放ては米hは撫動態日常糊に埠旋しました。また英一ほ
日東同盟を臨んで故に特に我を頻軌しました.
 排し破等は粥就から日本を漢軌したのではない、日本なして#世の
虎井を挫かせ、甘木の甘牲に放て光正に放けろ米炎の利他を継準せん
としたのであります.故に8木が勝利を待て東亜に柵平たる地歩を占
むることは彼等の峯ふとりろではなかつたのでありま†.
 そこで日∫取手が捲るや米英は日本の大陸竣良む阻指すろところの
政発に出て東つたのであゎまナ。なる触この間坊山女奴州大戦が由り
ましたので一時そかほ洞鮎的ならぎろを柑なかつたのでありました
が 献酬に於て強敵ドイツを打破ろや供然本心たる架脈に附すろ非巣
を現して日本の抵迫にとりかかつたのであbま†.そして架魂の札苅
たる日家柄軌を柑鞄はしめ、その間に池大の利を占めんとまで兜抹し
たのであります。
 日本は入払馬学の大和想を買切する払には米英の忍野力軌野蛮上む
】揃†ろを黎しまナい こわなくんば瀬雄の新秩序逮設は斯幹不可能で
ある。鶴野の非史をその儀に故催せんか瀬亜には平和も兆…雫もないの
であります。
 大東魂の中和な索ナものは何奴だT 米共だ、大東墟の米山莞を牢ふ
者は何奴だ! 米英だ
 大水覗の平和の費米英を撃ちてし止まむ大東忠の炎典の仇敵米英
を娘ちてし止まむ


 かくてH木は自存由搬の巧め馳ひつつ執るのでありずす.大東亜取
争こそは日#吸研の班鶴瓢掃肌一大溌梨でありま†。P一軒雫け†F
容易ならぎる敬弔であつた如く、大礼並軌牢もまた姥の′歩手前よで
柾かずんば砂利を獲得†ることが出水ぬ苧であわます.
 せに「人半を鞋して天命を待つ」といふ首藤がありますが、大半亜
敬弔に於てほ払民持てるその蛙てな挿げ人事人力の長者をつくすのは
もちろんでありま†。そして人榔人力を韻した後ただ手を鈍いてゐて
はならねモに馳駆む抑明に斬併せねばならねと存じます。「人♯を毒
して計に斬るしのでなければなりません.
 見玉蝕義兵は人瀦を盤して革天介助作戦訂毛を材て終bましてそ
                               ′
の後ほ毎朝山心不乱に勝利を紳に所つたのであります.あらゆる努力
そのかひなく閑職研盟耽浪を兜惜しました時、毯岡全域は「盤天子上
にあり我れ♯んで東天な邦†」と申されたのであります.難局に悔し
ては武人も文官もかくあるべきであります。
 宜軌の大領に「畠絶息寮/紳壇上■−在り」と仰せられた、また伊労
沖官榊軋帝に轡試しになつた 大榊心の程邦耗するだに具き鶴みであ
ります。
 亀山上息 ほ元慈の役に勿雌なくも身を以て甲耕に代らむと耕朋に
御所わ遊ばされたのであゎます。その御心をこめさせ・つ化ヒ却梢済を
沖明のお鞋きあそばされ払わけはありません。やがて大勝利を似て平
和の帝が日本に斬れてまゐb†した。
    四耗の仙頓浪をさまりてのどかなる
       我が日の本に春は来にけむ
上息は荘るるお世びを以てかう詠じさせ払うたのでありま†.
−世の御民われらかくの如く叔庇を鮫んじ革る近き将来を確信する
ものであります.             ハ三月十日故超し
\ノ

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