戦ふドイツ国民 逓信省航空局国民航空課長 山岸重孝


 滞積払はこの渡、ベルリンから博しの舵例日木、疾りて求心りまし
たCベルリンとP・†に浦任小、変換放送等ご時々じ木り印捕といふ
出だし苧フジオのヤイクか洩Lて皆様に榊話L申卜▼げましたが、今〓
は「H木のしといふ形符朋を性はなくて、直′、「皆様」と小トけられ
ることは泡に感慨柁いものがあります。ただ今か・h私が、昨年十二月
まで滞在Lてを巾まLたベルリンで、自、り距放したドイツ券芬R並泊
伯様の一端を御話L申上げたいと思ひすす.
 私が日本へ師山まして先づ鵠lに感rぜしたことは、日本ほまだ人
が多い、人的栗源に飴裕があるといふことです、午前十時ヤ十一時頓
にベルリアで市内電革に頻ろと、牢つ六、七割の漉客は締人で†が.
東京でほ九部位に弘子が見受けられ、その申にはまだまだ址年のガが
非常に多いことに穎かされまサ。最近の新陶に上りますと、ドイツe
は強制革耕令が公布され、ドイツ酌虎に封†ろ革朔動員が一席強化さ
れた上うでありますが既に私がをりまLた時でも、ドイツでは帝伽力
の開祖についてほ、非常に凧剣た先祖になつてゐましたじ列でも女で
も触けろ人は拾ど総て兵陰にたつてゐるが、塀餅に従卒Lてゐり勺かで
その帝故の稚穎もいはゆろ平和専業†、取革に浩接触録ないや.った併
へは飴〈ことは軒されなくなつてゐま†。例へば、女の人でも基山
(ほ)
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ゝ呵頓などでh_いてゐる噂、その怖店から他の叫粥姐叩偶の甘此や工鴇へ
h■′、ために血叩▲帯ナることを帝巾一同から命ぜらわる・」ともあります。上
址叫の賀艇の椀人でも手触が叫人や〓人佗でその盤背にあま山手故山か
からたい程度になつてゐると、帝恥掃からやはり半価鵬横山倉能や工
頓等へ拘くことを命じられまサU女鞍校む州た娘さん方も、家艇にぐ
すぐずしてゐる」とは許されず、皆としとし持分で柑を求めて働きに
出てゐま†。匂ギの革掌に女が働いてゐることはもちろんですが、六
十先付の男も和懲多く見受けられます。汽神山改札掛や州札耕はもち
ろん、和筋擬距♯む光る列革の坤掌も、また郵便配達も、年分俳は女
で†Pいはゆる遊んでゐる人、或ひは職た人といふものは一人もあり
ますまい9老人や女で間に合ふところは、川氷るだけ宅人と女で桝に
合せ、若い男子は兵像さんか別冊にほげしい圏ヘ山鮮る耶彬エ均にた
け漸くその」外閑人の野馳ポや、捕巌も川和でき乙触り、火勢伐つて
ゐるといふのが、今むドイツの状態で全/\父†細りの渦比総動員です。
どんないい敏也のわ挿さん建でも脚力昭切に超さて官地のタイビス
ー、林耕員戎ひは帝政の舟椚條、戎ひほに槻に物きに椚て打きます。
もちハん、希拘ともそわぞか外的仙や閉山机桝の竹カに上つて人山仙
ひカにも籍遥はありますが、とに伺ドイツ耶、食隣地が萌パーセント
に堺伽山雄一腺に♯つて&ろ帥ほありますまい¢
 Hホでも特伽山り剛鞄がしケりに励せ_小でゐろ⊥勺ですが、柑殊
柁肘満とカ熱朴rとかいふ人建山下址防ちれ掛け別剛馳としで、いほ
も∴人山敬だけの斯からいへば、まだまパ′何糾があろといふ賎ドがし
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  ′aでは、料でも女eも小坤確托稲堆山赦苛々槌「た十d、八躍
の人打、酎ちに勤斬軒什「ドイツ折で7ルパイーティーーースー」撫快
となつて、大きな姐州仙印となつて、瀬繰の甘喝く溌に行つて、−砂山P▲井・冴工
ヰとか革騒の宿舎建鵜をして、これがドイツ半の帯一・特の耗扮や、そ
の他の作歌にまで、大きな役一円を果してゐます山
 またこの郵券奉仕願の一部は酵内では、各稚盤作物山桝作に碓耕し
て、農村の替働力不足を大いに祁つてゐろことも申すまでもありませ
ん。今度ドイツは、きらに高等革枚、中等拳托の最上〓串枚の授業を
中止すろやうですが、私がをりました時でも、料の大柳生の黎は殆ど
全く見受けられませんでした中
 轄塘Lた府人む触川することは盟邦ドイツに触らず、放流共何でも
やり場めたやうです。何といつても欧州では独学に封すろ緊迫戚が今
ではひしひしと軌民の一人々々に差迫つて水てゐます9この耗、わが
日本は御錬成の下、鼻耶の菅馳の御▲陸で妨山鞄椋が速′〜鴎太平洋やア
リ且1シヤyの確カにあろだけに、偲てがまだ何となく砕裕がある、
脊封であるといふ、欧州から尉つて見ろと懲に布難いといふ鯨じがい
たすのでサが、こからの私学の前睦む思ふ時、日本もだんだんこのや
うな切払した状態になつて行〈ことけ、浩然のことであ山、またその
やうむ獣にまで押進めて行かなければ、今Hの大礼純な牌架放力馳に
最後の徴柾的勝利む準げろことは搬Lいのではないかと息はかま†。
 では夷にドイツの食稚のことを申卜げませう。ドイツの簸けにっい
てけ、故に斯掬やラジオ専で皆様も十分ご飛知むやうに、完全な切符
制舷が和かれ丁−ゐます¢肉、.ハン、.ハター、科胤榊柚斯、チーズ、血
斯、腐釣挙、砂糖といつたやうL各砿に如かく分類さわた切符が糾嘩
間毎に各家轡卜洩れなJ、兄於きれま†。この切符を持つてゐたいと耕
瑚姪に打つても、純野菜料理を除き相対に何物も簸べらかませんじ
その代bこか幹の切符を特ってあれげ距酢の小繋簡で兼セでも必らr
(13)

切符お出した汝だけは胃ふことが湖水まrり†のと二∴甘地の大人ぐ
何が山週間にこ讃H鉱」瓦、バ/ほ}‖約.ニ同文といつk榊炊ぐもちろ
ん十分といふことほありませんが、とに角l日々々の兜描に必妙なだ
けのヵロリーをとり得ることになつてゐま†。ですからドイツ明朗と
しては食柑の鮎では安心感を持ち、また組虎全拙から見て、公平な分
配をなされることになつてゐます{Lかしで緻宵減りの十桝には大人
上りも、各種の食用について少しつつ傑於の抱は多くなつてたり、少
酌民の養育に詫象を期され、また労働溜についてはその杜巾★る労働
の激しさの程度に上つて、普通の大人上りも多くの褒糊切符が馳給さ
れ、最も多いのになると、背漁の人の二倍になつてゐまサ‖こ
 水顆については、丁度だいたい日本の水料切符と伺じや・つな肌度が
布かれてゐます。しかしてこの独輸にせ上、前に述べた薙糊にせ上こ
のやうに醒民生括に絶対必黎なものは公平に切符制舵が和かれてゐる
上に、この切符を以て又ひ得る品物は公道嘲描がしっかりと出められ
帝くべき敗い値段で買へるのです.この猷にドイツ閑比化描は非常に
安宅してゐるといへませ与。
 前にも申上げましたやうに、ドイツ飼虎の敬弔に射する兜池場は強
いものがありますので、その年商、慰安娯梨を求める来待も姐〈なつ
てゐます0政府も堺から晩まで働いてゐる閑民に他念な慰安娯染を輿
へることに桝塩的な労力を沸つてゐますじ芝居、オペラ、吸盤、管緊
専は句晩どこでも窪叩Åの有線です。−フジオも出来るだけ繁しい賓軽
な菅集を抱えすスピーカーから流さしてゐます。もちろん鼠良性の和
漢といふものほあむますので、日本の慰安娯襲の行き方とは肖ら遽ふ
 ものがありまし<、そこに是非の論は出来ないのでありますが、今の
 ドイツの】夏昏−映dIに付いはゆる時白河勧といふ・ものは払mどありませ
ませう.しかしてナチスの強大な政治力ほこの人の山と軌れカとを今
や完全な才独立_、杏、彗独立一ともいへろ租に、馳申巻行目飢に
の入、亀申してしまひました。ドイツの戦争はいけゆる現代取の見本
рゎ稚械力の姐}の力で軌を払榊敬滅するのです“そわに坐する渉
Lさ武井押熊ほ常に鞋官に籠】繰に補放されてゐま†。
 この称大な革ボ生蘇力の教学け全く殆と信ザベからぎるものがある
とさへ申せませ・り.
 もちろん、甘辛の前幾にけドイツにとつてまだま〃耗多の筆戦中計
写さる▲のがあります0併しこの世界大馳の幣い抑世小甘めたドイツ
■民は、今まこそ右に一々ついても、最後の餅利桃和まで醐鎚わ城か
うといふ決意に患えてゐまサ.
 このドイツ挿兇の群牡たまでの牡悼の前に、‖本山大火舶執甲開始
川衆の堆かLき暇巣け、彼等に−らて甥に弘い削い沌鮎づけになつて
ゐま†い哨領海の佑瀦や、相次ノ\太平洋上の大和馳けフジ√の枇時こ
11スとなつてドイツ熊大の耳にも逸早く丸ぜられ、新聞紙上にも巧
ロのやうに8本の取勝の−三−スが大きく崩賦さかてんます。r自爆J
とポふ詔礁も新派に上つて、ドイツ開放「日本叫山男放さの代名詞の
やちに、上く知ら山るヤぅになゎまLたUヒツー.γ−ユー〆ントなど
でも日本掛所といふことは、若いドイツ捕虎の塘胴心む淋鵜すろ意味
亡者に数dられてゐるといふ瀦ですじ
 今敗洲に件んでゐる日本人け、榊竣成の抑亀で、鉄柵のいたると・」
ろ.それこモ大手な轟つて渉いてゐます。しか1て胡でも日本人け巧
本の有難さを、心からしみじんと感放して、蛮くu耗む≠れてゐても、
何とかして8♯の卸苛になることを、少しやも多くトたいと心掛けて
あろ水洗で†り外耳に♯して見て、B本山上等れ伸さが、さらにl甘
んQ尤ん二ユ・1畑朗は伺遡ドイツ軍」崩哨・りしい和朗舶り土機械化
油の物故さをuて供民大衆「まさまさと轢い印象をあたへてゐま†.
 またドイツ醒虎は、最も推育の盛んな国民でありますが、老幼男女
を閥はず、飴昭さへあれば常にあらゆる確頬のスポーツに心から愉快
さうにいそしんでゐます。ドイツ青少年革.即ちヒットラーエーゲン
トの適中がベルリン郊外の救色の上いところで、欒しさうに朗らかに、
しかも鶴紳正しく膣肯を糠つてゐるのを見る嘩何ともいへね組もし
さを賂じられます。
 ここでベルリンの強襲のことを少し申上げませう0私が昨年十二月
上旬ベルリンを出家いたしますまでの前の約一年聞以上といふものは
ペルリンには嬢襲らしい袈襲ほ一国もなく、ベルリン朔民にとつて蛮
鍵ほ殆ど忘れられてゐる程でした。舘挙が符晩のや′りにあつた−昨年
でも、ベルリンの家は元来、曹爪常粥内位の小は約と全部前略建ての
がつちわした建物が捕つてゐるので、殆ど翌日爆撃の跡を#見するこ
とサら閥難た位で†.火教は建物が右やコンクリート進むですから、
掃と燃えません。で†から、ベルリyでは楚製がそれほど放しいもの
とほ碓も息つてゐません。人魚の損事を出来るだけ少くする意味で、
袈我等我がなると皆辞かに落ついて各家の地下箋に下りて行きます.
ただ職申開始以来、燈火管制ほ完全に抒はれ、ペルリy市民は一管
明るい凍を知らない渾です¢しかし今ではベルリン絹比ほこの几曙な
沓鵡を歩くことにも馴れました9
 ドイツが戦争に入つてから、杓三年牛、その間に帯ノ〜べき博大な取
兵を苧げて来まLた.その主な理由は申すまでもな〈、ヒットラIは
机を中心にナチスの扶印の下に一計鞠転した可民の畢拘心と、以前か
ら世界に籍つて衆た工築力を纂頓にした鞍騙生群力のたまもりといへ
                l−11




仙耶く感rら丸まLた.
 この有#い故声日本の大数再び踏んだ時.スターリン〆ラードの戚
報を耳にし、すま推力取の串l線に昏が放つてゐる盤邦ドイツ声民の
健内々斬らずにはをられません.   ハニ月∴β歓送)