日米交渉の経緯について
                  特命全権大使 来 栖 三 郎

 昭和十六年十二月八日、畏くも宣戦の詔勅を奉戴いたしましてから
我々は今や将に一周年を迎へんとするにいたりました。顧みますれば
昨春以来十ケ月の久しきに亙り謙抑隠忍、ひたすら日米関係の平和的
打開に努めて参りました帝国が、遂に敢然蹶起し米英と釁端を開く
の已むなきにいたつた経緯は、当時既に帝国政府の声明公表等により

まして中外に明かにせられたところでありますが、殊に昨年の今月今
日は野村大使と私とがハル国務長官の手から日米交渉の最後の段階に
おける重大転廻点となり、且つ殆ど和戦の帰結を決したと申しても差
支へない、重要なノートを受取つた当日なのであります。従つて本日
私としては誠に忘れ難い日でありますとともに、我が国民に於ても特
に銘記して置くべき日であると考へるのであります。
 日米両国はその後約十日にして砲火の間に見ゆるにいたつたのであ
りますが、皇軍の向ふところ敵なく、開戦後僅か半歳にして南方全地
域に於ける米英の勢力を剿滅し世界戦史に比類なき大戦果を挙げたの
であるが、当時遠く敵国に幽閉の身となつてをりました我々は、相次い
て殺到するこの捷報を耳にして、転た 御稜威の宏大なるを思ふととも
に、日本人と生れました衿持と感激とを彌が上にも深くしたのであり
ます。さらにその後我々は無限の聖恩に浴しまして、いはゆる交換船
により万里の航程を越えて帰国いたしたのでありますが、その途上ア
リューシャンの攻略や、遠くアフリカ沿岸から太平洋印度洋の両洋に
亙る宏大なる戦線の展開、南太平洋方面等に於て執拗に反覆してまゐ
ります米英連合軍の反撃撃砕等を耳にし、またさらに途中昭南港に立
寄ることを得まして、皇軍の占領に帰した南方各地域に於て早くも大
東亜共栄圏の確立を目標とする政治、経済、文化各般の施設が、原住
民との協力の下に着々と進められてゐる実情の一端を見ることが出来
たのでありますが、この間にうけました我々の感激は、或は引続き故
国にお出の方々の想像に余るものがあつたと考へるのでありますが、
帰国後に於きましても、我々は常に当時の感想を胸にし一億国民の一
人とLて鞄革公の頓力を毒さんとしてをるので】撃閧ワす.
   抑▲今次の大栄璽取牢の上つて来ると亡ろほ耗だ轟いものがあると
  繋へられるが、今これを世界の鹿史について見るに、十九世紀以来の
  他界の勒向は、大雄において西方瀬漸山i鋲であつて、†九他紀以来
  木地の指民放は、四散列均の強い兵力十弛んだ樫靖力の礁野の前に惜
  伏を鉄鎖なくせられ、我多のアジヤ汚的はこれがために或は悌土を失
  ひ、破はその糎立を†ち失つたので払つて、我が国にすらも環近まで
  不平専條約の束籍の下に完全な関税円盤拍や裁判抽を持ち褐なかつた
  ゃ与な有様なのでもわます。大水鵬職印の唯卯史的心然性ほ、耳にこ
  の四駄弁カの不昔なる任犯に射すろ水城緒民族の反故といふことに存
  するのであつて、鞠伊その他の楢軸耗岨の如きは夙にこの大勢を洞穎
  し、l簡確等自身、軟榊新秩序の椰允を宅増すると同時に、発射の新
  秩悸設立を歯然の寄押なりと骨泣してめるのであろ。我が国がこわ埠
  招甲と柏転び、米英の如くこの大勢を杏妃しこれを阻止せんとする緒
  閑と聯ひつつあろ所以も全くここにその根源があるのであります0
  衣にこれを日米陶酔の湘係について見るに、米駒は十九≠批学ばか
  ち羊つ家郷との瀧商頃易を開始し、一入五三年にはいはゆろ製油をも
  って日本の開園を促すにいたつたのであつて、この米申の秩親政舛も
  その初期整、は、鼓として頴簡潔易の教展や、キリスト勤怠布の仰蕗
  を日額としたものであり、且つその榊米崩挫閑常時の滑敢徒的良心が
  動いてをつたや・つな的係もあつて、日米両国の湘休もまた鴫る衣好的
  であつたのであるが、山入九入牢米掛取申の掃架、米国人中の少数な
 がらよく組輸叶られたる帝捕ま鵡潜、大海琳鼓轟有望群が組和叶ら
  わぎる大熊を引措b、費に米節多年の侍挑む叫倒せしめ、フィyyビ
  yの併合を敢てし、米国もまた蠍削各的とともに澱雅称晰の仰剛人を

する′Jとになり′J山水.米姐従来の封東鵡敗報は俄烙その純招か山出
し、その表面に掲げる清教徒的理想生さ的看板と、そハ牡♯に包耕す
る帝国主兵的謀略との聞に調和すべからぎる矛盾を生するにいたつた
のである。いな寧ろ瑚感主義的襲名をもつて帝囲ま弟的樺略を煩柴
し、または速彩すろにいたつたといふ方が普つてゐるやうな軒蝕にな
ったのである。殊にこ山傾向が著しくなつてまわつたのは日粛批牢以
後であつて、即ち最初同敵役が起るや、米国は先づ常時太平洋〃牡丹
における強敵と熟めてをつたPシヤを抑へるために、頻りに我か圃に
同情と支竣とを幾つたのであつたが、我が国が固執後における叔々た
る靴勝の常然の緒果として、束弛における指喋的地位を占むるに繁る
ゃ、米国はその故知を−拗Lてひたすら日本抑鮎に貯めるのみなら
ず、モに一歩を進めて、純銀中水盤革、純銀並行臨計繋等に上つて、
我が国の手から我が国常然の取男を晦ひ、我が閉に代つて浦洲におけ
る鮨鶴的地位を占めんとすら企つるに爺つたのであります。この日本
抑骸政鮨ほ)〕らに一撃手世紀初覗からサンフランシスコ解釈榊庖に
先づそ山端を朝はし、その後加州そり他の土地法開放となり、故に後
年全米排日移托法制泣とまで準碑してまゐりましたところ山、米閑々
内における排日壌動”粁埋租化と灘行し、且つ我が団の国力及ひ印較
駒地位の向上に件ひまLて、愈上戦きを加へ氷つたのであります0
 即ち鮪一次世界大戦を撃」帝国の園域敵上換り五大弼閑∽ニに列し
て蔽上東亜の安定労力たる地位を占めんとするにいたるや1まづバリ
1謝和禽頻に於て、山東間取を掲げて、昨日までの興国たる日本を酌
斬抑制するに革め、さらに−九≡一年にほ葬楷倉粥を招集せしめて、
それまでとかく尤覗安定れ柱石をなしてをりまトた日英何盟む解約せ
Lめるとともに、海中人新株約に⊥つて我が海獣力〆牽脱を抑へ−さ
二 3)

彗竹■1よ爬〔三 宅.
箋渦潮桝し打附仙l医卜トレ抒駁晰1
も 鎗
臣九品恍約に上つ表が南蒜筑芳品椚せんと試去にい
たつた山で驚革もちろん焉芸表面盲的は、いはゆる挽
調政繁上つて豊は申すまでもなく、蓋を中心とする列申開係の
電を腎、上つて学芸宗讐招翌ん与る毒した等あ
 るカ、如何せん米英の悪條約蒜する澄ほ、こわにJつ′J是を
 抑攣ること豊眼といたした琴−杢毒頃、蛋白身が窟
 蒜外漫勅旨誓彗た昔時に於ては、何の麹驚姦もなく上海
 に大兵蒜彗、驚ほ米英富山寵が砲門蒜へて南京を塾す
 るが響ことす象てした等告が、地表が翌勤しては、常に
 率府悪約蒜繁る苦晶写る”政竺終始いたした筈、象
 に貰の義をして、九ケ悪約を初め雑府纂幽係の悪約ほ、黎
 する宗英が是宗彗ん与る葛を以て作つたものであり、倉
 雷来苧年宗しき量る我が醒忘繁る需留萌瀞草は串
 菅本の芙蒜↑る署蒜左なりと寄せしむるにいたつたので
 あつて、禁裏は常に米英∽芸を糊付しっっ管管蒜讐
 誓驚し、芸券ほ彗品等以東禁票特別の地位を占め衆
 つた満澄まで蟄せん与るトいたつた写−悪賢亀に浣†
 年の翌為政管掌する昌む姦言にいたり、こ巨先づ浦
 豊艶の勃誓見るにいたつたのである・こ∽響に、特にいっ妄
 きたいとことは、米英は常妄郡山羞を以つ盲ら任じて宝が、
 筈蒜むところは嘉讐嘉蒜土「贅攣あ写、芸人では
 ないといふことであるq仁れは芸蒜禁移民そ蒜蒜撃つい
 壷に夢毒那人質扶を包含して宝といふ冷かな壱に上つて
 晦る堆将にこれ奄物語られてゐるのであります.
  かくし蒜望悪筆いたし写るや、米担蒜是彗毒し
■l刑臥臥酎鮒酎町町町村H.


  屯ちに⊂れに対して舟集れ亀出を壊止し、さらに昨年七月帝拘が偽印
  に動Lて、共同防衛を協定いたしまするや、直ちに安泰流冶令を断行
   L、石油の亀出を禁止†るにいたつたのでありますが、⊂れ等は単な
  る擁坤地租といはん上b、正しく取中山湘始に比ナベ計‡大なる措辞
  【■あつたのであbまナ.現にルーズグエルト大統領日身も賓漂緒併
  行の数日前に行ひました績現におきまして、この穐経済彪泊は普埼封
  日取手を誘孝すペかりしを似てとれを敢てサぎりしなり云々と、態上
  過去を或はす首毛を使用し、坪め官外に正大なる合ギをもたせ、購求
  来るべき轄河革椚岨が取雫を想惜せるものなることを稚告したのであり
  ますが、関取珪剛mTち本年ニロユー十日.ハール圃彗久官補がデモインに於
  て行ひまLた頼脱に上わましても普呼米拘が対日槻馳を発憤してをつ
  た⊂とが明らかであるのであわます。しかも米桐の封8鞭謀はこれに
  止らす搾済敬弔に加へてもし日本屈服いぎれば、愈よ武力を以てこれ
  を抑へんとするの決意をも示し、いはゆるÅBDD封日包鋼線なるも
  のを練成し、アリユーaアソ上り萌脳にいたる怖剖形に迎絡叶る平群
  基地へ夷力を檜強して、我が用を成城したのであります。
   」れ上わ先太平洋∽平和保持に爪劇なる考慮を抑ひつつあつた縮図
  政府は、昨年の春以来引稚き準府においJ撫力、8米受払山達成に堵
  力を轟し来りつつあつたのγあるが、米国側が交渉中ばにして前址の
  如キ賛意硬持合、右独禁愉啓∽如き挑暇的耶氾を加へてまゐつたのみ
  むらず、前後十ケ月を漁じて何等花馳∽楠紳を試さず、終始一貫令出
  来並の現世を無税した掬善的抽象舶を繰返すに掴ぎないに拘らず、な
  ほあくまで戦前の太平弊地域湖准む肪止†るために、最後り腑憫まで
  局両打開を粥みんとしたのでもつて、不背私が命を奉じて太平洋を飛
  行摘肝いたト穴のも重くこの触抒に出でたりであります。
て帝竺革迫宗へん与る政讐一芸骨に苦†ることにな
bl才で嘉鑑蓑山勃賢次んでは嘉援助は彗管合作となり、
誉H髄迫ほ督H桃敬と駿良してま山つた芸あります.
さ畏宗米国は敏洲におけるナチ・ドイツl興に封し、耕りに孤
勲主義の智慧笥して軍備の洩誓腎、或豊芙同防讐志
し毒蒜蒜彗ひ反噂軸プロツク蹄成蒜彗苧した雀あつ
たが−欧州詣意義毒げ、警竺孟洲大数宗教を見るや、
米酪蒜防線は欧州に移蛸した呈稀して、」枢軸富盲警する大
品完備彗蒜行し纂を慧しめた等ある0誓に陳洲大協
に放て英俳聯合輩はいたるところに讐大敗を革り、盆にソラソスの
降伏と官、英本囲もまた外撃人の脅成に描面するにいたるや、米
国政府ほ頻畏英闘魂助に狂琴るとともに、霊に於てほ英澄替
つ表介石政描壌助山竺繰に彗星詣耗を企彗、あらゆる簡
媒を以て、正革なる帝方進出を阻止せんと彗たのであb†す。
 かく蒜くにして栄由は欧州に放ては1耕畏ドイツに封し醸迫を
加、ますると同時に、霊に彗ほ悪賢封しあらゆる紡讐牽制
を加へるにいたつたのであbまして−呈に封Lモ忘我が繁昔
時苺約申年に亙る嘉蓑貰わ、故に国力完野分な粥慧りと
の誓から出撃して、批宗転迫故地て我が申を屈附せしめ得ペしと即
断し、先づ取出鵜此政讐学我が翌藍し、ついでさらに轟的
耗済転泊の前提とし盲米汲商傭約を岨署するにいたつたのであ皇
 す0常時我が申ほ墓にも迫りつつある容易なら首る申弊政局の推甘
 に鑑み、軍大なる甲繁決意の監に立言、耗常にホ廿筈王ねてたので
 あつたが、uの打鍵く米留”由泊政触にも鑑みましで怠に彗決し
 盲野伊≡甲憮約窄成空しむるにいたつた等あ豊すが、米賢
(4)
 憤るに米南側に放ては我等の費樟達成の熱意に対して、蓮ながら
初から共鳴惜別の協定を示さず.交渉ほ常に同一の粁念漁、原則飽女
中心として無限に椙印するのみであわましたので、我々は昔時姶ど刻
幻崇迫しつつあbました血岨局を柏換し、息締る如き露朱を出来得る
限b揮和せんとする、壌めて丈際的考舷から昨年十一月〓十日附を似
て一種の暫定案を塊出いたしました。その内容は故に公表せらた確り
であつて、葬するに箕蛮溌持合その他に上わ著しく革態が感化した以
前の状態に一憾引戻さうといふ耗官であつたが、帝国側ほこれに封し
十−月〓†六日附を以て三国條約上わの事†上の稚耽、支那故に沸印
上わの全国的撤兵、帝京政府の杏恥、多逮的不可環礁約に上る藩魯
窮地制の再捷葺が前の受持、到底不可能なろこと最初上り明瞭なろ
汚弥包含むノートな突きつけてまゐつたので、交渉は⊂こに正大なる
難粥に逢蒲サるにいたつたのであります}
 その後、即ち緒戦後にいたり、その十一月二十六日附の米国のノー
トが他の文字とともに公表吋らるるを見た米国の→評論家は、かくの
如きノートを受取つた日本が榊軌を決意したのは諒解に榊からぎると
ころであるが、普然故事を誘攣すべきこの種公文讃を何年稚め園民に
格ることなくして日本に突きつけた米国政府山稽僅ほ耳に不都合千残
であると慨興してゐる捏である。さらにまた昔時米国が如何なる名指
をもつてこの文啓朴我々に手交したかといふことは、脾職後に教義せ
られたる米国の−公文審に上つて頗るはつきりと示されてゐるのであ
bます。即ちかの虞珠沌大敗軌の典相を綱査すべく、十二月十入日に
仔命されたるP.ハーツ重畳が、現地において調査せる鈷果に基いて
作成した、−月〓十四日附の報告者打上ると、十−月〓寸六日ハル長
官はこのノートを我々に手交いたした蛍時、かねて閤輸その他におい
(6)

 て帝機な適格を保ちっっあつた米印捜海瀬の首脳部に勤し、8米安野
 ほ朽ひ開かわぎるべき状喚打瀬いて魅絵したと報告し、憮軍蔑蓑
 び海軍作戦部長はこれに基ついて、そかそれハワイにおける海陸同額
 官に勤し、職閑開始の必野なる措債を消ずべしとの梯浄飴令を致し丸
 といふことを明托してゐるのであゎます・
  喋って米同政府は昨年十l月l手六Hを以て封日閑散の決官女確定
 したと断定して聞遜ひないのであつて、今次の鞄事を挑ん皐のほ
 繋に米圃であつて断じて我が国でないといふことは米国自身の公文宰
 によつて公式に明際にされてんる許なのである。さらにこのP.Tツ
 委員身の湘食前中には十∵月二十七日以前に放ても日米交渉の博労と
 湘聯1て、薄々封臼閑職の準備をなしつつあつたといふ⊂とを♯控し
 得る現多山車繋が祝されてゐろのであるが、殊に注意すべき性向報告
 の同和山都分に於て、架印…太平洋政雄ほ他園政府山政鮨と衝契しを
 るを望」、米開陳将軍ほ右衝突胡る諸政策が調和せられぎる限わ、太
 平洋職印は不可避なることを臼現しをわた旦誉へと申してをb、さら
 にまた稲普り他山部分に放て一九州二年】月〓十四日、海軍長官ほ
 陣平良官宛彰翰を以てH米圃交の危槻増大し、良殊滞における太平洋
 堀顔の安全岡顔につき再検討の必要を促すにいたわbと洩台Lたと‡
 いてあるのみならず、そm普喝山軌測として日米開放山韻合、日本は
 ま一流珠轡の振放を有難し来るべきこと、右有難は焦礎たるべきとと
 花び堪撃時糊は未明たるべきこと女傑想しをbたゎと奔表してゐるの
 であるd即ち約一年も前から米閣側がかほとまでに理想してをつた寄
  申が、その後その漁り辛現したのに封し、トレツナヤラス.アタック
 軒ち「だまし打Jであると非難を放つてんるのは誠に不可息粥であつ
  て、黎†るに触らの油断を押囁きんとすろ硯締と見る外ほないゥ

l島臥仙取掛掛野ぎ′



  TTトランチックチ十−ター1を完海すべしといふや与た鼓だ凛
  とした軌平目的を掲げてゐるのであります。しかし本年春頃ルーズプ
 ールト自ら⊂の戦争をウアー・オプ・サdハイ.ハル即ち「生き残るた
  世の取黎」と名づけながら、日らこれを飴り気に入らぬと申してをつ
  たといひまするのは、いはゆる「語るに落つる」とも申すべきで、そ
  の映り中には壌に日本の制魅に止まらず、世界を革げて米由の制御の
  下に督かんとするが如き甚だ梓易ならぎる金団を包癒してゐると見る
  ほかないのでありまして、これを最も上く現したものは本年五月三十
  日、即ち兜づ我が招魂祭に歯るメモリアルデーに際して、拭務次官サ
  ムナー・ウールズの行つた演説であります。今粥みに常時ハエ■1
  Iク.タイムス」む記事に基いて、その雰賂をあげて見ますると、同
  次官は先づ前大馳における米国の図般桝盟参加鵜杏を以て今次の大取
  の】大原均なむと唱へ、次いで今次の大取後における諸民族の解放、
  人種平等の怖北等を苗唱しました上、次のやうな籍軌を戦争目的とし
  て出べてゐるのであります。即ち
  (一) 馳甲群作塘たろ個人、環圏及び駒鳥の虞嗣
  ハ〓) 職後椚密長期に亙わ休戦期間を設け、その聞に侵略図山軍備
    桝懸夜行ふこと
  ハ≡) 平和保持∽永久的機構確立にいたるまで、敢闘及びその興国
    において閑際響賀力を維持行使すること
  ハ四) 取後、粍済開嘩、紀伊同額の席埋た了したる上、米閑とその
   輿凶を器礎とする開襟組繊を設け、徐ろに平和の最終條件を決定
    すること
  〔托) 欄後山他界秩停維瀦に於てほ米閑はネ小指料済たるペき⊂と
   ハ六り 汎米槻椛ほこかを紳細サる亡と
 とにかノ、米桐畑がかくり如く夙に日米戦争の必雀な考、ながら.B
米交渉にほ何等の熱意を示さず、刺へ前述の汲b、独学な宅悟で‡産
凍描令、蕪油等を断行し、さらに最後漁礁の心算で、±月二十六日
附?ノ・トを寄趨したといふことは、支加宰姥に蚊辞せる白木は輸局
坪済的鮎迫に風服し、全開的に米凶の要望を容態すると高をくくつた
か、或はまたたとへ日本が職研を敢てしても、到底米英聯A量を敵と
して呼ふに足るだけの繁力がないと良したと見るほかないのであつ
て、営噂私の耳に入つた情報によると、米閉山二部においては、日本
を妨地に温ひ込み、太平洋開放を飴俵なくせしめることが、竃間取
について分熟しっつあつた米囲山国内を、蛾臆なしに緒来せしむる最
良外力法なbと侶ずるものも少くなかったといふととであります.萱
しとの機粘から卜ると、前細の在ハワイ海陸司令官に宛てた十言二
十七8附の海軍作戦部長及・い陸車参謀組長山命令中に、敬申が避け軒
い翌日に畢」も、米園側にり先づ数学行用を執ることを欲せずと訓令
し、彗Rテわば先づ日本をして手出しをさ叶ろといつてゐますのは、
意味甚h深長なゎと見ることが出来るのであゎます.
 米担はかくの如くにして救が園を職窄に追込んだのであbますが、
その目標とするところは、前に組べましたブイリ,ビy山間有以来急
角度に度関した大東滞政策山眼目たる、日本側転に存することは申す
までもないのであbます。しかし流石にこれを康骨に国民に寧亦する
辞にもまゐらぬと見えまして、まづ混瑞相”弛撃を以て日本りトレタ
ナ†y■即ち「詐謀なり」と筒唱し、日本なして再ひかく山如き詐謀
な不可能ならしむるため、こわを撃破すべしと喝へ、さらに糎軸汚旬
を打倒して、自由真義、民ま主義を擦賎し、且つルーズグ.ルトとチ.
1チルとが太粥汁上∽伊祓において協試しましたいほゆろ大西洋箪塩
(ti)
等であbます.
 右の中ハ〇の執申賓任挙式々は、本年三月初め英再のイ一ナy外
相が、椎と電慶政槻との創作にかかるところの香聾虐待同属を盛
に丑伴いたしました際宮明したところと合せ考へて見ますと、‡臣容
易ならぎることを意味するのであつて、我が声民生泣の鳥酌を日環と
してゐると見るのほかないのであります。
 次にハニ)の侵略圃の軍備柑喝ハ三)の国際替琴武々は我が国な
丸裸にしてこれを米英萌歴等の武力的駈制の下に置くといふこと。
ハ四)ハ五)は要するに敬後の他界をアンダロサクソソの樹伐の下に貯
かんとすること。ハ六)は西半球は引絹き米国の勢力朗たらしめんと
いふことなのであります。
 苦らにまた大西洋頚税の中にある、経済上の自由平等を基嘩とした
世界平和確宰茶々の聖Hも、前記のハ四)(吾と合せ†考へて見ます
と、弊するに各国家が米閲に依存せねばならぬやうな軽済漁制を確立
し、米国は何時でもその欲するときに棲済転追もしくはそれを沃めか
ナ亡とに上つて各威を制御せんとするにほかなら拍のであります0こ
れによつて米英がその汲平日的として、烏研がましくも我が国に練せ
んと企てつつある憮件は大池想像に難くないのでありまLて、即ち彼
等は我が威をして粗放閑として再び立つ能はぎるが如き境地に増落せ
しめんとするのであbまLて、我が国がいはゆる石にかぢりついても
この馳平に捗ち枝かわぼならぬ理由の一つは耳にこ⊂に存するのであ
りまナ。
 かくの如く我が酌と米英との牢ひは全く喰ふか噴はれるかの死開で
ありま1て、Lかも我々が見解に⊂れに持ち扶きまLた秋においての
み、東砧の対比践ほ、初めて敬桝鮎に亙る政治上梓軒上の樺措から解
(7)

慧−られ、我が彗醐の拷紳たる八紘招革の大畑想に適さまして、求並
の各級準各戌族ほ各よその威を柑るに宅り、盟邦翔伊が蚊洲におい
て企翻しっつある新秩序と相保つて1⊂こに初めて動きル言値非平和
が構丈L得るりでありますから−我々は今後如何なる困難をも、また
如何なる試煉をも突破いたしまして、扁光軽ある断利に向つて邁正
せねばならねのであります0我々の敵国たる米英が甚だ強大なる梓済
力む有し、こm敷から見て繋に侮るべからぎるものであることは、殊
に最近各巧蔚において唱道せられつつありますから、私は敢て−」れな
繰返トません0ただ私は彼等が単に物資の※両においてのみならず、
取革盤行の璃力においても決して親醜すべからぎるものを持?てゐる
といふことを徴調したいと存じます0
 世上往々米英は繁利主意の申であり、殊に米歯は緒民族の璧最槽
であるから1その醒内枯凍ほ礪る押易に崩壊†るであらうといふやう
な考へを持つて懲られる力もあるやうに見えますが、かくの如きは†
に大なる措耽であろといはねばなbませんっ成税関勒の初期におきま
してほ弊頭軋殊群及びヤレT沖の敗馳から受けた衝動と和侠つて、
人心の励樵混線もむつたのであbませうへまた今打と坪も米商人飢一
部には米国政府が革態を象に関取の破局にまで温ひ込ん▼仁ことについ
て公正ね批判を持つレゐる者もあbませう.しかL米国人ほ本土の東
西L太平大西の雨洋を損へ 如何なる回に射しても不敗の地位にあら
と倍じてをb、また冨大なる物的及び人的賓淵を崩みとし、終局にお
いては如何なる困に勤しても必勝の地位にあると信じてゐるのであゎ
ま†・更にまたこれを指導いたします政府は、過去九ケ平にわたb政
向を担つてをりました粥係上、国内各万両に根強い労力を拭梅してを
b−且つ題上の戦時特別先払にJる粗裁的抽限を有してゐるのであゎ
まして−頓とこれと柏供つて米戚托を息ふままに引摺わ和る地位にあ
るのであbますO Lかも躁珠舘における我が娼の攻撃にエつて敵弾を
除俵なくせられ七といふ立場を姐御食侍してをります緒果、反射盤た
る炎和琴特別の地位な持つてゐる労働紺地にいたるまで、いづれも
取雫患行、政府鞭挽を扶印としてをるのであbますから、国内の政敷
政沢山陶傾が如何に動かうとも、ただいまのところ独学盤行に何等勅
耗を来すが如きことはあり和ないと考へられます。従つて今後さらに
柑常程度の敗戦を重わます誉dととなりましても、米隣人の抗敬意力
は俄かに弛まるやうなことは持と想像し待ないのであります。
 しかし我々は煮りに敵を恐れてはなゎません。我々は眈にアジヤ大
陸及び南北太平洋町贋汎なる地域水域に瓦つて敵を撃破し、敵を制転
してをるのであむます。我々はこの地域の兜沼を閑教動員することに
上つて、物質的にも筏上不敗の態勢を閏めますと闘将に、とれ等の地眈
における東避民族を解放し指導し、且つこれと地力することに上bま
して、措辞駒にも慈よ必捗の態弊を鶴へ得るのであります。況や我々
には〓千大官年の侍統に上つて養ほれ爽つた烈々たる滅私準公の措辞
があり、世界の如何なる甲の泡鰭をも許さない変酪の構群があるのみ
ならず、有史以来常に我が国の上に攣‥欠いノた公大無逮の微税威を庇
いてゐるのであり‡して、ここ打我々の必捗の信念の確乎たる基礎を
持つてゐるのであゎます。故に今後我々が平群に、外交に、政治に、
軒済に、基よその全力を横倒して、聖数日的望一芸を呵わ、外珊伊そ
の他払盟邦との提携結末を噛め、内大東猛火発の措辞に徹し、断じて
とれをロ朔押に捗らしむるが如きことなく、親行者粍革ミ」れを現モ
の土は鞍大してまゐりましたならば、我々.小最後の勝利を持ち得ると
と性愛く妖ひたいのであゎまして、いな寧ろ勝利の碍は故に我火の手
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 中にあるといつても鳩首でないと指するのであります.
 ヰ軒しく申すまでもなく、大栄亜戦争の目的としレL我々の立場する
と」ろは、多年米英常専の帝国主費持前に虐げられ、沖囁され来つた
東雅の帝民放を奴致して、各阿をして各上そのところを得せしめると
何時に、ヨIP,パ、アメyカその他における同様の地頭的共学箋叫
と錘靖的L有無相貌−て掃沖的文化的に長栢柏補ひ、ここに世界中
和、人頓共典の推ぎなき基坤を砕かんとするのであわまナ。我等のこ
の中学目的に射Lまして、これを妨げんとする英国の意匝は、黎ナる
に十九億転以来の楓艮帝串岨枯やいほゆるオツタワ・ブロックと和す
る耕地的軽済漁制を新たなる名日の下に擁鮮することに上つて、白河
ひとb転宅せんとするものであり、また米阿の企印するとりろは】同
汎米協力、善粥政策専の契名の下に西半球を米周の掬占的労力担と
し、他面前述のり.ルズ平和原則中の米国の他界指導他、男棋_窄−
耗済制裁の理念に上むまして、アジヤ放びヨーPッパ、アフyカ等い
たると.」ろの阿恩に不晰の干渉を赦てし、以て自執の世界制斬を達成
 尊皇壌夷 の 血
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 九耗魂独学勃蛮以来将に】ケ年、皇革の武威大いに澱ひ、開成嬢と
して宇内に埠車、大東蛮の拙澄また薄々亡して進行してめる・この
救、鼓に夕に、−書は大8本官少年鄭色なヱと騨有らかに自らを搾
せんとナるのであbまして、眈に中南米の多赦の再々の加計は#衆西
牛球の防砺と協力とを日的とした汎米主義を何時の側にか頻甜され、
米田を扶けて我が国に勤して宜放し、また再交を断絶し、彼等とほ▲仰
山叩係なる東亜の同額にまで干渉することになつて衆たのであります.
野するに我人の主頻は、我等のものは我等に据せといふのであbます
が、米英の欲するところほ鞍等のものは彼等に我等のものも牡等にと
いふ¢でありまして.何人が兵士しても、その間の正邪ほ明かである
のであむます.苦し耶の正に野た官るほ冨Hの鍵則でありぜして、我
が国の正しい主張が終局に於て肝なる米英の主繊に打勝つべしといふ
ととは動かすべからぎる天理でらると挿伺するのであbます.
 私はとの十一月廿六日といふ日米申交史上佗念すべさ8に甘つて、
我が一億の局地がさらにその侍念と決瀬とを研にし、物心相方面に五
つて轟上取時吐制を強化し、来らんとする大文花独学の♯〓年に突弘
せんととを熱望する次鮪であbます。 (十】月二十六日放逸)