尊皇壌夷の血戦 情報局次長・奥村喜和男
大東亜戦争勃発以来将に一ヶ年、皇軍の武威大いに振ひ、国威燦と
して宇内に輝き、大東亜の建設また着々として進行してゐる。この
秋、晨に夕に、「我等は大日本青少年団員なり」と声高らかに自らを矜
り、友を頼みては、「大御心を奉体し、心をあはせて奉公の誠をつく
し、天壌無窮の皇運を扶翼し奉らん」と、襟を正して励まし合ひ得る
大日本少年たるものは、世界最大の光栄を担ふものである。人類最
高の栄誉に輝くものである。
しかもなほ、本日 天皇陛下曩に東宮におわしましし頃賜はりまし
たる令旨奉戴二十二周年記念日を迎へ、全国千五百万人の青少年挙つ
て一層の御奉公を誓ひ、大東亜戦争完遂のため粉骨砕身するの決意を
披瀝し、宏大無辺なる大御心に副ひ奉らんとして、ここに記念式を挙
行せられたるは、戦争下まことに駭目すべき壮挙であつて、大日本青
少年の心からなる喜びたるとともに、広く大東亜各地域の青少年にと
つても、偉大なる歓喜であると確信する。何となれば、今や大日本青
少年の行動は、ただに皇國日本の隆替を決するばかりでなく、大東亜
の歴史と、世界の運命を決定するからである。
私は、本日のこの意義ある記念式に参列し、神宮外苑の青年会館を
埋むる全国青少年代表者諸君に対し、いな諸君を通じ、ただ今全国に
展開せられてをりまする青年常会に呼びかけ、偉大なる存在であり、
重大なる責務を負ふ愛国の大日本青少年全員に対し、私もまた憂国の
赤誠を披瀝して、ともどもに曠古の難局打開に挺身せんとする決意を
新たにし得ることは、不肖私の最も光栄とし、且つまた歓喜に堪へな
いところである。
我が国においてはこれまで、青年は第二の国民であるとか、将来の
日本を背負ふ国民であるとかいはれて来た。しかしこれは明らかに間
違であり、尠くとも現在においては適用しないのである。
私は敢て叫ぷ、青年は第一の国民である、国民中の第一線主力部隊
である、現在の日本の運命を双肩に担へる責任者であると。戦場で生
命を捧げ、鮮血に染みつつある者は誰か。いふまでもなく青年であ
る。工場において鉱山において、血みどろになつて働いてゐる者は誰
か。農村において田園において、率先して土を耕し食糧増産にいそし
みつつある者は誰か。青年である、若人である。青年こそ、国家の運
命を決定する責任者である。
爾今、青年を第二の国民と呼ぶを止めよと、私はここに絶叫する。
青年こそ、歴史を創り国家を隆昌に導く原動力なりとの認識を、青年
自身は固より、国民は一層深くしなければならない。青年を尊重する
国は栄え、青年を尊重せざる国は衰ふのである。これは歴史の悉くが
立証するところである。特に国家が隆替の岐るる一大難局に当面する
場合において然りである。ローマの繁栄も敵国イギリスの過去の発展
も、盟邦ドイツの勃興も、皆青年のカによつて成し遂げられたのであ
る。いな、さうした外国の例を俟つまでもなく、彼の明治維新が----
近代日本建設の回天の大事業が----概ね青年の力によつて、青年憂国
の志士によつて成就されたことを回顧すれば十分である。青少年に対
する国家の期待の今日ほど大きい時は未だ嘗て無く、また青少年の果
すべき国家的責務の、現在ほど重要な時は嘗てなかつたのである。
御聖断のもと、国運を賭して戦ひつつある大東亜戦争の完遂は、一
に青少年の旺盛なる戦意と燃ゆるがごとき愛国心に繋つてゐること
を、ここに改めて諸君とともに確認いたしたいと思ふ。
大東亜戦争は、帝国がその自存自衛のため蹶然起つたものであるこ
とは、炳乎として大詔に昭かである。帝国は昨年十二月八日、三千年の
歴史と伝統としかして国家としての権威を護るべく、正義の刃を抜い
たのである。この正義の剣は、敵を倒すまでは断じてもとの鞘に収め
るわけには行かないのである。大東亜戦争は、祖宗の遺業を恢弘し、
速かに禍根を芟除して東亜の安定を確保し、以て帝国の光栄を保全す
るまで戦はれねばならぬ。即ちこの戦争は決して日本のみのためでは
なく、全アジヤのため、全アジヤ十億の民族のためである。その名の
示すごとく、大東亜のための戦争である。われらの同胞十数万が、遠
く海を越えた大陸において、また南溟の天地において骨を埋めたの
も、今なほ多くの同胞が血を流してゐるのも、全くアジヤ復興のた
め、東亜保全のためなのである。
想へばアジヤの歴史は永い間アジヤ人の歴史ではなかつた。それは
西欧人の歴史であり、米英の歴史であつた。四百年の昔、バスコ・ダ・
ガマが南アフリカの南端を越えてアジヤの天地に船を進めて以来、大
アジヤは、スペイン人、オランダ人の支配するところとなつた。やが
てスペイン、オランダはイギリスにとつて代るところとなり、イギリ
スは印度を侵略し、マレーを制覇して、次第にその爪牙を延ばして東
亜に迫つて来たのである。
即ち百年前、阿片密輸に端を発する暴戻なる阿片戦争によつて、香
港を奪取し、やがて支那全土を植民地化してしまつた。フランスまた
これに倣ひ、ロシアはシベリアを征略して北辺より支那に迫り、厖大
なる領土を掠めた。この時アメリカはやうやくイギリスよりの独立を
完成して、次第に国力を整へつつあつたが、今や太平洋の彼方より、
アジヤの天地に侵略の魔手を延ばして来た。即ち支那侵略の野望を達
成した彼等は、更に進んで日本を侵さんとしてイギリス、フランスは
南より、ロシヤは北より、アメリカは東より迫り来つたのである。
嘉永六年六月、ペルリが黒船四隻を率ゐて浦賀湾頭に現れたのは正
しくこれである。その時、日本の運命は風前の燈にあつたのである。
国を挙げて上を下への大騒ぎを現出したのである。愛国の熱血に燃ゆ
る烈士、憂国の志士が、天下を憂へて東奔西走したのはこの時であり
平野國臣、橋本左内、真木和泉、吉田松陰、皆この時生命を捨てて尊
皇攘夷のために挺身し、つひに血を流したのである。太平に馴れ、国
防を怠り、國體の何たるやを識らず、神州日本の真髄を悟らざる幕府
当路者は、右往左往するのみであつて、徒らにペルリ相手の日米交渉
の遷延に期待するのみで、一も決するところがなかつた。
しかしながら、神州日本の正気はつひに国難打開の担当力なき幕府
を覆滅し、明治維新の大業は成り、ここに 天皇の御親政が始つたの
である。かくて、西欧の日本侵略の野望は一挙に粉砕し去つたのであ
る。もしその時日本の反撃なかりせば、ひとり日本の独立が脅かされ
たのみに止らず、アジヤは完全に一の例外もなく西欧人の侵略の下に
植民地となり果てて、永くその鉄鎖に繋がれたことは疑ふべくもな
い。この時日本の蹶起なければ、ヨーロッパ人とアジヤ人との間には、
古代における貴族と奴隷との関係に似た隷属関係が設定せられたであ
らうことは、或る西洋人歴史家の説くところである。明治維新はたしか
にアジヤ保衛の第一撃であつた。米英討伐の進軍開始の蜂火であつ
た。米英勢力の日本侵略を打破し、アジヤの完全なる征服を防止した
のである。即ち維新の志士が血を以つて主張したる攘夷の念願こそ、
アジヤをよく保衛し、神州日本の神聖を護持し得たのである。この攘
夷精神こそ、まことに尊い日本精神であつたのである。
青少年諸君は、この幕末の志士の主張たる攘夷を、鎖国と同一視す
るがごときことがあつてはならない。鎖国は碁府の主張であり、佐幕
の精神であり、現状維持の精神に立つてゐたが、攘夷の精神は討幕の
精神であり、國體を明徴ならしめんとする精神に立ち 皇道に基く維
新の精神に立つたのである、同じく守る精神に立ちながら、鎖国の守
らんとするものは目前現下の現象的制度に過ぎないが、後者の守らん
とするものは、神代ながらの一貫不動の神の道であつたのである。明
治政府の開国を以つて攘夷運動の敗北なりと看るがごときは、全く鎖
国と攘夷とを同一に看んとする、己の認識不足を暴露する以外の何物
でもない。尊皇攘夷の精神は、維新以来脈々として日本人の心の中に
流れて今日に及んだのである。即ち米英撃滅の大東亜戦争の悲願は、
夙に八十年前の尊皇攘夷の精神に淵源するのである。
私は今ここに、諸君とともに歴史の説くところを断乎として訂正し
たいと念願する一事がある。それはペルリの来航についてである。こ
のペルリは日本侵略のため来航したものであり、日本を脅迫し、和親
条約を強制し、あはよくば日本を覬覦せんとしたものであるにもかか
けらず、このペルリのことを、われわれは少年の頃より開国の恩人な
りとして教はつたのである。アメリカは日本を開国してくれた恩義の
国であり、ペルリはその代表者たる開国の恩人なりと、教科書も雑誌
も新聞も名士の講演も、八十年の永きに渉つて賞めそやして来たので
ある。諸君の中にも、まだ左様な歎かはしい教育を受けた人も相当ゐ
るのであるが、今日限り、この今の瞬間から、ペルリを開国の恩人な
どとは断じて考へてはならぬのである。
明治の聖代は決して敵国アメリカの慈悲や恩恵によつて成し遂げら
れたものではない。ペルリはサンフランシスコから太平洋を航海して
東京湾に来たのではなく、彼は遠くニューヨークを船出して、アフリ
カの南端希望[ママ]岬を廻り、シンガポール、香港を経て沖縄に到り、ここ
より小笠原諸島を経て浦賀に来つたのである。アメリカ人のいふごと
く、正に世紀の大遠征であつたのである。この時の大統領はフイルモ
ーアといふ男であつたが、この大統領の訓令と、ペルリが沖縄より本
国に送つた報告書を見れば、この遠征が正しく日本侵略のためであつ
たことは明らかである。私は今から五年前フイルモーア大統領の訓令
の実物をアメリカのボストン博物館において瞥見し、痛憤これを久し
うした時の憤激を今なほ忘れ得ぬのである。
この明らかな事実にも眼む覆ふて、ひたすら米国を恩人扱ひにし尊
敬するやうに、明治大正の青少年は導かれたのであるが、大東亜戦争
下の大日本青少年は断じて左様であつてはならない。米英に対し戦が
宣せられたる現下においては、諸君は日米及び日英の国交の過去に関
しても、米国本位、英国本位の見方を以つて眺めてはならないのであ
る。どこまでも日本人の心は日本人の眼を以つて凝視し、検討するを
要するのである。日本世界観と米英世界観との戦ひである大東亜戦争
は、また日本歴史観と米英歴史観との戦ひでもあるのであつて、今や
日本人は、日本の歴史は固より、アジヤの歴史を、アメリカ本位イギ
リス本位に見ることを止めて、ひたすらに日本人の心、アジヤ人の心
を以つて見ることが絶対必要である。今までわれわれの学んだ歴史
は、余りにも余りに米英的であつた。米英人のみが世界の支配者であ
つて、他の民族、特に有色人種は劣等な人種である。アングロサクソ
ンのみが人間だといふ建前で世界の歴史を学んでゐたのである。世界
の三大宗教を生み、欧州の文明の基礎であつたアジヤの業績をことご
とく抹殺し、アングロサクソンのみが神の寵児であるかのごとくに世
界の歴史を書き歪めてゐたのである。
その一例を更に一つ述べよう。それはマゼランの太平洋発見であ
る。われわれの習つた教科書によれば、西暦一五二〇年スペインのマ
ゼランが太平洋を発見したと教へてゐる。ポルトガル人のマゼラン
が、スペイン政府の後援で世界一周の大航海の途につき、大西洋を横
断して今日のブラジルに着き、これより更に南下して航海すること数
十日、つひに南アメリカの南端を迂回して大きな海洋に出た。それま
での大西洋が波濤山なす荒海であつたのに比べて、これはまたまこと
に静かな大海であつた。よつてマゼランはこれをパシフイック・オー
シャン即ち太平洋と名附けたといはれてゐる。これマゼランが太平洋
を発見したと西洋の歴史が述べ、また日本で印刷され日本で発行され
たアジヤの歴史にもかく説かれてゐる所以である。
しかしこれほど間違つたことはない。太平洋は一五二〇年初めて現
れた海ではない。千年の昔、三千年の昔、万年の昔から、日本の東に
横つてゐた海である。われわれの祖先はこの海とともに生き、この大
洋とともに栄えて来たのである。日本の肇國とともに東の海は横はつ
てゐたのである。日本を離れては太平洋はなく、太平洋を離れては日
本無しである。しかるに、これをスペインのマゼランが発見したと書
かなければ入学試験に合格しないといふが如きほ、滑稽を通り越して
むしろ悲惨である。
私をして率直にいはしむるならば、この海洋を太平洋と呼ぶこと自
身すでに適当でない。世界の歴史が日本によつて決定せらるる今日、
この海洋をマゼランの命名によることなく、よろしく日本中心に呼ぷ
べきであつて、私はこれを大日本洋と呼称したいのである。私は常々
かう思つてゐたが、先日図らずも、徳川時代のある本を読んだとこ
ろ、日本の地図を初めて苦心して完成したといはれてゐる伊能忠敬
の、その師匠に当る人の父の高橋景保といふ人が作つた新訂万国全国
といふ地図においては、この海を大日本海と名附けてゐるのである。
二百年の昔、日本人の心を持つたこの篤学の人は、すでにこれを万邦
無比の日本の國體にふさはしい命名をしてゐたのである。深く諸君と
ともにこの高橋先生に敬意を表したいと思ふのである。大東亜の天地
からアジヤ侵略の米英の拠点をことごとく覆滅したる現今、われわれ
は断じて米英の心を持つて歴史を見てはならないのである。
かくして、日本人の眼と心を以て歴史を顧る時、われわれの知識に
して修正を要するものは枚挙に遑がないのである。
日清戦争のごときもその尤なるものである。この戦争は決して日本
と支那との戦争ではない。日本と清朝との戦争でもない。正しい史眼
を以て眺むれば、この日清戦争は、すでに日本とイギリスとの戦争で
あつたのである。当時清朝は国威振はず、覆滅の前夜にあつたが、実
質的にはイギリスの傀儡と化してをり、イギリスの代弁者となり果て
てゐたのである。朝鮮問題を契機として、清朝を指嗾して背後から操
るイギリスが、日本の真の相手であつたのであつて、その点は今次の
支那事変の真の敵が、蘆溝橋事変勃発の当初よりイギリスであり、ア
メリカであつたことと寸分も違はないのである。
このことは決して私の独断ではない。アメリカの歴史家で、東洋問
題にしばしば犀利な史眼を元すアダムス・キボンが説いて已まぬとこ
ろである。即ち彼は「世界政治概論」といふ著書の中でかういつてゐ
る、----日清戦争は日支両国民の国民的戦争でなく、当時清国政府の
政治的背景を写してみたヨーロッパ侵略勢カに対するアジヤ民族国
家、日本の反撃であった----と。説き得てまことに妙であると思ふ。
五十年の昔、明治維新の尊皇攘夷より二十七、八年にして、日本は夷
を払はんとする第二反撃、即ち攘夷を決行して勝利を占め、アジヤの
保衛にさらに巨歩を進めたのである。
日清戦争に次ぐ日露戦争が、北より迫り来れるロシヤを討滅してア
ジヤを保衛せんとする大聖業であつたことは、今日においてすでに世
界に著明である。この戦争の世界史的意義は、大正時代の青年と雖も
正当に理解してゐた。日本が世界最大の陸軍国ロシヤを破つたといふ
ことは、世界の人々を驚歎せしめたのみでなく、アジヤ十億の民族を
して限りなき憧憬と尊敬とを日本に捧げしめたのである。(東方に国あ
り日本、日本は我等の兄弟国なり)との信念は、揚子江を渡りヒマラ
ヤを越え、スエズを渡つて風靡したのである。即ち今日、一億国民が
国を挙げて完遂に邁進しつつあるアジヤ十億の民の声であり、アジヤ
に国を成す国々の悲願であつたのである。この時、日本が真に己の東
亜における他位と責任とを認識して、率先アジヤ復興に取りかかり、
東亜の禍根の芟除に邁進したならば、必ずやアジヤ復興は今を俟たず
して三十年前、或は緒に就いたであらうと私は確信するのである。
しかるにヨーロッバ勢力のアジヤに対する支配は、その後ますます
強化し、東亜の米英制覇がいよいよ拡大したのは何故であらうか。そ
れは日本がアジヤの心を失ひ、東洋の魂を奪はれたからである。アジ
ヤに国を成してゐながら、その責任と地位とを忘れて米英の驥尾に附
すことに努力したからである。日本が米英依存となり、米英崇拝とな
り、米英の属国なるかのごとくに行動したからである。一言にしてい
ふならば、日本人が尊皇攘夷の維新の志士の心を喪つたからである。
第一次欧州大戦において、日本は日英同盟の情誼により、聯合国側
に加つて参戦した。日本の参戦が英仏米側の戦捷に圧倒的影響を与へ
たるにもかかはらず、この従順な貢献者に対し英米の報いたところは
冷酷不遜まことにお話にならぬものであつた。ベルサイユ会議がこ
れであり、ワシントン会議がこれであつた。
しかもまた、戦争中より米英の思想謀略の魔手は日本に延びてゐた
のである。日本が日本人の心を喪失したのは、大正以来特にこの前の
欧州大戦中であつた。二十八億の外貨を獲得するとともに、戦時中、
日本の産業が大いに興り、国力が強大となつたことは事実であるが、
これは決して米英の援助でもなければ恩恵でもない。日本自らの手に
よつて、日本自身の努力によつて成し遂げたのである。
ただここに遺憾なことは、二十八億の外貨引当に、日本は大切な三
千年の遺産である大和魂を輸出してしまったのであつた。家族主義の
醇風美俗を破壊して、個人主義、自由主義が侵略して来た。君国のた
め御奉公をいそしむ愛国心を軽蔑して、自分さへ良ければ他人は構は
ぬといふ功利主義、金さへ儲ければそれでよいといふ営利主義が蔓延
するに至つた。労資提携して一つ心になつて事業を営むといふ日本本
来の勤労精神は、労資相剋の共産主義によつて著しく混乱せしめられ
た。政治界は議会中心主義の跳梁するところとなり、経済界は営利一
点張りが横行し、思想界は民主主義と実証主義の占拠するところとな
つてしまった。国民生活一般もまた、安価な享楽主義とアメリカ的生
活様式が流行しはじめ、日本は米英の思想的植民地であるかの観を呈
したのである。私はこの悲しむべき時代の所産が、今にしてなほ日本
国民の心の中に、心中の賊として巣くつてゐることを衷心遺憾とする
ものである。この心中の賊を討つことなくしては、東亜の新秩序の建
設は固より、大東亜戦争の完勝は絶対に期し得られないのである。
かやうに日本の思想が堕落した時、日本はワシントン会議に引き出
されてワシントン条約に調印せしめられた。これは条約といふよりは
むしろワシントン命令といふべき屈辱的なものであつた。これによつ
て日本の海軍力を五・五・三の劣勢比率に蹴落したのであつた。太平
洋無防備の名の下に、日英同盟を一方的に破棄したる上に、己等はシ
ンガポールとハワイとグァム、マニラに厖大な要塞を造りながら、日
本にはその領土たる千島と小笠原列島に軍事基地を造ることを禁止し
た。支那の独立保全の美名のもとに山東を支那に還付せしめた他に、
日支の特殊関係を無視してその政治的経済的、歴史的、地理的関係を
否定し、これに代ふるにアメリカの門戸開放、機会均等を以てした。
二十数年前のこのワシントン会議の屈辱こそ、今次大東亜戦争の根
本原因といはねばならない。日本が米英の前に屈服するのを見て、隣
邦支那は、日本弱し、米英の前に拝跪する日本は弱しの感を持ち、自
らは米英に依存して国権の回復を図らんとしたことはむしろ当然の成
行といふべく、このワシントン会議を転機として、支那では排日侮日
の運動が燎原の火のごとく四百余州を風靡したのである。米英の謀略
は憎むべく、支那政治家の錯誤と不心得は憐むべきであるが、その当
時における日本の政治、経済また責任なしとはいへないのである。わ
れわれの深く反省を要するところであると思ふ。
アジヤの搾取と東亜の侵略を企図する米にとつては、アジヤの強国
日本と支那とが、兄弟牆に相鬩ぎて共に衰亡し、その侵略と搾取に便
ならんことが彼等自身に好都合であつたのである。かくて満洲事変が
起り、支那事変が戦はれたのである。両事変ともにその真の敵はイギ
リスであり、またアメリカであつたのである。日本は真の敵の何人な
りやを知りながらも、故あつてこれに眼を覆ふて事変の解決を急いだ
のであるが、毫も解決しなかつたのである。
しかるに、この宿敵米英に対して、昨年十二月八日、畏くも宣戦の
大詔が渙発せられたのである。米国及び英国に対して戦を宣す、との
御聖断が下つたのである。一億国民、詔のまにまに、総力を尽くして
米英撃滅に邁進してゐる所以である。百年の宿敵、今ぞ酬ゆである。
われわれはその持てる物、その持てる力、その持てる生命を捧げて、
君国のため、大君のため、御奉公の誠を尽くしつつあるのである。か
くて陸海将兵の勇戦奮闘により、米英の東洋制覇の拠点は、開戦一ケ
年にしてことごとく覆滅し去つたのである。しかしながら戦の前途は
遼遠である。戦は正にこれからである。この大東亜戦争は祖宗の遺業
を恢弘し、東亜の禍根を芟除せんための戦争である。肇國の大訓に基
き、アジヤを復興し、大東亜を建設せんための戦争である。即ち尊皇
攘夷の血戦である。君をあがめ夷を攘ふ大血戦である。
吉田松陰は安政六年十月、刑場の露と消ゆるその日の朝、「討たれる
われをあはれと見ん人は君をあがめて夷払へよ」と詠つた。大日本青
少年団員たるものは、このことを克く心魂に銘じて、松陰先生の心を
心として御奉公一途に励まねばならない。
アジヤ保衛の緒戦であつた明治維新は青年憂国の士によつて完成せ
られ、アジヤ建設の最後の決戦たる大東亜戦争は、昭和の青年、憂国
の諸君によつて成し遂げられねばならない。祖国は諸君とともに在る
のである。帝国の運命は、諸君の双肩に繋つてゐる。帝国の光栄は諸
君の努力によつて保全せられるのである。アジヤの歴史は諸君の赤き
血によつて創られるのである。明治維新以来、脈々として流れ来つた
尊皇攘夷の精神は、諸君によつて初めて実現を見るのである。父祖百
年の宿敵米英を、今、諸君の力によつて討滅するのである。世界の公
敵米英を、諸君の手によつて止を刺すのである。毅然として、完爾と
して、大詔のまにまに、尊皇攘夷の血戦を断乎戦ひ抜かうではない
か。勝ち抜かうではないか。これは諸君の生き甲斐であり、光栄であ
り、また諸君の名誉でもあるのである。切に諸君の奮励と御奉公をお
願ひする次第である。最後に私は諸君とともに、今な戦場にある皇
軍勇士に----北はアリユーシヤソ群島まで広茫幾千里、この戦場にあ
つて君国のため生命を的に、粉骨砕身しつつある陸海軍将兵竝に建設
勇士に----深甚なる感謝の誠を捧ぐるとともに、その武運長久を祈り
たいと思ふ。
(昭和十七年十一月二十二日放送)