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吉田松陰の國體観 情報局次長 奥村喜和男


 今から八十四年前の今月今日、つまり安政六年十月二十七日は、純
忠至純の人、吉田松陰先生が江戸伝馬町の獄で殉国の最後をとげられ
た日であります。私はこの銘記すべき日に当つて、松陰先生の國體観
とその悲壮なる最期を回想いたしたいと思ふのであります。
 幕末に於ける我が国の非常時局は、嘉永六年の六月三日を以つて、
極めて重大なる新しい段階に突き進んだものと見ることができます。
その日アメリカのベルりは、軍姫四賽を率ゐて、あつかましくも日本
の表文紬たる哺賀に来り、陶き直つて、和親通商の膝約を幕府に戦弊
したのであbます。
 その常時、故換先生は二十四才であわまして、鴇二回目の江戸浜孝
中でありました。六月四日の夕方になると、昏胡頻巾にいたわ、市中
は忽ち名状すべからぎる不安と混乱に佑つてLまひました。扱喚ほ佐
久間故山先生のところから貯つて客と兵書を講じてゐましたが、じつ
としてゐることが出来ず、決然、管を投じて充ち、挟を振つて騨身補
習にかけつけました。行つて見ると上を下への大騒ぎでありま†。人
人ほ新肘を革に積八女子仇をそれに醸せて避難の最中であり、Lかも
   情報望ハ長 奥 村 書 和 男

奉行は何をしてゐるかといへば、爽人の手に笥を渡丁上わは、切掛す
るに如かザとなして、頻りに箋の輔除をしてゐるといふ有様なので
す。腎年松陰は切歯して、国防の充貸してゐない濁家が如何に急いも
のであるかを痛憤すると共に、徒らに太平触琳をこととすることのみ
に急で、ことここにいたれば周蛮狼況して手のおくところも知らない
幕府の醜態、これに過ぐるものなしとし「併しこれにて日本武士一へ
こ(額のことです)しめる槻伊東わ申喋」といってをるのであ〜ます。
ところがさらに軽しからねことは、六日には米兵がポートを降して医
菟や軌昔時あたゎを勝手に漕ぎ梱り、二三人のものはつひに上陸して
その逢を横行し始めました。そこで我が守兵がこれを責むろと彼は砂
を掌の上において、‥小いと吹き飛ばして笑つて去つたのであります。
これを侍へ聞いた払陰は「怖からん、彼等は日本人を抄し」見てゐる、
吹けば飛ふやうな圃ではないかといふて逃げたに濠ひない、これほ不
都合千萬だ」と大いに憤激したのであります。お人善しでしかも寛大
な日本人ほこれまでベルリを開園の恩人扱ひにして衆たのであむます
けれども、略架は紆力に所ニ」も日本へ鞄繭を抑村け、あほ⊥くば8
く 7)

本を蝮略し上与との確附む持つてゐたのであ巾ま†。その詔鳩には相
賀を引上げる時に自摂空一木輝して「来年、おれの蓼求Tるや・1な返
研が出来ないなら−取に及ぷ、その較負けて調和をする時には、この
壌を女てて来るが上い」といつて鮮つたのであります夕その傲慢無祀
はまととに許すべからぎるものであbますが、しかL如何せん、それ
が嘉永六年の我が閉り現世の柑であつたのであ〜ます。
 青田家は由来兵畢を講じて毛利藩に仕へ、しかもその兵拳は山鹿素
行の大義武士道の探れを汲むものであhました。その象畢を担いで国
防同額の研究に蟹品のなかつた松換ほ盤に海外観察を決意し、敵国の
†捕を明確に離放することに上つて、時の閑仇計雀を樹立しようとい
ふ大患を抱いて、安政元年の≡月、敢て閑禁を犯Lて下田の措から金
手貫之助といふ青年を連れて、アメリカの楷に乗込み渡航を企てたの
であるが、確固袈しく失敗に経り、江戸の監獄に投ぜられ、その年の
十月に、辣の野山様に拷逢せられることとなり、一介の囚人となつて
故稀に貯つて来たのでありま†。債袖にもし扱陰の生涯がこれで経つ
たとするならば、払換の名は漁に今Hに侍へられなかつたかも知れま
せんが、革にして野に於ける二十五才から三十才までの五年の間に於
て、青由換換未来の両日と使飴を完全に宛拝されたのでありまT。
 その第一ほ、珂睦爬の徹底的自梵とその甥躁であり、その第二は、
獄中に放ける相育と思索、及び囚人の教育であb、その三ほ放下村塾
に於ける底の皇国民の教育であると私ほ考へるのであります。
 これ上り書き、捺除は褒詞の志を抱いて全図各地を漉雁中、嘉永六
年の十月二8に京都に着いて梁川塵辟を鵡ねました。盈擬は松陰のた
め内外時局多材のをりから 孝明天皇が糾演鞭を悩ませ於ふ御樺梯を
しみじみと革んで物語り、甚だ良い極みであるが 奉明天畠扱は熊飴
          \
                                     一
                                 一
                  一
芸琴皇ものは、宗絹の刻ハnいへばコ一時畏の頃)意
滑戒ましまして、敵嗣佑伏、寵児のを指ならんことを、ひそかに御所
念遊ばし択ふこししの由を知らしめたのであゎま†。今はじめて 天皇
の御艶費を漏れ東つた松除は弗泣して、心から 天朝を亜ひ撃つたの
であります0今まで自分は時局に憤を熟して国防を論じ、幕府を批判
してゐたのであるが、かかる図解に督つて一一千五百年架一萌に奨えて
来た皇拘の将来について一帝御心を摘ませ拾ふのは丈に一天真乗の
大慰であらせられることをはじめて知り、翌ニ8の朝、涙ながらに御
所を押し撃つたのであbま丁。
 またそれ上・り二年前の嘉永凹年の十二月には、水戸を鋳れ、昔時の
水戸の研革熱田天功や倉持伯民に敷しく接して、尋皇竣爽の本山とも
いふべき水戸の風束を憶和したのであ小ま†D
 松陰の水戸滞在は懐かに三週間に過ぎませんでしたが、所謂水時の
魯畠顔爽の正常が彼に粥へた影智は抄から幻ものがあつたのであゎま
す。初めて松換が骨沖伯民を訪れ、天下の急務を論じ始めた時に「足
下ほ上く時務を論ずるが六閤史を相んだことがあるか、大開史を粥ん
で上古紳聖繁閑の由来を知つてのことか」と他用から開ほれ、さすが
の払陰もこれには一言もなく轢く挽ぢ入つたのであbま†。そして態
資を改めて伯民の教へを詣ふたのであbますが、昔時の払陰は自ら
「身畠閑に生れて皇閉の長囲たる所以を知らぎれば何を似て天地の榊
に充たんや」と輿息Lてをりま†。しかし、そこで初めて心眼を掬か
れた松陰が、その後早速六周史も凋んで同権の位和に精進したのは勿
論であhまサ。そLてそれまでの特務論から革1た牽隣の構幹を、確
乎不動の酎畦への信念に上つて革つけたのであbまナ。その後、野山
獄時代の亡と、安政三年の入月、萩にやつて衆た軌島松宇都宮政鞋と
(さ)
の手耗の交換鞄頓に上つて益上自己の印竣功を帯ミいエいエー死以
て君可に殉ずるの志を噛めたのであ巾ますっ 「 天朝を頚へ飼つて麓
に夷鉄を織る者あわ、爽秋を研り因て産に 天胡を頚ふるものあhこ
と獄中の扱験はいつてを〜ます。この二つの考へ方ほ今日に撃」も操
めて東大な拘留でありまして、由姓の本義仁別つて外交岡防のことを
漁ずるものと、外交団肪を静ずることに困を落して所陀明放た叫ぷも
のとは、全然本末な異にしてゐるのであります0夷秋の開額は特務対
策であつて一時の宋である。天朝を憂ふることは、日本臣民の丸の柏
に立ち計ることであつて、希世の定である。蔑慨の定に立つてそこか
ら】つ一つの特務対策を耗じてゆくのでなくてほならない0爽秋が飽
か 天朝が先か、枚陰はいふ、自分は従来兵学の北場から爽欺に揖を
斉して言を起せり、本末既に片す、妓に 天朝を蓮ふるに非ざりし也
と肯由して、思想の掬換を明かにしてゐるのであります0
 常時長州藩に村田靖楓といふ女泥な人がをりました0拷姐ほ北條時
宗をほめて、「敷島の大和心を人間はば、琴古の偉斬りし時宗」と砺つ
てゐます。払睦もまた嘗ては時宗を停い人物であると心底から威服L
てをつたのでありますが、今やこの帝位鞄が確立いトtますと、時宗
が元の便を意つ弗つたのを批評して「表たまたま中る」といふてゐ
るのであります。つまり爽秋の閑額が起らなかつたならば戎ひは忠を
いたす人物ではなかつたかも知れないといふのであわます0それは北
條氏の朝廷に対する放資から刑併Lたものと思ほれま†0
ところが妾政六年の五月になbますと、幕府ほ収粥べろ俄があるか
ら毯険を江戸へ護逢するやうに免じて釆まLたPその時;の美しい
鈷がありすす。それほ野山嶽の典揺稲川犀之助が五月〓十担8∴ま
ゎ載に放ける故換の最枝の.一破を、扱換の父の家に掬晰で持ち1めて
ゐる二とであわます。それは獄中に於ける亀換の人仙骨拓化に上るr
とほいふまでもありませんが、昔時の詳吏としてとれほまことに理解
ぁる楕せであると恩ひます。払家では叫故も門人もとの恩情の下に訣
別のu夜を讃巾明したのであ巾ます。お付さんは叫座の誰上りも枚換
と訣れを借まれたことはいふまでもありません。お母さんほ愛するわ
が子のために風呂を焚いてやりました。意斌牡な巾と難も長い間の牢
燵生活で松陰の睦は痩せ細つてゐました。背中を洗つてやりながら「お
前はもう戴へ廉つて来られねのではあるまいか、」「いいえ、私は何も
お閂のために漂いことはしてゐないのですから、持つて衆ますとも」こ
れが冊と子の訣れの富裟となつてしまつたのであ山ます。明くれば五
月二十五日、外には物放のやうな雨が陣つてゐた。「至粥にして未だ動
かぎるものこれ非らぎるな巾こといふ孟子の雷斐が扱除の日繁の信條
でありまLたが、彼は今辟江戸へ引き出されたならば、基府の役人蓮に
自分の彗粥を故腱して、述へる彼等を感情さしてみ上う。筆触にして
動か山ものはないといふ先哲の教へを、身を以つて放せん、といふ托
刻にしてしかも飴裕のある心境を以つて萩を出奔トたのであります0
 さて江戸に於けろ役人の収鞘べほ四囲に及び、扱陰は熟議以つて自
分の考ニJゐるところを訟き、役人もまた扱除の収納べには一せの件
瑚ほつくして聴くことは扱いてくれたのであゎますが、十月〓十日い
上い上死刑といふことに判決されたのであります。枚陰は父と叔父と
兄に封して津名宛として永訣の再を蝕めました。日く「平生の革開沸
薄にして彗課天地を撼格する−」と出来申さず、非常の襲に立ち弼わ申
塀0さぞきそ御愁傷も並ばさるべく挿摂仕り恢●
  観思ふこころにまさる親ごころ
      けふの管づれ何と伸くらん
く 0)

 ハと頚き初めて〕礪秋は稚椅円在に御府内を哉庖螢横へ共、耐蝕未
 だ地に壌ち申さず 上に聖大子あり、下に忠魂串塊充ち充ち候へば
 天下のことも放り榊力学り撫之様麒革候」と。
衣に有名な「笥魂鈷」を藩き残したのでありま†。そLて十月二十
七日の朝、評定別に呼び出されましたが、その呼出の澤を聞くや
 比良に息ひ定めし出立ちを
     けふきくこそ慄しかりける
 と博紙に諷めましたP如何にも静かな秋であり、また落漕いた絶準
ではありませんか。評定断の判決は枯局死罪でありました。一死もと
上り期するところ、敬陰は助かも色を襲へることなく、左右キ隠みて
「永くお世話様になりました」と介残せる役人に言薮やさしく挨拶を
排し、それから引立てられて、くぐり戸を出ると、従容として辞世の
許を吟じました.
   専今回のために托す
         書か
   托して君親に負かず
  悠々たり天地の串
   鑑照は明辞に在り
 と。それは‡に朗々たる吟執でありました。居並ぷ森府の役人達は
思はずその窄に放き入つてしまひ、あとで転がついてあわてて駕亀に
押し入れたのでありました.
 やがて枚除ほ刑故にひかれた.取♯を正したる後、「鼻をかみ慣は
ん」と辞かに用意して、端坐瞬日すれば、鴫呼白現一閃、純忠至那の
換陰先生は、最早この世の人ではなかつたのであります。一二十年を一
 期として、鮭々迫らず、務く殉畠の敢期澄潅げたのであります。
 ありし日の枚瞼先生ほ「七生故Jといふ一個を争いて棉公兄弟のこ
とに及び、その報図の大構
興起するもの何ぞ接り七た
 \

決して死なない。楠公の忠節に感じて
ろならんや。といふてをられるのであ
りますが、一人の枚陰が忠死することにエつて、松換の倉皇綺紳は、
後世蛮人の志士を督起せしめずにほおかないのでありませう。正にこ
れこそ「死の教育」ともいふべきでありま†が、枚陰のこの悲壮なる
最期ほ、先.つ払下村塾をして背起せしめ、明治維新の大業を繋獲する
ため、尊皇鎚動に挺身せしめたのでありま丁。換除籍すとも至謂は亡
びず時間と塞間を超越して、その殉皇の梓融は今日皇天皇土の馳盛に
於て脈々とし生きてをるのであります。
 私は最後に敢へて一言いたします。それは租換先生の如きは、最長
思想を晶提t甥躇せんとする⊂とに上つて、あらゆる迫害を受け、つ
ひに時の政府の手にエつて、かくの如き最期をとげ、しかも死後に於 )
てミ弟式ほおろか、お茎の救わにいたるまで、世間を避けて心あるL柑
人々に上つてのみ、密かに行はれなばならなかつたのであります。蝕 (
るに今日の我々ほ古人の嘗めたやうな苦しみを身に受けることなく、
一路尽皇の大義を耳控†るの上ろこびを共にし得ることは、何といふ
有難い大御代でありませう。われわれはこの庫犬無逢の重恩の京分の
−にも報い挙る慣に、魯皇一路、抱封の大義に殉ずるの蟹悟を必要と
するのでありま†。今や、大東飴敬弔ほ慈土木格的の投楷に突入いた
しました¢
  討たれたる我をあほれと見ん人は
      君を染めて爽沸へ上
 との吉田枚陰先生の心を心として米英撃妹のこの敬平に坪ちれき、
祀宗の造策を株弘せんとする笑巣の軍準に粉骨砕身いたさうではあb
ませんか。              ハ十月二十七8政義)