我が国鉄道の回顧と将来への展望 鉄道大臣 八田嘉明
明治五年九月十〓日、錫臆の十月十四日発くも 明治天皇親しく踵
仰の下に新鳩、符粥間の桟道爛漁式が襲行されまして上¢浦七十年を
裡退いたしました。即ち明後十四8を似てこの未曾有の大東塊取零下
に意義撃す綴邦七十年記念日を迎へる⊂ととなつた家筋ごあhます。
交祖述壌が平時、取時を通じて園戟存立の上に鋲めて電婆なる使命
を放つてゐるこし」は今さら申上げるまでもない⊂とでありますが、淀
代鞄は武力取であると共に坪済取であり、しかも教学が長期になれば
なる程、交鶏取であることが集土筆し〈なつてまゐるのであゎま†。
邸ち軍票晶、生産撫充資材の私意はもちろんのこと、−般国民の生活
に必野な物資を蜘滑に転送出来ろかどうかといふことが取を断ち抜く
ための鍵しし申して差安へないのであゎます。交戦各閑が如何に味方の
秩遠路の耗保に専念し、敵の洩満破壊取に狂奔してゐるかを見わばこ
のことは−見して明かであります。
との庶政府が■「陸運非常陛制」を決定しましたのもこの輸旨に外な
ら巾のであbまして、我々はこの意義托き籍遁七十年妃念Hを迎へる
に普わ、転任七十年の照史を固師し、残道創業者時の先発者苦心の捗
を偲び、あくまで取時下最も緊要なこの輪速力の確保、増強に邁進†
るの決意を新たにいたしたいと存ずる家筋eありま†。
今日我が尉の鍵盛は、内地の所有緒道l琵∧千粁、地方繊店七千粁
とれに軌些事粁を入れますと二萬七千粁に相成つてゐるのサありま
す。その外、朝鮮、叢帯、坪太のものを加へますと、凡そ一二箆六千粁
に相成るのであります。明治五年新掩、横沢間に我が国初めての成増
一」十九粁が開通してから本年は恰残七十年に相成るのでありますが、
この間にこれだけの蒙達を轟けたのであります。
また、拝適性一位どの位のものを好んでゐるかと申しますと内地だ
けで申せば団攣私繊を併せてハ軌道は別として)人口一人普カ】年
に五十固魂和し、貨物を〓砥年報んでゐる柳生であゎます。
かくのごししくこの七十年聞を抗わ退つて見ましても、我が国捷の旺
撞たる額展の・エに械道の挿大なる寅戯のあつた⊂とを想起せまるを得
ないのであります。この意味に於きまして、我が図鍵道の七十年間の
イ
歴史を剛顕することは決して徒酎ではないと存rます。
我が酌の戌正史の全憶につきましてお汚いたす除符は今はちちろん
ごぎいません。そこでわが踵藍史の中、今H特に国扱サベきlぢの電
界なる事柄についての†叶お話することに舟めたいと存じます。
その一つほ、我が園の繊盛の費様についてであります。その〓つは
鞭鎖国有の断行についてであゎます。
今から恰資七†年の昔、先程申述べました如く明治五年九月十〓8
我が国最初の横道新梅、横沢間の梅屯関払式が行はれたのであ巾ま
す。それまでの変洩憮槻であつた褐瓢や鷹に代つて、繊毛が新時代の
交通槻粥としてモ場いたしたのであ巾ます。したがひまして、この8
こそほ、我が国が変鵡の部面に取ても封建時代を清算して、近代伊東
へと舞足した記念すべき日であるともいへ上うと存じます。
しかして、この繰延の敷設といふことについては、・歯時二つの大き
な印材があつたのであゎま†¢その一つは、報外閉の我が国の鹿鵡敷
設に封すろ野心であり、今一つは、鋳菰建設に封ナろ酎内の舛輸の反
封であつたのであわます。
慶應年間における俳閑地領事の幕府へ句鵡敷設の動議、或は柿現在
習て〓外人の江戸、構満間繰延捷設の謂軌、或は幕府某閣老が覇発
刊加使臣飴官記官印ち今の公使飴負に江戸、域瀬嘲篠頭取設の免許を
輿へた帯件があわまして、持外勤は虎融耽々として、我が由における
(4)
鞄葛敷設頓の坪確をねらつてゐたのでもりまTO政府の潰路瀦は、絆
劫埋設の必牢は観めてはをりましたが、錬鵡を外的人の手に委サこと
は民心に大なる雑学を輿へ、国家の重大同額であるしLいふ考へから
「あくまで救粁の手に放て耗管せざるべからず」との意見を的中窃か
に抱き、晰乎としてこれを斥け扱けたのであわまTO
普時鞭鵡の撞設に対する繁々たる輿論は唯にこれを外珂人に許し、
またはそのために外伯を首るに反封といふ澱にあつた許りやはなく、
根本的に繰適確記そのものにも反対†るものがあつたのであhま†0
この論講ほ朝野をあげて椀る塩烈で勢け侮るべからぎるLのがあつた
のであむまして、そのため繰延卒業の鎗行上、多大の閑難があつたこ
とは想像に沸くないところであります0
しかしながら、繰延建設の必嬰は政府常格堵の夙に趨曲TるL三ろ
でありまして、積局、輿論の反対を押切わまして、明治二年十一月十
日には繊鵡慧硯の朝市を決定したのであゎますじ邸ち、準号東郷を
繋ぐ我が園の幹線及び支線として畢凧、楠満水び敦堵挽を娘設するこ
とを決し、先づ畢泉、横汽筒に蒲手することに相成つたのでありますD
ハ東京、横柄汲支払としたのは常時東西南京を繋ぐ幹線は初めは中
仙意に⊥る考へでをつたからであります○)かくて朗部報大様卿伊達宗
城、民部♯大麻大和大般亜信、大戦少輔伊藤博文の三官に封し、銀店
敷設の放任を仰付けられ局部大鋸南省に蛾ボ鴻をポき三年十月工部省
が設けられ、待遇の事我を管掌したのであゎます。明治三年≡月新橋
ハ今の汐留)と横瀬の両方両から六称川を界として朔費に潜手し、放
いて工を超し明治五年五月仮旬業を開始し、九月十二日 明治天皇臨
釦の下に開業式ポ行はれたのでありま†0 天皇には瀞H全線に御託
礪遊ばされ、新掩及び枯渾山南昏に於て鐘渥なる勅語を脇はつたので
ぁります。泡に有難音紹T“であります。九月十〓日は蹄磨の十月十出
8に常わますので、このが有難き日を絆沼記念出と定めてゐる次第で
ごぎいま†。一万西の方は新橙、横瀬問と同じ年の≡年十一月辞P、
大噸問に着手、大阪、京都間は六年十二月起工、その後錬慈は東西稲
万両上わ次硫に璧秋され、紳戸、京都岡は明治十年二月、京琴大浄.
問は十三年七月、敦智「長瀬聞、長準、陶ケ瞭聞、抽ケ原、大垣開は
十七年四月柏挽いて開洩し、東京万両も上野、川口間、川口、粥客間、
閑谷、高崎間の各院陶積にエか捜し同年六月閑穎、高崎、前掩剛ほ周
年八月、■品川、妹弱聞は十入年≡月それぞれ開通を告げ、明治五年新
橋、捕涌間開通u技十≡年間にこれだけの接遇が延長されたのであり
ます。明治の初期閑零多端の際、他の百瑞の鹿鴇・d共にこれだけの急
速なろ押通の敷設を盆げたることは渦仁敬服の外はないのであ巾ま
す巾その後横道嗣は官私南方両の軒力に上り、衣坊に伸張して今8に
いたつたのであわま†D
次に捕道七十年の脛史を嘩ムまして、我々の記憶を諒超さねばな
ら山ことの一山つで殊に今8の場合意義津く招じますこ・戊、今−りご一
十六年前明治三十九年に於ける鋪道国有の断行でありま丁。抜道国有
の講論は、繊鵡がはじめて敷設される頃から行はれてゐたのでありま
すが、これを最も琴心に主張されたのは、我が国強迫の先覚者井上勝
子雷であつたのでありまT。井上子雷は明治二十凹年七月、常時練延
長官の頓にあられましたが「繰延政略に紬†る詣T−を寒中いたしまし
て「薙蓮は元来隣家的事業であるから、私設接道は賀収して鍾道は拘
有に†る必要がある」といふことを主増されたのであります0
その結窄明治二十五年には私設緒追究収法琴繊鵡公倍鞍業態帝
国箭禽に鵜出しましたが、衆哉院に放て漁鎖の宋両氏案を合群、さ正
(与)
して「増道教還法州彗としこれを制増公海したのeありまnが、これ
では線鵡亀有の取木括群が珠徹されてをらなかつたため、その後も鉄
道南有為は民間や晩節からも鮎よ叫ばれたのであります。その聞井上
子欝はあくまで自己の主張を貫徹されエうと努力を拭けられたことは
勿論であります。その後瑞多の正敏曲折を撃し、その間我が閑の存亡
を略した日清、8諾の雨大敬の経験と交通国難の根本に鑑み、明治ご一
十入年十〓月捷内閣は舞通園有の講を決定しその後池内閥たる西南寺
内関もまた撃二十九年二月十七日これを紳鎖で決定し、関係法案を衆
執晩に鵜出し、梵智開論の未教に可決され、笥族院に放ては頻多汲瀬
の撲、銭正可決し、漸く両院を漁過して≡月≡十一日法律舞十七訳を
もつて篠澄固有法が公布されたのでありまナ。
かくして払時祓鎖国奄準備局が設筐され、北海道狭繊嬢慈、日本破
遁山陽縛遁等の六銀鵡は三十九年中に、九州横道外十一飯道は四十年
中にそれぞれ官収されて所有となつたのでありますごJの時国有執お
に拍入された私設錬道の桂長は合計四千五官凶十粁であわまして蝕設
の官設持遁捉・し合せて我が国有線盛は七千盲五十〓粁と相成つたので
ありま†・鋳造観有法鶴一條にrl般運轟の用に供する繊巧は撃」由
の所有とす但し一地方の交通を目的とする】彗泊はこの限に在らず」と
定められこ・しに我が国絆道の根本方針は確立されたのであゎま†。か
くして♯に申述べた通わ今日の挙昂を簸げ、その聞我が開運の砥展に
頁軒したことほ申すまでもないのでありまして日清、日露縮耗の馳を
初め、近くは満州卒攣支邦革襲に及び敬時牲睡の正#なる使命を完
致し来つたのであbます。
明治椎斯−世事康めて多娼−多忙の裡にあつて、粥論を続→し人心
を安定させることが必酵でありましたため、政府は交通の整備を鶉−
としこれを望t庶政の板木レトしたのであります.印ち先づ挿娼、領
信、頼鵡の二面態を定め明治元年四月早くも政府に辞意司をおき、翌
二年八月電信弊務を外務省に創琴、同年十一月には我が酌幹線鍵道の
敷設の朗粥を決したなど、首路潜の決意上背心を思ふ時蓋し挿易なら
幻ものがあつたことは想像に難くないのであります。殊に甚大な賓金
を費†る蕗道についてはその苦心も並大抵ではなかつたのでありま
†0頻鵡剣洩に懲つて物粥騒然、世論諾々を極め、常路潜も凹面楚錬
の健に身娘の危険さへもあつたのであゎますが、敢然として盲年の大
計を嬰1忽ちにして工を起し国産車展の叢を堅められたるとし」に想
ひをいたします時今日我々は先人の熱誠と気塊の嗟んなるに全く戚脊
興起せぎるを待ないのであ山ます.
大東亜敬準開始以来、酵有魚遁の使命は慈主著大を如へてまゐりま
した0即ち日浦孝三醜変貌の連累を姦上緊密ならLめる必蓼のあるこ
とはもちろんであ巾ま†が、それと同時に簸々たる徴兵に伴ひ、大‡
並の建設1契頗の閑藷のために南方緒地域に於ける捜上安逸に協力†
るの交歓もまた極めて鹿く且つ大きくなつてまゐつたのであ小ま†.
それの、みならず我ポ観繊としては今後あくまで大東亜詣地竣交流の指
尊的立場に立ち、その侍挑を誇ろ内線梢所と甘零なる技術を望J、大
東亜共欒闊達設に重いたさねばならぬのでありまして、その使命の
鞘が上にも重大なるを痛感いたす次第であ小まナ.・しの意義龍き耗蒋
七十年を迎へるに鷺山まして我々資性浬槻陶の舶係老はわが蝕屯の晦
史に示されたこれ等先人の束塊と熱情とを回転しその地力を持薬し
て、取時F牲建に疎せられました東大便会施政に−授の弊力を執はね
ばならねと存ずろ衣鴇であります。
それがためにほ唾迦槻偽者が今後】甘「親切敏一」を・望し奴等、貸
(¢)
勒に壊することはもちろんeあわますが、施設や人手の足りない今
日、益上構える一方の族客や貸物を軌渦に協遠いたしますには、何と
しても崩民各位の御協力仁侠たねばなられのであわまして、この槻曾
に特に皆さんの今後一段と瑞解あろ御瞼カをお尉ひして己まね衣鮨e
ふわま†.
ハ十月二十二日放讃)