戦時国民読本
同甘共苦
同甘共苦、甘きを同じくし、苦
を共にす、つまり、楽しみはわか
ちあひ、苦しみは共にするといふ
ことであります。苦楽を同じくし
相協力して進むといふことを現す
ために、この同甘共苦といふ言葉
を用ひたのは国民政府主席汪精衛
氏でありました。
大東亜戦争が勃発して、東亜の
前途に豁然と解放の道が開けた時
支那が日本と力を合はせてこの戦
争を戦ひ抜かなければならないと
いふこと、米英の侵略から大東亜
を保衛するため、あらゆる艱難に
うち勝つて、目的を達しなければ
ならないといふこと、この新支那
の使命と任務を、汪精衛氏は同甘
共苦といふ言葉でいひ現されたの
であります。
東亜に侵略の手をのばし、印度
を併合したイギリスは、南洋を席
捲したのち、更に口を開いて東亜
を呑みほろぼさうとしました。こ
のイギリスと歩調をせ、イギリ
スと共に東亜をその金権の支配下
に置かうとしたのがいふまでもな
くアメリカであります。
このイギリス帝国、そしてまた′
アメリカを打倒しなければ東亜の
解放なく、支那の自由なきことは
明々白々の事実であります。
米英な打倒し、東亜からその禍
の根を一掃すべき大東亜戦争に支
那をはじめ東亜諸民族が、日本を
中心に、打つて一丸となつてこの
時代をつきすすむことは、歴史の
求めるところであり、新しき東亜
の歴史はそこから始まらうとして
ゐます。東亜人の東亜をとりもど
すこの聖戦に於て、中心勢力たる
日本と共に、東亜の諸民族が同甘
共苦、苦楽を共にし、相協力して、
すべての困難と障害を乗り切らね
ばならないことは、ここにあらた
めて申すまでもありません。
汪精衛氏が阿片戦争百年記念日
の去る八月二十九日の講演で「支
那に対する圧迫と束縛は、南京条
約に始まつた。(南京条約はいふま
でもなく、阿片戦争によつてイギ
リスが支那に強ひた屈辱と侵略の
条約であります。)この南京条約は
大東亜戦争の始まつた日からすで
に排除され、少くとも停止され
た。もし日本の陸海軍がなかつた
ならば、南京条約の圧力は、依然
として支那の頭上を圧してゐるの
である」と述べ、自国人の奮起を
促してゐるのはまことにことわり
ありと申さねばなりません。
この大東亜戦争の完遂といふこ
との中に於て、同甘共苦といふ言
葉は、支那についてばかりでなく
実に全東亜を通じて生命をもち、
大きな意義を有することが出来る
のであります。東亜の新しく正し
い秩序をうちたて、東亜人の東亜
を確立するために、東亜はすべて
日本と共に、現在を乗りきつて、
勝利につき進まなければならない
のであります。東亜の中心勢力た
る日本は、その先頭にたつて進む
でありませう。そして東亜の安定
勢力たる日本は又、東亜の指導勢
力としての責任を遺憾く果すで
ありませう。
日本なくして東亜なし、といふ
言葉は、かうした実力と責任を背
景として成りたつのであります。
かうして東亜に黎明が訪れよう
としてゐる時、全東亜が同甘共苦
相共に侵略者米英より自己本来の
姿をとりもどさうとしてゐる時、
依然米英に依存して抗日をつづけ
る重慶は、ただ獅子身中の虫とい
ふより他はありません。重慶が抗
日をつづける以上は、あくまで、
これをうたなければならないので
ありますが、ここではただ米英が
印度に対して施してゐる圧力、圧
迫に対して不満を感じながらも、
なほ、米英のために死力を出して
ゐる重慶の甚しい矛盾と滑稽さを
指摘するにとどめませう。
東亜は、大東亜戦争完遂のため
に、苦楽を共にして戦ひ抜かうと
してゐます。同甘共苦こそは、満
洲国、支那をはじめ東亜各地を結
ぶところのものでありますが、そ
の中心勢力、指導力たる日本の国
内に於ては、更に一層、さうした
強い結びつきが必要であることは
申すまでもありません。国内の結
束と協力、これこそ日本が戦ひ抜
き、勝ち抜く強固な基礎でありま
す。国内の人々が明るく、大きな
希望の下に、互ひに助けあひ、親
切み尽しあつて、各人の仕事の運
びをなめらかにし、生活を愉しく
力強いものにしてこそ、生産の能
率はいよいよあがり、銃後の生活
はゆるぎなく、国内の戦争完遂の
構へは全きを得るでありませう。
国と共に生きる日本人が、お互
の職域に於て、そして又お互の生
活に於て、苦しみも楽しみもわか
ちあふのは、当り前のことであり
今さら、同甘共苦といふやうな言
葉は必要としないのであります。
自分ひとりよければといといふや
うな暮し方、生活のし方は、私ど
も日本人が今どういふ他の中に生
れ、どんな戦争を戦つてゐるかを
考へれば、しようとしても出来ま
せん。
先頃の中央協力会議で、東條総
理大臣はこのことを次のやうな力
強い言葉で申されてをります。
「国内結束の根源はお互が苦楽を
分つ親子兄弟の気持になり、生死
を共にする戦友の気持になつて、
この潤ひのある力強い気持を実生
活の中に如実に具現して行くこと
にある」
私どもは、さうした潤ひのあ
る、力強い現れを私どもの周囲に
いくらでも指摘することが出来ま
す。ここでは、最近の或る新聞の
投書欄に現れ、特に私どもの心を
打つた一つの例をあげてみること
にいたしませう。
「大陸の戦野で、御奉公申上げてゐ
る中に、無念にも白衣の身上となつ
て内地に後送された。以来、毎月
三回づつ、日増しに快方に向ふ容
体を郷里の父母の許へ通信を続け
てゐたところ、どうしたはずみか
先日、何の前ぶれもなく両親が私
の前に姿を現はした。
半ば盲ひた老父と、両眼とも達
者ながら文字には全くめくらの老
母とが、そして半生を岩手県の山
奥に送つて都会の人々にはろくろ
く言葉も通じないであらうこの両
親が、生れて初めての長旅をどう
いふふうにして、この神奈川県下
の一僻村までたどりついたか、私
にはまるで奇蹟としか思へなかつ
た。何よりも七年ぶりの親子対面
であつた。もどかしげに、積る話
を一ぺんに話さうとする両親から
先づ初旅の感想を聞くに及んで、
初めてこの「奇蹟」の正体を知る
と共に、今さら、人さまの情けに
泣けてしまつた。
列車中で知り合つた一婦人は赤
羽で降りる身であつたにも拘らず
わざわざ新宿駅まで案内して小田
急に乗せて下さつたといふ。また
当地駅で降りたところ、駅の方は
療養所まで片道徒歩で三十分もか
かるところを忙しい時間を割いて
送りり届けて下さつたのである。そ
の他にも、誰かれとなく示して下
さつた御親切の数々。なんとも有
難いことであつた。
老父母は、日に日に元来になつ
て行く私の姿にすつかり安堵し、
互に手をとりながら、足どりも軽
く帰郷の途についた。
いま、無事帰着の葉書を手にし
て、帰りの道中でも恐らく更に多
くの方から御親切にして戴いたと
とと存じ、未知の方々に厚く御礼
を申上げると同時に、一日も早く
もとの身となつて再起御奉公、も
つて世の情に報いたいと思ふ。」
一白衣の勇士から寄せられたこ
の投書の記事の題には、「世のなさ
けJといふ題がついてゐました。
かうしたあたたかい気持、互にい
たはりあひ、助けあふ親切、同情
の念は日本人すべての胸にはぐく
まれてゐるのであります。
私どもがこの気持によつて結び
つけられてゐる限り、国内の結束
はびくともしないでありませう。
そして、いろいろな困難や障害が
現れれば、現れる程、かうした国
内の結束、協力はいよいよ強めら
れるに違ひありません。楽しみを
同じくし、苦しみをともにする、
日本人としてのこの覚悟とこの信
念を一人々々がしつかり持つた時
に私どもは、これから何年戦争が
続かうが疲れることなく、潤ひを
なくすことなく、立派に戦ひ抜
き、勝ち抜くことが出来るのであ
ります。
日本人が苦楽を共にする、それ
はむしろ、日本人の本来の姿であ
ります。
畏くも 天皇が臣民を「おほみ
たから」とし、赤子と思召されて
億兆に限りなき愛撫を垂れさせ給
ふ御事蹟は、国史を通じて常にう
かがはれるところであります。
明治天皇の御製に
みちみちにつとめいそしむ国民の
身をすくよかにあらせてしかな
とのたまはせられてをります。こ
れを拝誦いたしましても、私ども
は親の子を慈しむにいやまさる
皇室の御仁慈を明かに拝し奉るの
でありますが、かうした皇室の
下、日本人は、この美しい日本の
山河に養はれつつ、国民一家の
如き親愛し同乗の心を培つて来た
のであります。日本の尊く美しい
自然は、このやうな人情によつて
更に一層美しくも、又尊くもなつ
たのであります。
いま、私どもは大東亜戦争の光
栄も、戦時を乗り切る努力も、み
んな銘々、それぞれの肩に荷つて
進んでゐます。みんな揃つてゐる
ところに、戦争遂行のゆるぎなき
力強さが生れます。国民すべてが
苦楽を共にすべきこの総進軍にお
くれを取らぬよう、お互にいまし
めあひたいと存じます。
(昭和十七年十月二十二日放送)