南方戦線の鳥瞰 企画院第六部第一課長 大久保武雄

 私ほ去る七月l石上り、鈴木企宅院総裁に曙行七J、飛行槻により、
溜ましく禁肘ぎれつつある構力戦線な覗娯する持合を得たのであbま
す。⊂の間十三日間を似て俳印、マレdスマトラ、ジ†バ、ボルネ
オ、セレベス、フィリタビン等を梓由いたしましたが、この飛行距餓
約一筏五千粁、飛行時間六十≡時間除に達したのであbます。文京上
ヱ慌五千粁の飛行と申しますと、蒔楳距杜にして敵国の首都ロンド
ンやワシソトソを準え、逢に大西洋上に適する跨錐であ♭ますし、赤
道に掛つて地球を〓伺いたしますと、その的中に及ぷのであります。
 更邦雄雄勃汝以来範郡以外の圃務大臣が、馳繰を観照せられたこと
 は、今回の鈴木企輩浣絶勅が嘲欠であるといふことでありますが、−
 粛五千粁の南方餅線を煙に十三日を以て銃後と持んだといふところ
 に、鈴木総裁にエつて初めノ」質行せられた呵政治の稚動力』の費群が
あると存するのでありせす.
今から三年前、昭和十凶年の五月、ドイツのプレーメソの飛行頓に
あるフオツケウルフの組立工勒で、ドイツ舶尭枚彿界の蛋椛タソク氏
は、組立中の†竃のコソドル榊を指して、その勲を帯びたしかし藩希
いた語調で私に雫つたのであbます。
rこの飛行機はヒットラーの専用鵡である8ヒットヲーほ幕僚槻と合
せ〓槻の製作な免じた」と。
 昔時歎榊大陸ではドイツとポーフyドの葛藤をめぐつて、政治梢#
ほ〓閥即讃の擦どい時撫でありました.ヒットヲーほユyカー五二に
搭魂して、ムツソy−こと強申倉見をする等華子しい浦和を粁けてゐ
ましたが、この鍵の中に於いて政治の構想を練り、#蚊と協執しっつ
欺抑を馳崩するの日を息ひ、常時の日本の政治家や外交官の因循さを
周放して撼慨の酔いものがあつたのであります.ドイツでほ飛行槻と
政治とが緒びついてゐますq欺榊腱故を政治的に指導するためには、
航盗鞭に上つて政治の槻動力を竣挿しなければならぬといふ庚城支配
の原則が柿立してゐたのであらます・ドイツの航蛮大臣放出ケ年計‡
長官〆−リングほリヒトホエソ飛行都験の出身者であゎ、イクリ−
の首相ムツソy−I蒜自ら操縦綽な換るといふ如く、航蛮地と政治ま
とが結びついてゐるのであります.
 航塞と政治といふことを、私が突然申し↓げるのは、大東魂渾竣の
指横上長非とも紘紐を釈にしておかねばならぬと息ふからでありま
す0私は近代に於いて増竣掬が兜現しっつあるのは、康竣を政治的に
支配−椙る交通触槻が敏速したからであると息ふのであります.しか
も演城に於ける政治の機励力は、交漁均拍の速力を最も究租すべきで
あbますから、蹟域の政治指鴇のためにほ航盤頓に上らぎるを得ねと
(14)
息ふのであbま†。軋ち時Z的な池さといふものが、余聞的な康きと
いふものを箕寵†るのであります。
 大館碓Z研の前、私は臼木とバンコック、日本とチモールと∽鵬盗
路槻設に懲りましたが、常時∽状態を}例として申し上げますなら
ば、ロンドンからバンコックまで五日を以て朝潜してゐたのに、日本
からほ船便で〓週間余を野してゐたのであむます.またPソドン或は
サンフランシスコからチモールへは−週間を以て達してゐたのに、日
本からは→月蝕りもかかつてゐたのであります。かくの如〈であゎま
したならば、.ハyコックやチモールほ、地何の上に於いては、即ち袈湖
に於いては架亜にあゎましても、時間の上に於いては欧糊にあり、米大
随にあbといつて上いのであbます。印してこの時間の塞が、.ハンコッ
クやチモールの政治的動向に繋大の影響を有してゐるのであります。
 次に私ほ鋸袈槻ほ政治力を粗放するものであるといふ亡とを申しま
ナ。何となれば航袈撫で輸逸するのほ人であbまナ.しかも大部分は
一回の鍵彗政治、耗済の指囁的階級の人々であむます.故に航洪撫
で放逸ナるのは、指導力を持つた人、邸ち禎晋すればその人々の政治
力であるといへるのであります。
 大水媚に対しては英米の歯き政治に代わ、日本の新しき政治が隅か
ら椚まe泣かに湯通しなければなゎません.取掛と銃後とを政治によ
って攣かべき問題久数多くあbます。しかも時間的に必穿な時に必穿
か手段穀とhねば允らないのごすから、大東正に於ける政治の槻勅力
といふものはいよいよ蜜野となるのであむます。との意味に砕いて、
給水企禎院総裁山南方槻察は、将来の天瀬亜に放ける新しき政治の半
時乃式ししして、税仇ニJ読払むる勤向空前すものであるといはわはむゎ
ません.
 私は今回山南方御輿に上つて、汐済たるアジヤ人の姪醍ウ日のあた
り鬼、且つ親しく掃くことを持たのであbます。†レT人はいかに皇
軍に協力してゐるか、インドネシヤ人ほいかに皇準の建設に焔カLて
ゐるか、フィリッビン人はいかに新しき大充電山捕沖に同調しっつあ
るか等ほ、正しく】年前までの世界史が夢にも考へてゐなかつたこと
であります。更にタイ国の革新や、ビルヾ人の決包.インド人やイラ
y、イラク専西輯アジヤ人の反英連動を考へ合せますたらば、正にア
ジヤは民放復興山時期にあbといって上いのであります.
 三富平に亙る屈辱の膳史汁破つて起ち上らんとするアジヤの復興糊
に拾いて、私ほこの黎明の故をついたのほ★に8妊故平にありとして
ゐるものであります.日常教学に於いて、陳米人から全く撫糾カ)どれ
てゐた東洋の】小声8本が、上く両枕に於いて、六十倍し、人口に於い
て三倍し、その武備ほ世界七未催せしめてゐたPシヤを】琴の下に拘
したといふことは、アジヤ人に無音の教訓と雄和とを輿へたのであり
ます.私は先年イブソを旅行したとき、イランの軍人がいかに日有政
争み茸崩してゐるかを知つたのであbます中日定取軍律杓四十年にし
て大東亜晩学が租つたでありますが、これは耳に日諾恍竿り頗史的草
尿であるといへるのであります。即ち日本の生存を甘かしたといふ原
因を等しくしてゐるのみならず、アジヤの筏邦を†流しっつあるとい
ふ結果をも等しくしてゐるのであbまナ¢
 Lか払私は馳雫の武絶に於いて、日帯職申と大東頭取牢との間に挽
き宿汝の存することを息ふのであります。
 日諸の間に放火が交へられる四十日ばか山前、印ち明治三十大年の
十二月十七日、ライト兄鈎は準勤梯附の飛行機で初めて≡ハ○米の飛
行に成功したのであゎます。との時十〓月の鞋盤を仰いで亡の挺史的
(1丘)

串ザな見まもつてゐたのは、使に五人の竣の友人に過ぎなかつたので
ありまして、世界の人々は、将来山世界にT天均等なすらさんとする
大柿作が撞つたといふことに斌づかなかつたのであり三`
 こかと同じやうに、常洋山小頭日本が恰非的大凶。シヤに潰牧Lた
とき−兆して何人が日本が特派の世界史を鳩摸せしむる如きl大推進
を撞けるといふことを娼づいて心たでありませうか。しかろに渦行機
の津贈ポ梢準的むは理であつた如く、日本”打撃また照史的必然で
あつたのであります。
 飛行機が澄明されて四十年、日本の荒馬は、或は太平洋り袈遠く、
また伺カアジヤの蕗漁かに作放し、飛行博竣絆山畠米睨霊花環桝ぎま
でに叩きつけたのであゎますりしかも不沈取振と毅蟹したプリンス.
オプ●ウtTルスも†レー沖山凍屠と消え、不落∽堅曲と誇つたシソ
ガポールも皇碓の前には柁柚這仰であつたのeありま†9
 セレベスの北に葵しき糊があります。裕士に似た山の萎を映して波
研かなるトンダーの湖畔に、我が落↑傘部除山男士の碑がありまサ。
私は夏鞋護る飛行墳竺隅に撃Jられた小さな碑の前に鋭いて、日本
の航縄非の糀進な息ひ、革の花の下に眠る弟士∽英雄に感激と感謝の
況なき姦なかつたのであります・潮に近い村山腎年報恵山察する愛
国行鮎油のバンド、小準生の打撮る日の丸の族、日本流にお酔警す
る明るいその容貌、私は璃力比鹿ほど撫邪髄で愛す.へき民族はないゃ
与に瑠へられました0大東礪触轡に放ける日本の東洋故山掃紳、架洋
人に封する愛の梢紳は、苧米・轡の東洋人を利用せんとする、−方
伊としての将帥とは全然その本質を輿にするものがあるといふことを
 止伊じました。
 爽●米・仰の水洋放流はγジャの押収にあります。米英りための7
ジャの奴議化にあbます.
讐」私は−非寵耗貝の糊向の動機を開いたことがあbます.丹木に
於いて純何ま議柑如感心りし切、破る兆蛮褐月は囚際丹誠に…幡すべ
く紳戸な和帆したりであります.礁ほ上海に上陸するヤ、租界にある
イギリスの公開に散歩したのであbますが、彼の目に映じたものは公
周り入口に空」られた;の拘−ポ板であbます.その掲示に覗”大き
な眠が芯きつけられたのでありますが、肉太む文字で『犬と支那人は
入るべからず』と省いてあつたのであbます。支邦り土地で英閑は安
和を収練成した梢呼それがこの琴宗となつて、自己望見洋政熊の
憤らぎる醜き本位な赴嵩してめたのであります。美的にとつてほ箕郷
人ほ照に犬山次佗にトか相常Lなかつたのであhます.
 この紺紳は北洋人を家畜潤した苧米・憮等自由真義持回に共頓L
てをゎます0英担が印度、ビルてマレトポルネオご行つた政態、
オランダが欄印で行つた政治、米国がフィリッビンP宅行したやb
方、いづれも東洋人竺つの檻の中に入れて、餐な粥へ、偉の中で自
由だら〜、衣食には不自由させ幻といつたやむ方であbま†。日本を
すら、英隈は蒜架洋り昔犬くら定考へてゐた時代があつたと息は
れます。
 東洋咋民族は、この如き自由主義にエつては決して革頼になるもの
ではありませ人0檻”中”日出がどうトて自由であbませ〜か.真野
された家讃的自由がとうレて7ジャの準棺であbませうか.かくて、
タイ人は、ビルマ人ほ、インドネシヤ人ほ、フィリッビン人ほ立ち上
りました○イ/ド人や由璃アジヤ人丸また撃退しっつあbま†。『友の
褒に我は泣き、我が諸に友も無ふ』といふアジヤ人の友翠の楠紳、こ
れがアジヤ祝典り梢紺的原理でなければならねと考へるりであbま
(16)
 す.
 柄方に袷ける恕設は過し〈弛んでゐます0頓智の衣壌の中から沌設
の如管ポ稗き、叩梅の取野には開拓の鍬か触く打ちおろきれてめま
†.印民生汚の必帯品でムる米が、砂糖が、生涜銚充の原料である石
油が、ボーキサイトが、錫が、ゴムが′ジャの復興、大東覗建設のた
ぁにどんどん供出されつつふむす†。私は今回の現地の建設を見て−
日本は今埠確年取申を拭けても、最後の決定的野利の日まで吸ひ抜き
得るのだといふ確信を得たのであります・米国の難事評論家が最涯の
鼓上に於いて、『原料開店に湘しても、日本はもほや英米上りの輸入
杜抱の拍車を補ふて飲むあるものがあら皇と告白してゐるのを見て
も、日本の地位が既に任し難いものになつてゐることを知り得るので
ぁりよす。しかもこの計鑑の慣施を理解する人々は、いづれも取の梓
紳、敢例の気力を以てぷつかつてんまサ▲二切の自己的なものから離
れ、−切の滑穣的な竣巡を況して、句の頓振的な奉公の拝辞が幹#し
てゐます。私たちは−」の大東沌の力出い前進を日のあたb見て、その
陽に放けた建設戦線の人々に潔い感謝を捧げたのであむます・
 私たち鉄鎖では、この前線の人々に負け拍やうに頑張らねばなbま
せん。赴い挿督の中で自分たちの勢苦は忘れて、内地はどうですかと
心配洋れてゐる部顔長の質何を腑くことがあわよナ0勿拉ないことだ
と思ひます。銃後のわれわれは、何が足りないとか、何が無いとかい
ふ治接的構仰望均して、創盤の努力わ絵襲Lなければなゎません・
剤盤は決して算術的原理に支配されず、無から有む生ずることがあむ
得るのであります。
次に日本人の心持でふります0白木には良和頓仲といふ宮坂があむ
ます〔品川根性といふことは、いかにも小差部分に拐埼した態度を
いひ流したものでありますが、私は鼻声の煮件はしかく小さなもので
はないと堵へま†。射出に海洋な積らし−一炎緻水に上つて群犬なる
γジャ大場キ托し、妙茫たる大海山彼方に鮎…敏m島を従へた日本の且
印根性は、難路無比山ものがなくてはならないのであ旦Iナウ私が一
帯五千粁の距繊を飛び、大陸と海洋と品々とを偽ふて飛行した大島か
らり印象は、『いかに日本の為組の雄大なること上』といふことであむ
ます。私ほこり機酔に於いて、背き桐樺に基〈島閑職牲なる嘗鵜を改
め、新しき意義に於ける島国根性む碓放していただきたいと息ふので
あわ■ヰ.す。
 インドネシヤ人は従順に溺押上く幾許に協力してゐます.その中に
は鋸秀なる熟練工も輩出してゐるのでありよす・私ほバレン・ハンその
他に放けるインドネシヤ人の尊敬すべき動革椅紳を日甲したのであむ
まナが、日本人も亡れからは総ての人が大衆亜∽柑郷済であるといふ
首梵を持ち、−切議り恥はかき準J』式の革性を改めねばなりせせ
ん。国民革校の教育から大挙の教育に繁るよで、大東亜逮穀の指叫持
押を盛b込んで、大いなる伝本的性格と商き8本的教養を券はねはな
らぬと思ひます。
 昨日は明治天畠聖子年祭であつたのであわます0私は敬背紳釣
に鼻声して、明治天皇∽御堆例を偲び攣るの構切なるものがあむま
した.国歩甑軒なるあの時期に於いて、執成食堤の地堪を簸き給ふた
ことのみでも有難き棲みであbよすのに、五ケ偶の抑誓文空前しや小
に替り、畏くも前里の汝涌を拓寧し、飼威な由方ほ費布し、天下を富
鰍り泰きに億かんことか欲すと仰叶斡ふの′であわきす9
『萬里の蚊溝を拓朗し』といふこの短い文字め中に、私たちは無限の
掛取官を税みとるりとが出来るのであbサす.
く17)

この明治維新に於いて、我が組にあつた鎗拍は僅かに=天空、蝕噂
竺離七千噴こかも大芽ほ愉入されたものであつたのであ呈†
が、この費娼な南カを背準こして、明治天皇は『滋垂の波浦を亀川
し国威を四方に宜布し、天1を甘繁り生首に置かんこと考欲すbと仰
せ慧たのであ豊ナ二流七千噸といへば、現在では商船の大聖
空の触感にも足りない芸カで、この堆大触比なる気宇、ここに紳測
量の柏沌にして無駕なる大使命が存してゐろのでありよす。
 明治天皇のこの御耗楓は、島彗Tに於いて禁の世界史を表せ
しむろ堆石を旺くこと宝椅たのであり呈19私ども現代昭和の御代に
生首るものとして、この明治天皇の御宰雷#葡し、今上陛下の
下し捻去十二月不日の宜馳の大領を眼庸して、皇匪の侍久二千六青
年に官八紘曇丁の大橋紳を小鼻しなければならないと息ひます.
        (七月三十一日放送)