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戦時国民読本
 独伊軍進撃のエジプト

 決ノ鞘紬輝がドブルクの炎槻軍
を鳩つて牧山殊にエジプトに入
Z、盛んに蛾北をあげてゐること
は抑水知の洩りであります.
 ききにチャーチルは
rスエズ及び西部アジヤに於いて
火収ナるやう漁ニーとがあればそれ
は大英狩場にとつて最大の打準で
ある」
 と和しましたが、この英幽の恐
れは鞘紬淋のエジプト突入にょつ
ていょい上さし泊つた現竹の閑地
となつたのであ町まナ。
 エジデトは地賦を抑止男忙なると
わかりますやうに、アフリカ大佐
 の北に付し、地小海に郎み帥科ば
「求が酔余織の約一倍牛ぎつと宮粥
のエジプト一
年方キロ、釆部にスエズ速何があ
つて、地中漸と紅海をつなぎ、モ
の預仰には本名なナイル河が北か
ら裔へ流れて地中海に泣いでをり
ます8
 ナイル河はニジプエの帝と
いはれ、太古のネジデト文明も、
このナイル河の三角州に渉で−〜たも
のであヮ、今日のエジデトもその
人口一千六首肯の中、モの大部分
がここに住んでゐるのでありま
す.エジデトの主な蹄浪である飽
弗ばこのナイル河竺エ角州で拝ま
れてをり、その円一審大切なも¢
は椅であります.
 ナイル河の流域に展榊げらホた
エジデト伊腱史はビラ‡ツトやス
イyクスで知られてをりますやう
に、非常に青い文明を持つ困であ
り、紀元前三五〇〇年にメネス王
が頻つたのがエジデト王朝のはじ
主幹ときれてむ好ますが、その銃
取元前三三二年、支那では容秋攻
囲の時代、我が開では 事変天皇
の和代にギタシヤの東北ガマケr
阜ヤからねこつて、ギリシャ、ペ
ルシャ、印鑑まで支配したアレキ
サン〆−大王がエジアトを攻略し
アレキサンドリヤの郷をきだめま
した0
 この時、アレキサン〆−大王は
自分がゼウス紳の子供でほんとう
の紳であるかどうかを紳横のお昔
げに附かうとして、シ’払郷に行
く逸中今回粥伊野にょつて攻略き
れた▼ルサ・†トルーを鵡過した
といふ記錐が破きれてをります。
            ヽ
 マルサ・マトルーの名が古代の
旛史忙留められてゐるのはそれだ
けではなく、丁レキサン〆−の苑
放その雅肘のデトレメウスとそむ
子孫がエジプトを治めましたが、
モの取扱の女王となつたのがクレ
オパーラで、クレオバトラとアン
ト【−オはこのマルサ・マトルーで
地中海の背い海賦を汲めながら一
兎を姐したといふ瀦がありまナ.
 このアyト一−オとクレオバトラ
を撃つために攻めこんだのがP−
マを産んだ最大の英准であるシー
ザTの♯子で秩にPIマの支配瀬
となつたオクグビア∫スであy‡
して,これに上りエジrトは金く
P−マの舷持と軍多忙支配されて
しまつたのであります。陣つて七
世紀にはアラビヤ人の妙カーに入
抄、電に持つて}五】七年我が拍
では斡胡時代のはじめにはトルー
の領土となり‡したが、その後エ
ジプト誰虫のメヘメツド・アyめ
治世には盛んになy、その凍のイ
スマイル・パンヤは一入六七年
 ハ盤臆三年)トルコから剤玉の稀
戟を許され車繋上エジプトの王と
なりました。
 この間一時ユジデトを占領した
のがナポレオンであガミサ.ナポ
(2¢)

レオンは夷的を撃つために敗湘虫
土を仰げ‡したが、更に池小海を
抑へて印庇に手を伸ばしこれに上
って英蜘を朗はらせょうと、一七
九入牢我が閑では近搬亜継が蝦爽
地を探険した施政十年に、フラン
スの帝ツトビンを致し一堺にマル
.タを崩れ、そこからエジプトに渡
 り、アレキサンドリヤを占領した
 のでありまナ.
 ナポレオンとヒトラI払拭のや
 ガ方は上く似たとこるがあ少、英
凶を堺つためにワシヤを尉つたの
 ゃ、このエジプト弛琴などがそれ
 でありまナ.
 この時ナポレオンはエジデト全
土を卒げてレyヤまで攻めこみ、
印庶に位仰を総つて飯軋をわこき
せました.併しこのナポレオンの
恵も’,ンスの盈扱がナイルの河
口で罪開催除のため金城きれたの
でつひにくじけ、ナポレオンは仕
方なくフランスに引簿げました・
これを今回の職争に比べて見ます
と、共闘の艦隊はイタyヤの舵豚
 と璃りてきんぎん痛めつけられて
をり、枢軸軍は馳に油に仝く便妙
であ少、ナポレオンのその時とは
於況がナべて輿つてゐるのであ少
まして、英閑が蛾局を盛り返す望
みはないのでありまナ0
 きてこのエジプトの地位が、以
前にも甘して伽かに東野になつた
のは、フ’ンス人のレセツアスに
上ってスエズ迩何が掘られてから
のことでありまナ.
 スエズ運河は朗治二年K開かれ
たのでありまナが、これに上り、
モれまでアフリカの頼璃を姐つて
ゐた印庇の搬放は虹ちに地中海と
印乾洋を頼ぶこととなy、ロンド
ンと印庇のボンベイを如ぷ航路は
四千咄をちぢめる亡ととなり、世
界の史油、貿易に】つの時期を刑
したのでありまナ.
 そこで共闘はフランス人がエジ
デト捌玄の許可を得てこの踵河の
工事に来りだナと知ると非常に放
きまして、いるいるの快諾をめぐ
らしてこれを妨げたものであVま
 したが、最後にたうとう、スエズ
渡河倉融の糠を財政に菅しんでゐ
たエジデト副王から男ひとり、割
込政先に成功しました。
 ところが英幽の野心はそれだけ
に止まらないで、印庇への大切な
菰賂であるスエズ運河を握るため
には、エジデト仝地を平に入れな
ければならないとして干渉の稗骨
盤狙ウてゐたのであり‡したが−
フランスもまた英図におくれまい
としてエジプトをうかがひ、その
称兵英傭簡閲はこ頗歩調を炎にし
てトルコに迫つてイス†イル削王
を汲ひ、その子を太守に立て、は
ては材政管理に名を借りて内政の
干渉に乗りだしました。
 これ▼に卸し国家主義沓のアラ
ビ.バaヤが立つて排外拘揖迷肋
をねこしましたが、英偶繭陶は反
ってこれを口澱として聯合盤除を
アレヰサンドリヤに放り茶園は凝
狗でエジデトを占領し、エジデト
を番犬上の一喝闘としたのでありま
ナ.時に】入入一年、我が明治十
四年のことセありました¢
 井)次欣洲大林に併しましては
美的はトルコがドイツ州についた
のを率ひ、未だ名耗上はトルコ領
であつたエジプトを、これを美的
の保襟困とナる旨を宣甘し、】ガ
エジデトに対しては頼争が経つた
ら泡立きせるかあといつて協力む
求めたものであり‡した.
 英堵は戦後この拘束を守るどこ
るか反つて掬立を生んだ狩立∬の
首領ザクール・パンヤを刑に虎ナ
るなど、印庇にとつたのと同じや
うな井仁慈殊な瀕丸に出た¢であ
りました¢
 エジプト四民はこれに弗甘忙株
価し‡して、淘立起動が烈しく行
はれるやうになり‡したが、英周
はユジデト国民の大部分が回教徒
でありまナから、他の英幽の鴇儲
の回数徒に及ばナ影_を鹿りて、
一九ニニ年ハ大正十一年)になつ
て、やつとネジデトの狗立を認め
ることとしました。とこるが洗浄
な英拘のことでありますから、わ
(27)

∴】■.■■−・‘】
いそれとさジデトに栴立を許す渾
はなく、粥文とは表両だけのこと
で、英桝は依然として婦中上、摂
済上の文酎純を握り、アレキサン
ドリヤめ鮎には英尚の催粋がここ
む叛城としてわたのであります。
 今乾の敗洲戦争がはじまりまし
てからは英幽はいょい上席カを加
へたのでありまして、歎洲戦中の
筆一年日の昭利十五年には典瞬と
意見む炎忙したハツサy・サアリ・
バレヤ、ハツサンシサー・バaヤ
の両首相と随畔大臣の三;.バ
レヤが匙の急邦をとげました.
 然るに大洗舶職争以爽茶園の架
誠にわける打ちつづく敗北を見て
エジデトの抹茶湛動は共闘の押誕
にも拘らす】段と弗まって雑たの
 セあります。
 この暗弊の円に洞伊締紬碓はエ
ジデト匙堺の火ぷたを切つて落し
ましたが、エジデトはこれをこと
はり、述に英槻節はカイロから放
逸せょと襲来を壊したのでありま
ナ●
一方共本留では殉伊宰のエジプ
ト猿遊学に色を光ひ上下をあげて
放ぎ立てて象りまナ.今月一日の
ロンドン放送ほ
及び地中憮に対する我々の期待や
見逃しを現溌ほど露地きせたこと
はフランス此北の時以後に於いて
は,はじめてである。」と本音を吐
いたのであり‡ナ0
 英岡にとつてス井ズ礎河を抱く
エジデトを欠ふことは、それはひ
いてほ輿紳の印匪への池路である
西都アジヤにおける夢カを伸措き
せ、琴礼ナことを意妹ナるもので
あり。水流にわける鼻輝の済々た
る革架と飲料における狗伊鮮の比
例的な遊撃に上り、英圃はいょい
よ最後の土確故に迫ひつめられて
ゐるのであります.
      ハ七月九日放逸)