米国の東亜よりの敗退
昨年十二月八日大栄煎確幹が勃
費しますや杏や、鳥革は県珠帝の
改革と共に敵米萌のグァム、ウエ
ーキを保守し、同時に上海、天津
の敵性租界に堂々の湛放を行つた
めでありましたが、米桐の発亜最
大の捷鮎フ†yyビンに射しては
憫柴を容れす十日に敵前上陸を敢
行し、こ1に米幽め紫亜における
前進基地はことどとくわが火のや
与な改革を受けるに整つたのであ
りました0そして早くも十l一月十
二日にはグァム鹿、二十一串日にほ
ウユーキ島、l月二日忙はアイリ
タビンの首府†岩ヲを相次いで先
余に攻略し、バタアン年耗に雄つ
た五萌の政も我が維改革に酎へか
ねて、四月十】日に柾伏しました
が、さらに畢寄っレヒrIルに立
札つた敢も、わが軍が去る五日汝
が不可能と考へてゐた敢前上蝕む
斤ひ王ナや、三十二時何にして七
日朝選に屈伏し、敢耕の券木立孝
司奇骨ウユーンヲイ十が、且へ地に
兼動する米図箪に降伏放藷を行へ
ばいづれも白族を掲げ、こ▲忙奄
フィγyビンの職定作戦とな,、
ミy〆ナオ鳥の鵡赦を最後として
フィク’ビンの米戦力は急く】♯
きれたのであXまナ●
恰もこれと時を同じくして帝田
地呼堆は、六日珊瑚海上に米英廿合
の主力艦酔を姿見靖湿し、敢米英
がわが糾に最後の改革をなさうと
はかつたこの大洋持主力魅除に久
し七日から菱刈な攻革を朗均し、
(38)
「米粒ハ_【▲「をヰ能、葵我々−集を
大破、鳩洋培二筆に大破及び大領
寄を熊、、叉米航盤母盤サヲトガ
型→坐、き−タウン型−並を準眈
し、さらに敢槻九十入違を準蝦、
これ忙サラトガ、ヨークタウyの
塔蒋槻を加へますと二宮倣群む一
捗に海底に息つたので、との世界
に輝く大特典は、新開や一ニース
で辞しく樹氷加め鵡町でナ.
米印は男疎材では油併してゐた
から敗れた、のだといひ、男の海軍
の知力は日本に劣らないと百億れ
てゐたのでナが、この徹底的な珊
瑚海の放♯によ¶ヽきしち由惚れ
の狙い禾准革も急く百倍を失つて
しまつたのであワ‡して、今や禾
執は陸に海忙轟く文蛋から集金に
敗退してし‡つたのであ’ます.
抑モ禾朗は今から四官五十年前
の西憮】粥九二年に、コロンブス
が米大隅を獲見し、避・乙て】四九
七年に英閑の命をうけたジさン●
ヵポットが北米を費見してょり似
非英閑の拭代地となつてゐたので
あ’‡して、その後’ヲyスの獲
物をうけて、本斡の美園に盾つき
未開が拘立む宜音しましたのは、
l七七六年ハわが姿永五年)めこ
とで今を去ること僅か〓ハ六年前
のことであ妙‡した0
そしてワンyトンが初代の大社
領となサ、その後木組は米肖人の
米朗を珠印とし、放桝砂干渉をし
妙ぞけ、着々その地域を辞め‡し
て、西盾一入四六年ハあが弘些二
年)にメキ身コからカリフオルi
ヤその他の教州を等つて太平洋の
#沸を収め、次いで西肝}八六七
年ハよ鹿三年)にはPシヤからア
’スカとアyユーy†ン♯鳥を又
牧したのであ,きナ.この憫】八
二三年ハわが文教六年)忙鍵五代
の大統領モyP−が卑したのが、
「丁メyオ大陸はこれまでに保持
して雑た自由にして濁立ある耽慈
に飴みて、南北アメリカ大陸を似
て今後ヨーロッパ列騨の耗民の日
的地として孝へられてはならない
ことを未明ナるものである。合衆
用は放水】−Pツパの♯タにも、
又領土及び枯民の事件に榊侍しな
かつたゥ ヲーPツバの渚圃の政浄
粗放は盆く新世界のそれと異つて
ゐるが故忙、ヨーロッパ列弘が合
衆閑と崩僻の深いこの牛球の如何
なる部分に封しても、その政治的
系耗を覇ひるやうなことがあ,、
みオみ上々■
又現に神立を宜甘したわが南常
の紆田忙対して、ユI甘ツバがそ
の支配♯女帝は与とナることがあ
つたならば、それは耽りも湛きず
合衆納め平和安亭に対して、危泳
があるものと肴城きなければなら
す、合衆奴に射して蘇意あこ耶した
ものとして捷力反射せぎるを得な
ごといふ米田人の米閑、欧洲不
干渉ま♯¢宜甘であ幹‡して、こ
れがいはゆる有名なモンVI宜甘
であります.
かくして米困は桝立以来偉か青
年足らず忙して非常な費展をとげ
天輿の埜かな穎源を抱いてl帝世
界の】流図となり、きら忙中南米
をもその妙力下に旺かうとする一
大野カとなクたのセあ’‡レで−
倖サに米朗が井村にしてこの毛ソ
ナI立轟を舷梯に守つてゐたなら
ば、今8め都激とならデ架並の紫
定、世界の平和が保ち持たであ’
ませう。
然るに米幽が−鹿この府粥に立
つて建材の8鹿がほど襲せられt
ナと、何♯にも世界帝一を窯み政
治的にも、軍♯的忙も、世界一た
らんよナる野望に換え始めたので
あり王して、モのため米由が先づ
日をウけたのは九重、特に支那大
陸だつたのであり士す。
これを施史的に点王すと、もが
井永年阿忙ベルリボ丼車Kれたq
は、はるか忙印度洋を泉つて*た
ものであ’、共立池田忙おいてl
英穎、フヲyスの故についてその
分前に¶から与とナる程度であ並
まして、発明が我が小笠原を占銘
した時も、未だ帝二織の閑であy
ましたため英幽の一嶋に上つて引
き下がつたのでありました。
併しこの米凹は粥カの充♯に伴
(三好)
ひ佐々と太平沖に伸び、別担一山十
}年の米閑とスペインとの蛾ひ米
西時弊のどきくきまぎれに衆じア
ギナル「沖湖山決の拘立坪史助け
てフイリツビンむスペインから桐
立きせたのでありますが、米図は
この悌恋心をおこしてフイVツビ
ン渦立の的氷を一枚の反古とし、
狼のやうにフイリツビンを黎つた
のでありました。このフイリツビ
ンの併合忙対しては、流石の来由
にも幽円で反対もあつたのであり
王したが、米糊政府は諷ひてこれ
と行つたのであり、とれが米餉の
犯した祖ちの錯一歩でありまナウ
来して米槻はその熱中財務汝甘
ジョン,ヘイの名に上つて丈郷の
門戸開放を咽へ、叉その黎叫には
文那の領土伴食を唱へて、加速に
封ナる材梓的な感度を現して雑た
のであります。帥ち米‥圃はこれに
よつて支那において立ち退ルた自
分の洗▲視を村利にしょうとしたの
でありました.その彼日鹿瀬争の
時、現☆仰の小ハ耗儲ルーズヴエルー
の伯父にあたるセオドール・ルー
ズヴユルトは、日本とワシヤの閑
忙立ち酵利を砕放したのであリミ
すが、これは破壊米鵡に粗い免官
碓を持たうとはかつたからであり
ました。付このルーズグエルトは
米幽のフイリツビン侵略常時の海
軍兵人甘の故にあり、フイリツビン
枚挙をはかつた沓ハ位者であつたこ
とを氾憶すべきでありまナ.
果せるかな券粥は8止抑職申が捗
るや杏や社ちに浦洲忙射する野心
を嘘州は忙し、ナ鵜同胞の血を以て
九叩ち柑た南浦河蛾灘を棟合から琴
ひとらうとして、銀浩三ハリマン
を日本に迭つたのでありました。
併し率ひ忙してこれは常時の外
勝大臣小村盤町太郎の地肌に上つて
肴破られ、券糊の野党を未然に払
いだのでありました0
米困がこの常時、丸弧において
大神沖に於いてどういふ立場を占
めてゐたかを見まナと、米幽ほこ
れよりきき既に明治二十六年には
ハワイの女謀りリオカラを王位か
ら塩つてハワイを執黎し、明治W
一年のフイyツビンの合併と時と
同じくして、やはりスペインの鹿
瀬であつたグァムをより、又り丸
−キの領有を宜首し、太平洋を氷
西に甘く域略上の撃地を掛りハワ
イ、ウエーキ、グァム、フィジツ
ビンと水洗を任す飛石を作つてゐ
たのでありますゥ
かく赦しまして米闘は片手にモ
ンウT立教を唱へて南北米大体む
米糊の朔占下に碇かうとする∵方
策誠に射しては明んかにこれ上矛
盾ナる態度を探り、これ忙干渉し
俺略し文則しやうとの野営をいょ
いょせハ行に移して雑たのヤありま
して、これこそ東北の繁定を妨げ
聴界を蛾胤に導く急大な席囚と々
つたのでありまナ。そして米閑は
rイギリスが香港に械る如く、救
特は†三フに械る」といつてフイ
リツビンを朱印侵略の根城として
軍備を強化したのでありまナ。歓
にコレヒドールの嬰塞がシンガポ
ールに世故し、しかも守備の鮎で
はぞれにもまして租凶な陣地とな
つてゐたことむ息へば、米閑の執
府は思ひ牛ばに池ぐるものがある
のであります¢
きればこの米拷は、沌州♯筆に
概して頼力欺が朗を鹿浪し、現耗
の隣軍長甘で常時の回教長官であ
つたスナムソンは身捗手ないはゆ
るスナ▲ノンドクトリンなるもの
を破りかぎして、盛に日本を成辞
したことは我々の氾憶に新なとこ
ろであります。しかしわが拘は、
斯乎米的のこの妨音工作をしりぞ
けて満潮的の度肝を布ひ文雄解放
の一路を溜過し史那革姥を蛾ふに
重つたのでありまナ。
更に米桝が日本と支那の璃ひに
乗じ架誠に封ナる野繋境現の秋耗
れりとして材介石の溌助に柾押
したのは桝承知の池りでありま
す。大水弦確争前米的のヤーネル
拡督の如きは「傑妙なるアメリカ
腔件の威力を似てすると劣妙な日
本杜陣のどときは容易にこれを二
親河内に血下破し与るであらう」と
(沸)
今米英と救つてゐる攻が槻の目
的は申す盗もなく、我が革姐の煉
紳忙基きまして来遊♯菜園を姪役
し、これを鵡じ拘埠、伊大判を中
心とナる欺洲弗乗組の地紋と非忙
世界に新し小牧序を維放しょうと
ナるものであります。
錐ひきして日本が現在行つてゐ
る澱学は破壊の域ひではなく、架
教官したものであ,‡した9
ルーズサちルトが日米倉故で敬
意を示さナ埋に森々取碓となり妙
に堵民政府屯鞋あす、史郎から金
田的に撤温せよと傲慢触紹なこと
を咽へたのも、日本唸支那雑駁で
窮つてゐるから日本を屈伏きせる
忙栓好故の時勅だと考へたからで
あ,‡した。
掛るに今や陶職僅か五ケ月忙し
て米材は随に海忙末吐から急所的
忙放漫し、しかもピル▼の伽鹿忙
上つてルーズゲエルーがたのむ仙肝
介石は袋の鼠の鶏命になり、米崩
ほ如何にあせつても錬いでもどう
にも桝衆なくなつたのでありlし
て、竣るはたゞデリヲ我あるのみ
の赦意となつたのであります勺
和共は楚々たる曳軍の戦果に鹿
へ、少しも油軒せヂ、益々心をひ
きしめて、政宅屈服せしめる‡で
斯じて戟ひ軟く決意を囲むるのみ
であ少ます● (五月十三8故選)