ビルマと援蒋ビルマ・ルート
‡横線理大臣ほ】月廿言Hの拝さで我が犬凍恥捷設の押掛を生々
と戎べられましたが、その中でビ
ル†に封してはビル†の民衆にし
て帝粥の名意を諒併し大架魂炎欒
園紐洲他の一式として協力して粂る
堵今においては、帝国は欣然とし
て礁等に輝北の穎甘を輿へんとす
るものであろと申されました。常
に亦yソガポールが臍落した翌日
には「ビルマ妃衆にしてすでにそ
の無力女鹿渚せる共同の現状を正
覗しその多年の棲椅上り憮舵して
我に臨カして氷るに於ては滞留は
欣然として「ビルマ」民衆の多年に
亙ス浴用†なはち「ビル二人の
「ビルマ」姓設に射し税額的地力
を興へんと†るものであむまT」
と雅史的な貪嘗をされたのであゎ
ます.
そして又ビルマの首琴アンダー
y落ち、瀾仰が隋落した敬♯▲琴一
家職欝記念日の十二日、北條穂瑚
大臣は正ねて初音で
「ビルマ人が多年に亘歩、実印の
昭放下に坤吟し来れる諾偶に耕し
‡して、放き国柄を鶉すると共に
新たに犬#避妊諜の一貞として新
しき頻足を産げ、今後舟▲正しく
繁残せんことを念頗とするもので
ありますJと申ざれましたが、こ
れらの東條総理大臣の晋媚順美声
に虐げられて衆たビル†の掩衆に
希望と光明の潔い鷹を輿へてゐ
るのでありま†.
皇軍は葵的の軍手汝斯を現し、
米英の壌蒋路ビル†・ルートを漉
併せんとして去る→月十七日ビル
マ准撃な開始し、翌々日十九日に
はビルマ発揮の垂衝タヴオイを侮
れ、又一月三†一日にはサルゥイ
y河に近いモウルメインを竣ミ
平にサルウイン河に∬つて耗挽す
る敵を撃破してサルウイソ河を突
破し、〓月十8にはマルタ.ハyを
占萌しその後済々戦果を甥大し真
る入日早くも首都ラン〆−/を解
れたのであります。
とのビルマは、煮は貫井のl頼
省や朗領印竣支那、メイ常に壊し
西は印溌に題む北は西康省、帝は
ベンガル■に位んでをゎ、その節
(3ア)
デ
積は杓大十七堪六†千万キロであ
りまして、我が開会出り侶さ上り
少し大きい佗でありまT。閑の北
と常と西の三方を山に倒まれてを
り、北では印度東郷山脈に脇†る
最も瞼しい山地となつてたわます
が南に下るに従つて依くたり、団
の中央にはイラワヂ河の大きな流
が北から璃へ流れてベンガル拇に
泣いでをります9
西の印舵との図境にはアラカソ
山脈があり、この山脈は一般に倹
しくて深い峯を適わてをり、この
地相を椅断して印耗と往来†るこ
とは柏督閑雅であり、たゞ鯛の方
の山の坦つた梅坪沿ひに印度のベ
詞墟ひにあるアラカy山眼のや〜
に市′、はなく、サルウイン何がこ
m梅原の火む刻んで拭かてをりま
す◇
笥硝省を確て支那に涌ずる格は
搬ね山岳の京なり合つた難路であ
りますが、これほイブワヂ河に沿
つて南北に閃けた中央平野に出る
ものであります.この通路は古代
から東郷と印塘沖を址抑ぶ▲溌賂とな
つてゐたのであゎまして支部の繕
史には国際的交通路として撃たぴ
かその弔斗漣k亡わてをりまサ。英
国はこれむ援蒋路としてとり上げ
霞匪援助み左Tと共に印度洋と組
子江を連絡し上うといふ野心を泡
漕が建つてをり、又イラーヮヂ河の
水窪に上り使もありますがこれは
ラングーン粘から一端海へ出て、
イブワヂ河の本流に入らなければ
ならないといふ不傾がありますか
ら輸遜盤の∧割以上を占めてゐる
のは−ラックに上る輸簸でありま
した。このビルマ・ルートが畠革
の休演印度支淋准駈後は宴陸に封
†る唯一つの輸血格となつてゐた
のでありました.このビルマ.ル
ートは単に英均や米国の電腱に封
ナろ武撫援助の輸遠路といふには
とどまらず、ここに見逃してなら
ないことは、ま臣の勢力がこのビ
ルマ・ルートに上つてビルマに佳
その一例を上げますとビル†の
】ばん大きな輸出品ほ米であhま
†が、この米をビルマの壊民から
更ひあつめる仲質入ほほとんど全
部支郷人といふ状態になつたので
ありました。これにはビルマ政府
のイギリス人も漕いて米懲統制拭
をつくつて米の図家管理に瀬りだ
したり家郷人の入団を制限したb
したことがあ巾ました0貼しこの
ビル†・ルートも舅騨のラソグー
ソ占領に上つて今や完全に仰へら
れたのであります.
さてこの支那との楓墟にくらべ
て印度へは船に上る交流が早くか
ら開かれてをりましたため、甘か
(H8)
g州い戟c附…糾州g∵gg‥=いg…川紺…f悶ggパf約…椚g…=媚苧き…
ム州へ出る山路があるに過ぎない
のであります。鑓つて背から印舵
とビルマとの交渉は大準mセ油し
て行はれたものでありまナ。
疋の頭南省やメイ国との閑地に
はシヤソ高傾があつてこれも痩い
暗を縛づてなりまでが、印度との
このビルマ・ルートの重な道筋
はラン〆−ソから北に簸り、ヤン
グレ‡か確てビルマ北架伽のラシ
オに虚し、ラシオから映しい山道
む縫つて黎南省に入り戊明に迩絆
してゐたものであゎます。
ラソ〆1ンからラシオまでは餓
浣に租ぎなかつた支那人が大東適
職襲の前にはニ」十五六油性達し、
彼等は抜日なくビルマの緒業に噴
入つて勢力を撮ひ従来ビルマの商
那は姶んど和占してゐた印庶人の
い労力む馳迫†ろに発つたのであハ
ます¢
それでビル;文化は軋
の影坪】ぜ探く受けてなりまして、
お供のタイ駒と共に小報伽政が棲
めて盛んなところでありま†¢
ビルマの中心はイラワヂ河であ
〓まLて、タイ流がメナム.河の均
である嶋〜にビルマはィラワザの
仙でありま十が、
⊥閏しd▲雷は.れてを勺まして、ビルマ
の陣地は常にイラワヂ河の流域を
W心として旭叫渕げられて架た・ヽの
¶訊存でもあ、りゆろ
意味でこのビルマの中心をなLて
をりまT。イラワヂ河ほその下流
に大きな≡角榊を形づくり、米の
薦柏となつてゐろ許巾でなく抽出
がありまサ。その上増水期には海
岸から担曹里も異にあろ、ミトキナ
までさかのほることが出来るので
ありまして、その支洗も亦渦をう
かべる亡とが出来、受講の便を鵜
供してゐるのであります。
このイラワヂ河の流域は中央部
のヤングレー立場と下涜の≡朽料
地冊との〓つの部分にわかれてを
ゎ、印度洋に画すろ地相、とりわ
け海岸地方は極めて雨が多いので
あむますが、上の盆地では雨が少
くて髄燥してをります.然しビル
▼人の本嬢はこのマングレーを中
心と†ろ乾過した地方であむまし
て、禎鞘に北のシヤソ投ゼ硝のア
ラカン人と隙ひながら、とこにそ
の仇叩数文化を壌きじげたのであり
ました。こわに比.へ下の三角測地
滑が上く鞠観されろ干うにたつた
のは明治十入牢の頓ひで英摺人が
ビルマを完全に安和するゃうにな
つてからのことであゎま丁。
ビルマの人口は約一千六宙笥で
ありまして、その内でビルマ人が
全鰭の六翻二分を占めてをb、タ
イ訊上りの一角に住むカレy人が
九分、シヤソ人と和洋人がそれぞ
れ七分づゝを占めてをりまT.
宮拳は地方に上つて大漁ビル†
語とシヤソ慧が多いのであります
が、ラングーソ地方とわわけ裡済
槻偶の万両では印鑑人の労力が堪
れてをりますため、券ひビル†語.
上りヒンヅー語が一鴨をきかせてを
りまT、このビルマは英醜からビ
ルマ槻督が沢治されて来ましたが
その下にあろ帯禽は英語音便はな
ければねらないことになつてゐま
した。ビルマの産業ほ農薬を鶉一
とLてウ▲エニして拘出の八割が放
突に杜つてをり、農産物のうちで
も米キ立とし、】年の藷醐げ約由
千砥石その釣六剖が持出されてを
ゎましてビルマの瞬桝金釦の半分
は米が占めてをり、憮卵一の米編
出園であむま寸。米に次いでは石
油が多く年に約嘗十拡トンを蓋し
全輸出金繍の〓剖を占め、範三位
はチークといふ木材が約一郭にな
つてをります。その他幾重独とし
ては、持とか、ゴム、鰯草などが
あり盤叩頭物には組やタン〆ステソ
鉛などがあらます。これらの物溌
のうち米はその特出愈の犬割三分
石池は全部、チータは大朝七分が
印変へ法られ、印度からは約布や
綿糸む現収つてをりますが一方鋭
とかタy〆スチン、鉛などの鎌壷
物は英軌が盛んにしないゃう仁耗
へてをり、反つて印定に工菜を起
してゐるのでありま†。
これは英田の浮い魂昭から出た
ものでありまして、抒資とビルヤ
をかやうな碕捺な関係にh州き、ビ
ルマや通じてししも†かば英弼小ら
織れ上うとす乙印踏む抑へ上うと
したのであります−】即ち甜−匪げg
づ絹}に大切な食身の器をビルマ
に仰ぎ父印度の新興工業を鵬ふ石
油はその七割近くをチーク封はそ
の全部をヒルマ■ト色ひ、更に紡鍛
工梁は最もお穎客となつてをりま
すため、ビルマな湘へられること
は印度としては致命的な射撃とな
るので怠ります.
他方ビル†から見ますと、印輝
への取出を抑へられますと、原料
のもちぐされ、斉のもちくされと
なることになつてゐたのでありま
して英酌はこのやうにまことに狭
いからくりをもつてビルマと印蜃
をどちらも図として一木北ち出来
ないやうにしておき、その上或る
噂はビルマの扁を持ち或る時代印
資の崩七持つといふ嵐に、印度人
とビルマ人を何時も仰が想いやう
に、恐いや〜にと仕組んで衆たの
であむま†。
今津の材料戦争が姶つた直後、
(潔))
ツセルスは「ビルマが敢の手に入
ろことはベソガル滑にヒ汚を凝せ
られたのに博しい」と、ビルマの
閑仇上の咄粒を放送しましたが、
まことに印舷をまもるためには、
少くともベンガル舞は完全に英硯
の海でなければならないのであり
ます、タイ閑がビルマと英触マレ
ーの聞から僅かにベンガル滞に臨
んでゐることさへ、英閑人の論説
の櫛となつてゐたのでありますが
ましてやビル†は、印韓の心織部
ともいふべきガンジス河の河口を
抑へ、ベンガル縄を東から朋む地
位にあるのであります.
亡のビルマの形執”が、印鑑を中
心とする共酵の東娼における勢力
を桝威から沖すものであることは
明らかでありまして、ビルヾむ失
へば延慶は全く孤☆し、印庶は混
乱に陥るほかないのであります。
か〜した形劣仁環陵政府はラン
グーソが偶ちる前からビルマ・ル
トなるものな汁等したのでありま
す¢
この印性と萌歴を緋ふ研ルート
は大隠次のや〜な裡格を辿る稚定
になる接でありまして、即ち起鮎
むベンガル漑に駄むヵルカッタ、
又はチックオンとして、こゝから
抜道に上つて北に簸り、アッサム
州のサデイ7に出、こゝからと†
ラヤ山脈を越えて、顔廉省の巴靖
に逢し、巴婚から架北に伸びて、
成都を確て束駐に痩絡し上うとい
ふもので、その全長は斯くなかれ
入石盤と挿するものであります.
精緻で考へましてもこの新ルート
の工事が如何に閑難なものかゞわ
かるのでありまして、印度と西簾
省との隈墳の披しさは、ビル†と
宰領省との囲頓どころの許でにな
いのであります.
世非の陸頓といはれるヒマラヤ
山脈を越†には】装五千尺以上も
ある山を−準えなければなりません
し、更に西験省はヒ了フヤ山脈に
鄭る山地であり人跡未払の奥地で
ありま†●
こかを以てしても所ル一トなる
もりが正絹の沙汰でなく、沖介右
と英田が苦るしまぎれにひねりだ
した一片の計碩である⊂とがわか
るのであります.頓bにこれが奇
蹟的にも触等の宜樽†るやうに今
年の宋に閑殉†る撫びとなると致
しましても、ベソガル溺を抑へま
†と一朝にして役に北たなくなる
∽でありま†.
これは瀬覗から敗退†ろ炎粥、
東娼民族の義切潜として米英の犬
となつて狂沖†る滞介石の無しい
最後のあがきを暴落するものに外
ならねもmであゎま†.
(三月十六日淑遠)