英国人濠洲

「帝幽の耗意を了解して協力的態
収に出てくれば帝国はその碍址と
叔蛙のために充分理解をもつてこ
れにカを瀦ふるに青かでない」と
求ふ東條総理大臣の暖かき忠告を
せけ乍h穣糊は愚かにも何も抗職
をつ∫けてゐま†が、去る二月十
九日ポート・ダーウイソを我が構
批仕る充満に上つて堕丁され、今
また日山兜に残る放尿後∽搬瓢ジ
ャパがはかなき鶴等の希墓を封切
つて豊平の肺巻Tると亡ろとなり
又爛む併合娠頗も撃沈され湊淵は
今や風前の灯の心細い有線になつ
て立抜いでゐます。
 この津桝は申†逢もなくアジヤ
の南に已んでゐる大陸であり日本
を専勺四千埋の海上にありま†。
 その面税は七曹七十萬平方粁で
†に我が日本の+二倍に漁してを
りますが、これに住む人口揺又驚
いたことに懐か大官九十謁、即ち
我が東京市と同じ位に潅ぎないの
であります.杜つてその人口稗姪
は我が国の一九〇分のごにしかナ
ぎザ逆に云へば【人懲りの面積は
我が山九〇倍にも潜るのでありま
す。Lかもこの僅か七召流にも純
たない人口の内その九割七分は英
国人でありまして、本来の漣糊の
任用は今ではたつた五些;T、殆
どあるかなしの有様であります.
即ち彼等ほアジヤにありながら固
く英国入漁糊主義を探つて英国人
以外の民族を徒つてアジヤの民族
を全く珠洲から閉めだし妨二の共
同を作つてゐるのでありまサ.そ
してこの少救の英申人がそれ丈で
は開拓も出水ない購い縄土、閑教
の手も及ばない埋かな珠離を強欲
そのものに蛮しく拘り占めにして
ゐるのであります.しかもこれら
の硬州に住む美観人即ち條洲人は
今はその大部分が礁洲生九であゎ
まして、その摘んどが一悪叩以外の
外聞を知らず、英木田さへ成かに
檜とか智物などで知つてゐるに泡
ぎないのでありまして亡うした丸
民がγジャに葵軌の輸壌地とLて
(釦)
「、つの」呵を作つてゐるのでありま
サ.
 碩糊の先任民政はアポリヂニス
人といつて世界で最も古い民放り
一つであわまして、英担人が経入
するまでのびやかに平和に黎tて
ゐたのであケまして非憐人が舶初
に入つて来た時は約有能を放へて
ゐたと官はれます。それが前に申
しましたやうに英釣人の敬謙と鮎
迫虐殺に上つて、今日では恍かに
五藷〓千を敬へるに過ぎないで、
しかもその大部分比熱い奥地に泊
ひやられてゐるのでいめります。楳
洲の気畷は我が国と反動に赤池に
泣い北は鼻いのでありますり陶の
方は我が固の夏は多にあたり、多
は克に常つて内地と同じ様な上い
束塀であります。
 英閑人の濠洲傑鴨はキャプテン
・クックの太平洋の撫取に始まる
のであむまして、彼は今から椰か
苫七十銀丁前西昏l七七〇年ハ我が
国では鳩川・T代肺革家治の時代)
に簾洲東海辞のポタエー狩に建し



       /
次いで柑州在のシドニIを労“見し、
とムに領抑東海也斤の女瞳をニュI
・サウス・ウエールス即ち新しい
軌山ウエールスと名づけ、州取桝位
鴨の範}渉封印したのでありま
ナひそしてそれから十八年後一七
八∧年に炎閉山範巾次移民解か七
田丸十七人の囚人と二召大十人の
矩酸、それに六岡のヰ、七粥の鹿
二十九朔の羊、その他租兎などを
料地して到小附した∽を皮切りとし
その後英印はこの溌削を“囚人な洗
寸土地としたのであゎました9こ
かが炎阿山糾民地珠洲の最初の挺
出であbまして、辞洲は取持ゞ英
仰の囚人の倍叩に作つた囚人覿錬洲
と科ふべきものであむこれは亜紬
蛸に封†る叔も大きた梅昏であむ
ます。
 糾在の樅洲の中心は架郡に鵠つ
てゐま†。それは水には海岸に治
つて山脈が建つてゐますが、その
杓伽にはセつかの何が流れてゐて
これらの河の流竣に平野が山開けそ
かが硬洲の代表的な繁顕である孝
宅と小⊥費の奮止柴地は執となつてゐる
からであります●
 又山眼の外削は細長い平野が海
に齢んでをわ山隈洲の都禽は拾んと
ここに集つてゐます.
 東海棒のデリスペン、シド【l−
輌海津のメルボルン、アデレイド
などがさうでありまして、これ等
の都合ほ丁度赤道を距てて東京や
大阪などと同じやうな場所にあり
ます。この内でシド一一1が一智大
ぎくて人口は約官三十貰、それか
らメルボルンが石電、グリスペン
とアデレイドが杓三十範を敷へて
ゐます0
 これに比べまして西の方は、砂
漠の多い昂杢であわ海岸地方を扱
きますと殆んど無人の塊となつて
ゐます.海岸地方も西部ほ東部に
〈らべると火の粉えたやうな故叩し
さであわまして人口三十亮を放へ
る郵曾としては西海岸のパースが
あるばかりであわます.
 樅つて瀬洲の人口は東南部に瑞
つてをゎ、それも都合に輿申して
ゐるのでありましでこれ♯索の
全人口の♀分を占める束縛郡の地
域が濠洲の中心地方とむつてゐる
のであわます。
 席料の産業は、鍵準、牧畜を童
とし、とりわけ羊毛は世界一で羊
の粥放は約一億〓千舵鞘に上り、
世界における紡武糊羊毛の四則近
くを出して屠りその次は小#、肉
類、バターなどが多いのでありま
す.その外糊や金、餌、楷、弛鉛
石u訳などがありますがイギyスは
木内の耳工業と衝突しない様わぎ
とその関野を十分に待つてゐない
のでありま†。挺つて亦エ革も撃
つて志であむ玉工業のや〜な平
間エ築は殆んど敬達してゐませ
ん。水産業もその前金は有璧であ
りますが今では至つて幼堆であわ
現在の主な水青物杜氏珠見で、亡
れには我が同胞が職野洲堪んに括
醍してをりました.
 罫するに現在の礁桝は農業の珂
でありまして、羊毛と小鼓それに
肉などを世つて、その代金で拷械
(飢)

現とかガソyy、鵜品、組織晶、
拭頬、茶、憤革むどの生捕必髄舶
世辞晶事供の玩具に至るまでを勅
ど外申から質入れてゐるりeあり
ます.しかも破抑が輸出†る羊毛
肉類小薮などの為産物の申分以上
は草本国に輸出Lてゐたのであり
まして、その飴分を他の留に取捌
してゐたものであります.即ち悌
湘は英国の最も大切な衣服の原料
や食埋の生新地であり若しこれら
の換入が止まると†ると、イギリ
スとしては坊一に衣服や発…棚の力
面で非常な射撃を贅る亡とになる
郡洲
つたのでありました.そして一九
〇山年即ち明治≡十四年に至り、
礫洲東南海上にあるクス†エア島
を含む破榊聯邦が成立するに至り
英国の中に在り乍らもその自治を
認められたのでありまして、その
鶉一同の聯邦粥昏に際し、英国政
府は英組人瀬棚主義を萱塘きせ廉
洲から魂細並人を徴直して排斥し
たのでありました。
 寄食碩州の東亜民族に封する排
斥は二八五〇年の金瀕変乱に伴ふ
支抑移民の殺到に上つて始まつた
のでありましたが、これが政治周
剋としてとり上げらか、はたまた
宜博されるに至つたのほH椚職印
で我が国が勝利を待てからのこと
でありました●
 この築閑∽政触は老約梨酌の漣
糊統治政鮨を最も明かに示すもの
でありまして英国はこれを白硬壷
裁と云つてゐま†が、英国はこれ
 に上つて、舶掘出族の入組を禁じ
 ると非に、同時に梨園人以外の欧
‘ん〔放り、美■の大地局地とな
洲人の入園をも制限し、完全な英
国人漢和主義を漑現したのであり
ます9そLてこれは又漢洲におけ
る人口の増加を制限して操洲を永
く宋閑教の状態として大別にしま
つて置かうとするずるい方針であ
りますと兆に叉硬洲が恵菜の款遜
に上つて、圃力を充せし、英本匝
に翔先の反跳を排すととを防がう
といふ深い魂陀に出たものであり
ましたβ英国の印度に対する政鴇
マレーに封する故知延いてはアブ
ヤ粂睦に勤する政染もこれと同じ
であつたと見るべきであります.
これが黄河自由を平等を博愛を口
にして架た炎幽のにくむペき他抑
制醐の政鮎であつたのでありま
す0
 濠州には挿や石淡、鞘、娼鈷の
やうな鞋宮な地下安治があり、ま
たゴム、棉、懐黎1コIらト茶
米などもい〈らでもつくることが
桝来るといほれてをりますが、醸
州山人口の榊加率はふえるどころ
か反勤に糊少してゐる幌向であり
まして、英常人熊州主血粥の効果は
てき面に利いてゐるのでありま
す。
 しかしこうした政策ほ瀧洲の拍
防上の崩粘となつてゐるのであり
まして、飽かに七百能足らヂの人
口を似てLてほこの七冒七十粥平
方粁の購い由土を防他すべくもな
いのでありまして、醍洲はどうし
ても英木材の武力に偏らぎるを得
なくされてゐるのであります.こ
こにも英本関が礁洲を本由に縛り
つけて来た靴蜘の山つがあるので
ありまして、英国の射横洲政鮨、
英国人慄洲生我が如何に意棟巧妙
なるものかゞ観はれるのであり士
す¢
 樅つてこれまでは添抑が如何に
「破洲人の溝川」を強調しづして
も、そわは蜘蛛の娘にからまつた
ぬのやうに、残しい射カに過ぎな
かつたのでありまして、昭和五年
に礁榊政府は碓氷の昭例を打ち破
つて、紫ポ姐政府にほ和戦なしに
領袖生れの挽榊人アイザツクを態
軸捜やに†ることに成功Lた飼.も
(さ2)




 我が輸に勤しましても、昭和十
年暫時は、日本と馨槻係を縮び
拓済上手を埋らうとしたこともあ
ゎましたが、これは直ちに英本脚
の続柄を喰ひ、昭和十山年になり
ますと、謙洲は迎に英本閑の朗氾
に上つて、日本の碗品に射して、
関税を引上げるといふ態度に出た
のであむました9
 美的が企てた英雄立教の水盤出
銭】琴斥が、我が日本を主な日礫と
したことは申すまでもない⊂とで
あゎまして、英臥は謙抑に封†る
に常に日本卑るベLとの激日戚榊
を拍叩むたて1来たのでありまし
トト0
 かくして老狩英前は、甥易上、
申防上蕾川を拝む、モに亦約五億
ポンドの事へ本を浪洲に投じて、嬢
洲の財政を縛り、樺削の本地への
依存的係を頼んど絶射的なものと
し、錬山叩が表沖丈でも美本印へ鹿
瀬を宰はざるを得ないやうに仕組
んだのでありました.そして溝糊
は第二次軟洲敬弔がおこゎますと
希雌にアラビアに援軍を逸らせら
れ、更に大末輩数学には替地に、
†レIに、シンガポールに宰繰を
幾らせられたのであります.しか
L乍ら英戚で嫌州が得たもの妊、
柚民地か犠牲にし上うとする美的
の汝滑さとしかもその無力振りで
あつたのであわます。
 マレI沢延滞洲箪司令官ゴール
ドy・ベネットはシンガポールが
日本軍の猿故に宰えきれずと知る
や身が軍司令官であるに拘らず自
分の部下を見梁て⊥舟からがらシ
ソガポールを取出して支那ジャン
クに身を托してス†トラからジヤ
.ハを撫て、操山叩に到蒲したのであ
bますが、そのベネットは淋糊に
肝つて攻†レI取掛に放て、英本
国兵は嬢洲兵を襲に立たせて放は
せ自分ほその身の蛮全を倒つてゐ
たと憤搬し、美挙の製備と訓練

(肘)

は8本革に比し馨るしく劣わ到底
勝目はなかつたと穎告してゐるの
であわます。これに翳し、シンガ
ポールで我が伴虜とたつた英木頭
兵は「シンガポールの佑落を早や
めたのは硬洲兵であつた」と長嘆
点して
「†レー牛島から雪崩れを打つて
趨げ育つた濠瀬兵は旺にこの時か
ら軍紀も何も持たずしかも短度の
痩身と自暴栢粟の兇暴性を帯びた
烏合の衆となつてゐた。彼等をシ
ソガポール為に迎へ入れた後われ
われの一番大きな心配は礁淋兵を
いかにして概えず引締めておくか
といふことであつた.
 日本軍がシンガポールに上陸し
†二三日日にプキ・テ†と鶉腐敬の
兵鴇倉声を抑へてしまった。とれ
が一番痛かつた.防備平に配給す
ことは出来なかつた一懲等の兇暴
に怯える嵐持が強かつた●この日
からわれわれはシyガポールの萌
庸を断念せねばならぬと考へてゐ
た。」とこのやうに冨つてその放れ
た簡悶を浪渕共に聯してゐます.
 これが今の英国と渡矧の的確を
上く物語つてゐるのでありまして
一方イギyスのチャーチル首相は
「不充分な兵員と兵器なもしき常
正の敬繰に配放してゐたならばイ
ギyス野は軍に支離滅裂の敢軋に
陥つてゐたのであら〜し、日本海
革の猥珠確攻撃捷、太平洋放びマ
レT託海における海軍労力”搬勢
は英米の手上わ日本の芋に拶つた
ことを認めぎるを持ない.との日
本海零の鍵勢はさらに太平抒滑梓
の横間に東大なる打撃を輿へるで
あらうととを計算しなければなら
ない」
 と諾つて到耗葵本囚から薩糊を
軌けらわぬことな述べれば、樺桝
首相カーチソは
 rアメ9カとイイyスは飴転宅へ
てかゝらなければ従来のやうな傍
mて正義では繕洲はとてもやつてゆ
けない」と冨つたのであります.
そして英不図の防衛には濠剤の防
棚こそ鴇山瀬であると喝へ、北ア
フリカ戦線の操洲兵の引上げと英
本流の救捏を確叫しましたが、何
れも英本周から一蹴されまLた.
 これに悦概して、硬洲は米国に
来り移ら〜とするに至りましたが
米励も亦口先丈で済糊を竣助†る
恍カなくこ1に硬榊は今宮のやう
に狼洞し、去るこ一日に結カーチy
ほ次のやうに並べてゐる有様であ
h/ます¢L即ち
「今や僚洲は白岡領土で敵を迎
 へ打つべく極めて矩期間内にあ
 らゆる騨鮒を賂へねばならね。
一、敵が慄桝海岸に取付〈ならば
 「矧■一軋−
 聯合軍が攻勢に出てこれを撃止
 することほ閃翔なものとならう
l、浸湘は斬合間に依蛸してゐた
 が、今や宵力で飼土を柁守する
 ことが絶盟に必要となつた。
 と冨つてゐます。その雷やまこ
とに悲痛なものがあり考†が、も
ともと英国や米掛におどらされ、
しかも喋理をつ〈した東條楷埋大
臣の輩切に徒はなかつた天罰とい
ふペきであわます。
 誉ことに物事の名相と歴史の必
仏とを見失つた政治家に支配され
ろ破仰削人の不革といふべきであり
ま†が、Lかしこれ蛙葵珂人硬湖
を亜知髄の苛川として広く亜納変
人に開放すべしとの天意と見るべ
きであbませうP (三月五日救挙