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シンガポールの陥落と国民の覚悟 情報局次長 奥村喜和男

 待ちに待つたその日は遂にまゐりました。一億国民が、今か今と期
待いたしてをりましたシンガポールは遂に陥落いたしました。ジブラ
ルタルよりも、マルタ島よりも、更に堅牢にして金城湯池、難攻不落
を誇つたシンガポール、過去一世紀以上に渉りイギリスの東亜に於け
る最大の牙城でありましたシンガポールも、今やわが軍の占領すると
ころとなりました。その紳速、その巣敢、まことに大御稜威の発光、
搾たりと申さねばなりません。而も転元節の位き日に、市待の一角に
突入し、デキチ†の高地に日章扶を打ち打てまして以米、来る臼も来
る日も、遠く熱樽灼熱のもと、閑家興睦の軽命を双屑に鴇ひ、砲縛の
炸裂ナる中を、.物ともせず、肉翔又肉沖、突撃又突撃、文字油り血河
屍山を現出して、逸に穂督官榔とセレタI軍港上筒く日の丸の闊旗を
研すに至り、こゝにシソガポールほ畠軍の完全に占傾するところとな
りました。我々は天癖紳助の恭けなさに有難き感徴を党ゆると兆に、
忠烈弟武なる牲海bの賂兵に托く常を垂れて衆心戚謝を窮する次約P
あbます。さきに香梅略ち、次いで†一ニフは格落し、こ1に米英の東
正に於ける三大披粘は根抵から窃減されるに至つたのeあります。開
取以氷蟻かに七十8、この織々たる職果は盟邦掬伊の敢闘と柏侠ちま
して、梶軸駒側の餅利を決定的にするとともに、壮非新秩序の碧現を
蔭上不枚のものたらしむるに至りました。これに反しましてシンガポ
ールを失ひましたる米英の打撃ほ、まさに数命抑なものがふるのぐあ
りま†。由来シンガポールはその鰭れたる地埋上の位饉に上りまし
て、古代から泉四交泡の要衝に普つてをつたの¢あゎま†。印ち】方
には印托洋から太苧洋に滴ずる鞄門に普り、他方に於いては、フ√
リッヒソ、腑印串の南洋籍島と漢洲とを頼北につないで、これまで破
亜地中海朗と呼ばれ今や大東雄海と呼ばれんとしてをりまするこの海
洋幽の頂粘に位してゐるのごあむま†。従つてこの土地を占めたもの
は、畢に頼洋を支配するのみならず、印度洋及び西頼太平洋までも繁
配することが出来たのであります。
太平洋から†ラッカ海映を経て印耗洋及び地中海につらなる海洋ル
ートが所謝世界史南方通路として、古代上り求西交泡の唯一の幹線と
なり、柄方泡路を玄配するものは世界を制すと謂はれた所以も、こゝ
にあるのであbます。しかも治岸熱鞘地方の兜富な賓汝は、この泡路
の忍弊性を益丁決定的なものとした.のeありま†。
その碇れたる地理上の位旺に加へてこの触出械の賛仙、これが帝方
泡路薙いてはその申心であろシンガポ」ルに世界を決定する力を粥へ
たのeあむま†。かやうな南方泡路の定歩性は、勿漁古代から知られ
てをつたのであJまして、今から約一千年前わが平城天皇の坊三岳
子耗如扶叔王は、梯数の践髄を求められまして支郷から更に印度に向
はれる塊中、耗趨閥郎ち今日のシソガポール附妃にて、求道の御志も
尭しく糾かくれ上なつたのでありま†。またわが入幡舵儀がこの地方

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にも感んに渚描致しましたことは、今日樹バハゾとか.ハyタク.ババ
y等の名粥となつて耗つてゐるのを見ても明らかでありま†。西暦十
三世氾の宋、錐辞瀾を淡つて造に支那にやつてまゐりました彼のマル
コ●ポーPも、鰍洲への絆金はこの南海を漁つたのでありまして、中
せに於ける丁ラビヤ人も、との地方を樫て南支那に入わ、茫に十六せ
紀初硯に於ける欺栄人のアジヤ侵入も、この地に始まったのでありま
す。
このやうに†レー牛島の梢鳩部節ちシソガポール附近は、漁史的に
も地攫的にも桓めて欝蓼なる性格を推持してまゐつたのであ袖ま†。
しかしながら、シソガポールが白由貿易砲として、また宰港どして今
日のやうな持殊な地付を持つに繋つたのは、十九惟紀の初めイギリス
の傾有以後のことでありま†。
十入他妃に於いて略々印度傑柿の基硬を完成いたしましたイギ少ス
は、一七入六年にベナン島を和収したのな初めとして、】七九五年に
はオラソ〆を沸して†ヲッカを占協し、泣に十九慨妃に彗つて、次幻
に任略の牙を文に向けたのでありま†が、恰度その頃イギyスはウイ
Iy禽購に上つて、了フッカをオラソダに返遺いたしましたので、そ
れに代る嫌粘を求めるためにも、恰好の基地を必bとしたのであゎま
†、その時、常時ス†トラ島のベyクーレソの刷栂督でありましたス
タン7オード●ラッフルスといふ兇が、シyガポール島に眼を帝けま
して、常時その島の領有者でありましたジ.ホール王から、殆んど無
代に等しい億段で買ひ堀つたのでありますが、これが今日の葵髄シy
ガポールのはじまりでありま†。儀架苫ニ†十年、その聞イギリスはあ
らゆる弾酪と貯靖に上つて周朗のサルタyの囲を或は頚塀し、或ほ保
欝として、盤に成縛アジヤに於ける今日の斬帖を純立したのであむ
ます。ヲy’ルスが初めてaソガポールに上鳩したのは一入丁九年の
りとでありますが、かの一入四〇年の阿片取寧を契機とするイヂyス
の支那侵略も、・しのやうな南方の制駐を背救として行はれたものであ
りまして、シソガポールを占飯したイギyスの意軌は、すでに畢なる
南洋の支配を轡えて、この地を印度から支那、及び諌淋に及ぷ全地城
の中心地たらしめることにあつたことは明瞭であbます。しかもこゝ
にわれくが君遥してほならないのは、イギyスのこのやうなアジヤ
安配は、一両に於いて最初の聞は常にPシヤの南下政鴇を牽制する目
的を以て行はれたのでありま†が、8#取争に故いて日本のカに上つ
てPシヤを披くことに成功致しましてからは、こんどは新しく丁ジ†
の強閑として現れた8本針包朗駈迫することにその全目的がおかれて
衆たといふことでありま†。
このやうなイギyスの日本駁迫ほ、すでに日帯敬申の直径から始ま
つたのでありますが、それが官に積極的になると同時に、シソガポー
ルが軍穐として驚均し始めたのは、鴇妄ハ練州犬敬後のワayトソ合
執以後のことであります。常時のワシソトy禽鎖に於いて、イギりス
がアメリカと合作して如何に日本の鮎迫を企てたかは周知の滴bであ
りま†が、同禽講に於いて盤出された西太苧洋防賓桝状推持案に上つ
て、わが圃は帝洋詣島は勿論、千島、小怒原、琉球、竃滞に於ける肘雫根
鳩地の斯設もしくは締充を禁止されたに封しまして、アメリカはフィ
リッビソ、グアムをこの制眼外におき、イギリスに至つてほ、太平洋
の西の眼界を東樫盲十度と現定いたして、巧みにシソガポール牢槌撞
詑の自由を鞄得Lたのでありま†。果梓盲十庶といふ太苧拝の阻非
は、地理挙的にも何らの理由のないことは軸†までもあbません。そ
の椛鼻、その欺鴨は正に皮†べかbぎるものがあつたのであh・ま†。
かくて十ケ年址町彗、千五宵鈍噛といふ施大なシソガポール鞄城糸が
イギリスの払叫▲骨を地泡いたしましたのは、日本の手出へをもぎ眼つた後
の、九二三年勒ち大正十二年のことでありま†。.その後十五年間に亙
つてシンガポール鞍仙幡の竣設は逸められ、昭和十三年に至つてこゝに
央秩鞄、へ少イニフンド、ジプラルタルと炎に惟界出大弊盤と桝される
恩の梅シンガポールが染生したのでありま†。
大耶鮎シンガポールの出艶は、鞋にイギリスの女虚に於ける維りを
嘲くしたといふだけでなく、イギyスはこの欝砥の眼力とカ習威に十〓
分にものをいはせて、周幽の稀嗣飢即ちタイ、ビル†、彿印、仙開印、フ
ィyッビy、辞洲更には印拝をも堅くその詠鶴下に紳りつけることに
成功したのであります。かくしてシyガポールを申心として、タイ、
ビル†、併印、恥印、フィリッビy専を外腕自額陣地とするイギyス
の沌大な戦略地城が作られたのでありますが、それが今次大東亜駄申
勃賛の直前に稔いて、所謂▲おOD包幽組となつて現れたことは皆様
の御承知の泡むであります。
しかしayガポールが周鞠の緒弼をこれだけ引きつけるカを濁って
ゐたのは、その軍耕的なカだけではなく、貿易穐としての軽済カも大
いにカとなつたりとは勿論であります。かyガポール餞有以衆、イギ
リスが最もカを湖いだのは、このシyガポール【の軽済カの柄葛であり
まして、今日錫及びプムの幕非生壷鋭の入倒乃至九倒を占めるマレ
I、簡印、タイ、ビルマ等帝方の中心地として、その藷物の輸出入を
硫占するシンガポールの綴済力は、これら朽方汚図の柁命を制するに
足るだけではなく、その輪川喪物が錫、ゴムのやうな南洋特産ともい
ふべき侶在的資瀬であるために、・これを籍外国に供給するか、せぬか
はイギyスの勝手であわまして、これに上つて特定の園を威嚇するこ
とも傾薮することも出衆たのであります。
かうして地瑚的に・もまた腕兇酌にも鍵れた佗ぼを。伴一冴されたこの地
方は、吏に革料的、樫済的鱗カを加へて、こゝに世舛撫双の紫欒を沖
るシンガポールが生れたのであります。しかしこのや・りな靂が」す
べてマレI人、印度人、支那人等のアジヤ人の趨鵬な犠牲と悲哀の上
に塾かれたことは申すまでもありません。それほまことに、.南の海に
妖しくも咲いた慈の花以外のなにものでもないのであbました。
しかも今や搾収と欺瞞の港シyガポールも格落致しました。これに
上つて受ける英米の打轡は萱し想像に飴わあるものがあります。シy
ガポールが世界史南方通路の要地として抱大な役朝を持つて来ただけ
に、これを失つたイギリスの釘撃ほ正に汗刻であります。それほささ
に香稚を失つたイギリスの東亜からの最後的後浪を煮味するのみなら
ず、濠洲はもと上わ、印度の混軋動結も不可避であります。一皮印度が
漁減せんか、その時こそイギyス帝園減亡の時でありませう。何とな
れば印度こそ、イギリスの心臓ともいふべきものだからであります。
今や印度洋への脅威を直壊に受けることゝなり、搾収の抒侍印庶に致
を擬せられたイギリスの狼択は想像に抱するものがあります。
一方今次敬学の濫前まで、錫、ゴ▲等の定嬰賛漁の大牛をこの地に
仰ぎ、その故にまたイギリスと不可分に枯ばれてをつたアメリカの受
ける打撃も亦甚大なるものがあります。†レI封外輸出の過牛を掬占
してをりましたアメリカにとつて、シンガポールの喪失は軽済的には
或はフィリッビソを失つた上りも切頸なものがあると考へられます。
鞋宵な天然賛腑を持ちながら、偶然にも錫とゴムだけを快くアメリカ
恋紫殊に、自勤革工柴その他のま貯藍韓が、別推を氷た†のは駒かで
あります。

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さきに香鴨及びマエラを失ひ、いままた最後の研昭たるシソガポー
ルを失ひ、−〕1に束亜に於ける僕略墟鮮を椴こそぎにされた米英ほ正
に崩壊の前夜にありといふも過雷ではありまサん。−方アジヤは米英
の敗浪とともに、日】日とアジヤの丁ジヤとして輸かしい睨興に向ひ
つつあります。まととに天なb命なりと申さねばなbません。
しかしこ1に」育申し上げておきたいのほ、アジヤの聯故は、噺じ
て共米的廿秩序の再掲を軒すものではないといふことであります。拍
良族の掬立解故と申しましても、.東條杷理大臣が過般、執曾で宜音い
たされましたる如くそれはあくまで萬邦をしてその耶を得せしめ、兆
民をしてその堵に安んぜしめることを本慣とするのであり息す。彼の
英米流の和水概念軌ち民族自決主義に基づく名ばかゎの欺瞞的拘立と
は全く鈍なるものであることを銘氾しなければならないのでありま
す。丁ジヤの僻放といふも、民族の摘立といふも、すべては大御軽
威の脇でありま†。瀬亜新秋序の建設、穎架禿炎蕗裔の俺立のための
和紆架ほこのことに封する明沌なる諷紬を基鍵としてのみ初めて考へ
られるべきであります。それは大御稜威に上るアジヤの復興であり
ます0もともと7ジヤは〓ノでありました。犬蜘稜威の下、再びア
ジヤほ「つとならねばなbません。
一千年前の混帥法釈王の御渡航を初め、マレI竿島に今も残るバハ
ソの名は、古代以水、日本と梢海との密披な閑係を充分に語つて飴り
あるものがあります。この戊のシソガポール政路部蝕が、馳革の尖頭
に「八怖犬著薩」の旗をなぴかけ●ながら、流れの如く帝下した椛姿は
そのかみの樽統と発光を今に松ふものとして、まことに感激描く能は
タWるところであります。
いま皐申の占餅するところとなりましたシソガポールには、勇士の
翳す「八晦大菩藤」の水が、六首年の恩をこめて、はたはたと桝つて
ゐることでありませう。そして蛮からは、天盤に充浦した入略船の英
墟が、蠍呼してこれに喝へてゐることであbませう。まことに想ふだ
に「御比われ」の麒数を琴えるのであbま†。「アジヤは】なb」こ
の塙激の従るところ、シyガポール狩に近くエスプラネード簡場に饗
えるかの琵略王ラヅフルスの銅像の代りに、我が屯如法親王の屯称が
小み
何らかの形でつくられるのも速いことではないでありませう。その管
の入怖船の英髄も、そしてまた渦絹鬼畜にも等しいイギyス官懲の迫
濱と侮辱に頂を寄んで引換げたわが同胞も、今こそ報いられる秋がま
ゐつたのであります。
℃かし職ひは寧ろこれからであbます。かむそめにも香穐、マエラに
次ぐ−しの度のシソガポール格落に上つて、馳局はこれで一段落と考へ
るやうな−十とがあつてほなbません。世界新秩序の完成を頼操の目的
と†る大東怒吸牢は、決して叫局地の占領に上つて済むものではない
一のであります。米英打倒のためkは撲州印度はおろか乱性地域の存梯
ヽハく一一
する限り、世界の錘に焉るまで、この天照らす犬御敬は池められねばな
らないのであります。鎗にシソガポールは陥落致しました。しかし陥落
といふこの】片の晋鶉の中に、如何に多くの殉忠の犠牲が沸はれたこ
とでありませう。畢なる決死を趨えたこれらの英感は、マレーに、シy
ガポールに、章と散つた後に於いても、今伯ほその魂触は止つて、未だ
に敬ひつゞけてゐるに堪ひあbません。それと共に又、一タ.ハル上陸
以来七十日の長きに捗J繊をも熔かす炎熱の中を、洗歓も沌はね帝林
の中を、蜂をも没†る泥浄の中を、生免を的に岡ひつゞけて、シソガ
ポール迄の一千数官キ甘の長塗を蹴散らし、彗租b、或は傷き或は頓
友の尿を趨え、或は戦友の形見を陶にして、今は鞋靴の管も馬らかに、
シンガポールの相輯へと線b込みつゝある特▲兵の塀苦は如何ばかゎで
あbましたで叶う。思ふだに日粥が熱くなるを党ゆるのであわます。
これを懲ふ噂、ど・つして我々は一時の倹安を頸ることが出来まけ
う。駒内に印まつてゐる溌々ほ、どうして取齢にりみ酎つてゐること
が山…架ませうq
暇ひほ旺にこれからでありま†。
輿くも本年の飲御粛始の御動には、
峯つゝきおほふむら襲ふく風の
はやくはらへとたゝいのるなり
と詠ませ紛ふのであります。「はやくほらへとたゞいのるたり】と
仰、げられた覿旨の畏こさ、たゞ恐悩あるのみであゎます。私連ほこの
研敵の程を鞋く群しまして、更に習鞄敢朗、出托せずばやまぎる決恵
を斯たにし、以てひた†らに大榊心に腔へ軒るべきだと存ずる次妨で
あゎま†。ご】月十部日於ぎ