マニラ占領の意義 情報局次長 奥村喜和男


 大東硯教学勃教以来、煙かに十入日にして香礁は格落いたし、今ま
た米国東敬佼鴨の汝搬たる了二ヲは、わが碍の完嘉†るところと
なりました。疾風払層、皇宰の向ふところ†でに敵なく、大丈亜敷設
の大業は、ヒーロとその下鶉のE歩を進めてをり普す.
 この取恭、この杵築、これひとへに、御授戒の然らLむるところで
あbます。さきの〆グアオ陥酋に次いで、このたびのマニタ占領に上
むまして、もはや全フィy’ビンは、制鮎されたものといつて上いの
であ勺ます.
 皆さんの中には、ブイyyピンといへば、アメリカのものだつたら
つといふふうに、梯分青からお考への方が或ひはあるかも知れません
が、これは大きな脚葺であつて、アメリカがフィyyビyを占餅した
のは、明治三十一年のことであり、併有以来僅かに、四十年にしむな
らないのであります¢その前は、スペインが占倹してゐたのでありま
す。
 スペインが了〓フに政患を開いて、全フィリ,ビンに材をとなへま
したのは、今から恰些二宮七十年前の、畠ニニ≡一年、すなはちが
正親町天畠の御代、足利義昭の時代であゎます。
それ上り五十年駒に、かの最初の世界一周で有名なる、スペインの
†亨フンが、初めてフィリッビン為に欝ぎ、この地で馳死を逸けまし
てから、スペインの比島餅有料は款鮎に晶まり、l茄削二年に繋つ


て、スペイン政府は、ビラPボスを醸長にして、比鳥遠征除を沢超し
まLた。ビラFボスは泣大なる志を抱いて、翌年レイツア為に上陸Lま
したが、来いまだ年金にして、病に粘れました。
 今日のフィリタビンといふ呼び名は、礁が、常時のスペインの皇太
子フイソップの名に均んでフィリップナと名づけたのに始まるのであ
ります。それまではルソン鳥とかレイイチ島とか、そわぞわの島の名
に上つて呼ばれてゐたのであります。今日すでに、フィリ,ビンも共
栗園の一男として、その両日を改めましたる以上、この名持について
も、再輸川村を辞すると考へるのであります.
 また今日の世界の臆史では、フィリタビンの頗史は、マゼラ/の狸
見から始まるものとされてゐるのであゎますが、それは卑に、西洋人
が藷見したといふに止まり、それ以前上り、これらの島々は馬として
一存在し、しかもわが日本と、上代上り蹄壊なる剛体にあつた亡とを、
銘記すべきでありま†.
 さてブタPボスが病死いたしました後、スペイン政府は、新たにレ
ガスビをフィyyビン侵略笹の司令官として沢出し、つひに一五七一
年に至つて、比島の完全征服に成功したのであります。それから三富
二十徐年間、比島人の抱えぎる蛸簡と反抗にもか1はらず、それを意
く和匪して、スペインは「架洋の鴎珠」モいはれるこの契Lい島々の、
弘郵と掛取とをはしいま▲しましたが、一入九八句、†なほち明治≡
ヽ.ノ


′.ヽ

十一年に至り、米西戦争の結果、これらの島々は、挙げて新しい侵略
者、アメリカの奪取するところとなつたのであります。
 南北戦争も終り、一応国内の安定を得ましたアメリカは、その後、
海外に植民地を獲得しようとして、予てより虎視眈々としてをりまし
たが、殊にカリブ海のキューバと、太平洋の要地に位するフィリッピ
ンに眼をつけ、機到ると見るや、突如としてスペインに宣戦を布告
し、植民地獲得の目的を達成したのであります。かくのごとく米西戦
争は、全くアメリカの利己的な野望に端を発したものであり、何ら正
当な理由のない、無名の侵略戦争に過ぎなかつたのであります。
 しかも、アメリカがフィリッピンとグアム島を占領した一八九八年
といふこの年こそ、実に、かの三国干渉の後において、ロシアが遼東
半島を、ドイツが膠州湾を、イギリスが九龍半島と威海衛を、それ
ぞれ支那から強奪的に租借した年であり、正にその翌年には、フラン
スが広州湾を租借したのであります。
 かくて、日清戦争後の国力の恢復充実に、専念せざるを得なかつた
日本の油断に乗じまして、ヨーロッパ諸国が、支那侵略をほしいまま
にせる時も時、アメリカもまた比島を得て、東亜の拠点を獲得するこ
ととなり、ここに欧米の侵略勢力は、一団となつて、アジアを席巻せ
んとする勢ひを示したのであります。中にもイギリス及びアメリカ
が、その後日露戦争、欧洲大戦を経て、満洲事変に至るまで、いかに
非道なる圧迫を日本に加へつゝ、他方、東亜の植民地化に努め来つた
かは、ここに改めて申すまでもないのであります。


 しかしつひに、アジアに黎明を告ぐるの秋はまゐりました。満洲事
変後、支那事変を経てここに十年、アジアの光日本は、膽を決して蹶
起したのであります。今ぞ彼等米英の過去の罪業の上には、降魔の聖
剣が揮はれつつあるのであります。すでに香港は落ち、今またマニラ
を占領いたしました。香港がイギリスの最大の東亜拠点であつたと同
じく、マニラはアメリカの最大の東亜侵寇基地であり、相次ぐこの両
者の覆滅によつて、東亜における米英の勢力は、その根拠地を失ふに
到つたのであります。
 御承知の如く、マニラは、その近郊にアメリカアジア艦隊の基地と
して、シンガポールと併び称せられるカビテ軍港を擁して、永くアメ
リカのアジア前進基地としての役割を持ち来り、また最近において
は、太平洋クリッパー航空路の重要接続点として、重慶との連絡に、
或ひは援蒋物資の輸送に、活躍をつゞけて来たのでありますが、これ
が陥落は重慶政府はもとより、すでにウェーキ・グァムの両島を失へ
るアメリカに与へる影響は、蓋し甚大なものがあるのであります。故
に、さきにハワイ海戦に大敗を喫したアメリカは、いままた脆くもマ
ニラの陥落によつてい上い上条世界に鼎の悼宅を弼はれること▲な
り、彼が股肱と悼む中南米粥阿の信鋭を、失艶する一方、また丁メリ
カ匪民自身の勅格も、ますます激化†るに至るべきほ明らかであるの
であゎます。    、
 しかも、正にアメリカにとつての打撃は、これに上つて、錫・ゴ▲
専の定黎賛漁を擁する、南方許地方との交流モ最後的に切晰され、
璧阿的に、完全に、日本に上つて逆封鎖されるに撃つたことで、今抜
アメリカ挺沖が、敦速に混乱の乾を深めるであら与ことほ、容易に怒
像されるところであります。
 しかし、▼三ノ占髄の日本にとつての患幼ほ、掛にかかる軽靖的意
ヽノ
・▲−

′ヽ
義のんに止まら†、更に壌大なるところに求めわばなりませんu
 †なはち、フィリッピンは、このたぴの占領に上つて、初めてわが
日本と、直壌の睨係を緒ぷに糞つたのではなく、濠くスペインの伐咤
q約の上代においては、わが、日の本を中心とする、庵大なろ太平洋
黒潮文化鞠の一翼として、かが岡と永く頸壊な槻係にありましたし、
官に陣つて、スペイン倖鴫後においても、徳川初柑に至るまでは、日
本人のフィクツビンに在佗†るもの≡千徐名を数へ、その聞、過日畠
革が大挙敵前上陸いたしました、リンガエン紀その他には、いはゆる
「日本の沌」を、マ■】ラ近郊には日本人叫を築き、また文殊二年には1
役の襟大関がフィジツビンのスペイン長官に宛て1、痛快なる降伏蜘
含状を遜るなど、全く、周囲は不即不離の粥偶にあつたのであつて、
今由比亀住民の血脈の中にほ、多かれ少かれ、これら日本人の血が凍
れてゐろのであります¢
 これを惣ふとき、比島ほ、このたぴ初めて皇化に浴するに彗つたの
ではなく、かつては太平洋黒潮民族として」ともどもに繋奨を潔ち合
ひしものが、ご二日七十年にわたるスペイン、及びアメリカの留略か擁
て、こ1に再び勧桂威に上り、元の枝に復締†るに彗つたものと申す
べきでありまして、まことに御何塵に堪へないのであちま†。しかL
て、ここにこそ大東正敏牢が、大梨惧弘のための世界維新馳たる、托
の意義が存するのであります。
 もはや比鳥人は、スペイン人でもなければ、アメリカ人でもなく、
われわれと血を同じくする同胞であります。今日、四十年のアメリカ
支配に上つて、魂までアメリカ化された、不拳な此廃人もあるかに見
受けられますのは、まことに泣憾でありま†が、今後、これらの人々
にたいして、、18も早く、アジアの民としての自党を喚起すること
こそ、わが舶憑挽の最大の励めに外ならぬちのと、府伺いたす末節で
あります。
 マニラ情落の報は、ひとり米囲に湖り知るペからぎる打止野を弊へた
のみでなく、英圃にも甚大な捕壁丁を加へたのであります.スエーナシ
閑の首都ストックホルムから、先頃情報局に達しまトた;ユースに上
れば、一=lラ旭唱落近Lの報が、ロンドンに凌Lますや、ロンドンタイ
ムスは、「マニラ陥洛の意喋†ろもの」と揺する此孜を渇けて、寸二lラ
桁蕗は、Å乃CDの封H包幽件の器官上の崩壊亡あり、これがaンガ
ポール防衛に及ぽ†彬響は昭ろ頂大々りとして、悲鳴を挙げてゐるや
うであbます。また今餅東口せられまLたロンドンタイムスは、か与
雷つてをりま†。
 「先の香港陥落に酋つて、われわれはその結果、フィリγビンにお
ける8本の作扱が著しく進むであらうと幣測したが、果してこの漁想
は的中したu甚た不率なことだが、われわれは再びこの瀧意を繰返さ
ねばならないいすなはちフィジyピンの唸落が、日本軍のシンガポー
ル政略を大いに進抄せしめるだらう。この悲Lむべき現出を目前にし
て、hれ_れはあらゆる可能な手段をつくして、シンガポールを死守
せねばならないU フィリッビン略…終に上つて、いはゆる封臼匂輿陣ほ
串繁上析地し、騰るに茶地なく、逸るに海騨なく褒難なし、といふ現
状である。もL日本にして、シソガポール攻略に成功せんか、日韓蹴
は担小印太平址什中程ひ、大共和国は蛮前の危機に頓同するであら与巾今
こそイギyスは、その泣身り力をふろつて、シンガポール仇衝に死力
を適さねばならぬ秋である」
と、かう叫んでをりま†9悲胤な築き、戦び行〈もの▲鵡Lき叫ひと
申さわはな巾ません0



 過去二百年間、世界を思ふまゝに支配した英国、その領土に太陽の
没することなしと誇つてゐたイギリス、しかも大東亜戦争勃発の直
前、宰相チャーチルをして、「日本がルーズヴェルトの要求を甘受し
なければ、米国は直ちに日本にたいして宣戦を布告するであらう。そ
の時こそ、英国は一時間以内に、決然参戦する」とまで豪語しその
英国の、しかも世界第一の新聞として自他ともに許したロンドンタイ
ムスともあらうものが、かやうな弱音を吐いてゐることを知るとき、
われわれは英国の弱きを憐む前に、祖国日本の力の偉大さに、めがし
らが熱くなるのを覚ゆるのであります。日本は強いのであります。断
じて敗けることのない、必勝の国であります。この強大にして且つ必
勝の国日本の国民たるものは、今こそ、醜の御楯と奮ひ起つて、克く
竭し、克く耐へ、雄渾深遠な大東亜戦争究極の目的完遂へ、粉骨砕身
し、以て大御心に応へようではありませんか。

(一月三日放送)