香港陥落の意義 情報局次長 奥村喜和男
敷島の大和心のをゝしさは
ことある時ぞあらはれにける
明治天皇の、この有難き御製の訓し給へる曲りに、畏くも、宣戦の
大詔、渙発せられまするや、吾が忠勇義烈なる陸海軍人は、陸に海に
空に力戦健闘いたしまして、大いに威武を中外に宣揚いたしました。
これ全く大御稜威の然らしむるところでありまして、只々感激の外は
ありませぬ。
英国の百年の久きに亙る、東亜侵略の拠点であり、支那征服の牙域
でありました香港も、遂に皇軍の猛攻によつて陥落いたしました。大
東亜戦争の眼目たるアジア復興の前途を祝するに足る、意義極めて深
遠な一大戦果たりと言はねばなりません。われ/\はこの香港陥落の
報を、新しきアジア甦生の暁の鐘なりとして心から慶福すると共に、
ビクトリヤ山上高く日章旗の翩飜と飜るを仰ぐまでには、幾多の血を
流した皇軍将兵のあることを夢にも忘れてはならないのであります。
私は今、国民各位と共に、これら純忠の英霊に対し衷心感謝の念を
捧ぐると共に、香港陥落の意義を茲に語つて見たいと存ずるのであり
ます。
英国が香港を掠奪したのは今から恰度百年前に当ります。当時イギ
リスは広東貿易によつてインド産の阿片を多量に支那に輸出て莫大
な利益を挙げてゐたのでありますが、輸入の殆ど半分を占めてゐた、
この阿片のために支那は夥しい銀を流出して、ために財政の窮乏を来
したばかりか支那人の健康は著しく害される結果となつたのでありま
す。
これを見兼ねてをりました清朝の皇帝宣宗は、度々阿片の吸引を厳
禁しましたが、イギリスの貪婪な貿易政策のために一向はか/"\しい
成績を挙げることが出来ずして、却て年々阿片の輪入は増大する一方
でありました。こゝに於て流石の清朝もこの上は阿片を支那に持つて
来る張本人イギリスに対して直接の強硬手段を採ることを決心し、後
世支那にこの人ありと謳はれた広東総督の林則除をして英国の商人が
貯蔵してをつた二万二百余函の阿片を焼き払はせました。
これに対してイギリスは、最初貿易を停止する等所謂経済圧迫によ
つて支那を脅かしましたが、それでも效果がないと知るや、直接暴力
を揮つて舟山列島、寧波、上海、鎮江を相ついで陥れ遂に支那を屈服
させて南京条約を締結いたしました。この条約によつてイギリスは福
州等五港を新たに閑港させた汁に、杏港を刺破きせ王した。
これが一八川0叫から榊二年に及ぶ阿片敬申であります。・そ叶は慈
虐抑まりない英帥侍略虹上に於ても、インド位略と兆に故も恥辱に沌
ちたものでありました0糾ち余くの鮨名の敢替であるのみか、域換に
於て阿け貿易ほ以齢にも樹し盛んになり、達には文那政船に阿け籠入
を公々然と総めきせたのであります。
阿片蛾苧1そ入瀬史↓に最大の汚鮎を止めたものとこべ・せであ
る。このイギ,スの無汝さ庚般りについては、嘗のイギりス人色身の・
糊にきへも懲々たる枇雑む悌したほどであり王して、後に大宰相七キ
リましたかの〆ラツドストンの如きは萌噂読曾に於て、故肺にそわ貴
任を鸞州したのでありました0・枇はか●つ首つてをります。「人済を無祀
した咄替にょつて堆符した利符を沓々は溌ぷわけに仰いかない。アジ
アの油梓・し椚へるユ1;ンジヤツク山兢の前にはイギyス人は睨を掩
はねげならね」と叫んだのであります。
ヽ′
∧U
ヽ一
′ヽ
しかし笛咤のアジアは、か1る暴カを附血するには飴りにも鶉カで
ありました。女那は勿論アジアの他二の棒みたるぺき日串は、土符車
椚なる仁孝大亀を叔きながら、幕晰∽義速なる銃凶政節のために手亀
の色由を封じ毛られてゐるのでありまナ。
しかし混赫の抑鵬にも拘らナ、常時ナでに特邦に洩る壊爽の脅成に
R允めて、日本の大アジア「の汲腺を、私かに所り且つ希求する俵れ
たる壌つかの魂は烈々の栖を燃やし約めてをつたのであります。
印ち大艶平八郎は大阪に狭を拳げ、液速撃山、高野長英は描へられ
モに常坤依々たる布府の銑姐政解に鰊らす、大舶鐘造の解渋を建訣し
た水戸舛噂公は似居絆憫を命ぜられましたが、これらはすぺて阿片域
争前後のことであつたのでありまナ。
阿片耗争後、非人造なる阿片貿易は一骨黛発したばかりか、イギy
入はその料県として更により大きな牧得、軌ち香港を獲得したのであ
りまナ。かくて番港こそ、狗りアジア人のみならヂ、金人類の永勃に
志れ得ぎるかの無恥璃虐なる阿片蛾争の、最も埼的なる紀念物であつ
たのであります。
番港を郵収してから、イヂ,スの蛍那偉略は急速鹿に池浪いたしま
した。香港組督は丈那探髄として、政治的に経済的にまた宰事的に仝
支那を箪也して立那使略の中心となりました。イギリスは零穐を瑞奪
した時批に仝支郡に亙る伎略の郷桝を約求きれてゐたのであります。
何となれば、番港こそは、文那の易の奨にも比すべきものでありま
して、沖南のこの一鮎を執専きれることによつて粂文那は館に浮いた
も川然となつたからでありまナ。この鮎きすがにイギyスは急併を知
れるものと首はねばなりません。かくてすでに崩の灘を.黎収したイギ
ヮスは、それ後鉱l盈成を坪ひ、アPI娩といふ英閥の固雄を鴇げた
舶から十二斬の丈那舶貝を丈那甘態が拉政した蹄件、伽ちアPI絆串
件をきつかけと致しまして、香港封#の九稚の一榔を封さきせたので
あります。
かくて香港は外廓地を獲て愈1強倒となる一方、イギyスの使略め
爪牙は、政治的に縛済的に按々乎として仝丈に及びましたが、その徒.
日済戦争後の三均干汐によりましてフランスが虎州滞を租辟するに垂
つて、イギyスはそれに対銃するためと科して繁に九瑞の九十九せ年
租倍梶を符、こ1に香港は、弦那便略嫌むとしての地位を克成いたし
たのであります。
他方日清職争律の支那の痩弊に来じまして、九稚身租備したる外、
更にイギyスはPシアの放順租借に#口して戚海柵を租頻いたし、あ
くまで安那女配想多を数へることに腐心いたし‡した●
その後、民帥革命後の支那民狭乾動の昂鎗に際曾いたしまし、てっ−
九二五年五月三十日の上海に於ける支那人と英人与の術突♯件、.英桂
砲準事件、吏に一九二七年、むち昭和二年でありまナが」蕗ロ、九江、・
銑江の英租非拭力占償者件等金支に輿つた軌烈なる紡英勲の.ために一
時英拷の支那勢カは危鎗に瀕しましたが、盤狩なるイギ,スは巧に肴
和政紫に特じて賭介石の甫演政府を怯柔し文那の矛先を日本に向けき
せたのであります。斬托財閥む妓介とする賂介石とイギリスとの泡せ
は最早不可分のものとなつたのであります。
ヽノ
ュ
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かくては昭和六年の浦洲串襲も、たゞイギyスの受那頒動に役立つ・
のみとなり、その後英人り∫スPスにょる支那聯例改革を横として、
イギyスは仝支那の死命を宰擁すること1なり、蒋介石軍はこの時す
でにイギタスの耗扶地前衛即たぞ&鉦命におかれたのでありまナq
か・.、て昭榊十二埠七月、安郷耗日輝を手允きに持己の官坤に亙ろ立
耶女郎糠を雑挿せんとする他くなきイギyスの野柴に封しまして、麦
那串班は正に晩るべくして勃薮したのでありまナ。支那革襲勃竣の常
初より、それが堺なる日女卒班に非すして、兵の紋がイギyスたる‡
は億りにも明かであつたのであります。
モの後四年有牛、達に昭和十六年十二月入日に垂つて、長くも火相
が換救甘られて、我が封米英域節の火糞は切つて落きれた。
しかも槻蛾一日にして、天幹、上海等に魂存した一切のイギリスの
樵盆は納拭せられ、琴城せられ、今や裔港ひ臓落にょつて、イギヮス
は先粂に女那大陸より餅蕗きれるに東つたのであります。
女那のため、アジアのため湘に寄ばしき隈りでありまして、これを
こゝに重らしめたるに、日淋人としては心から萌餅を吋ばぎるを樽な
いのであります。
思「ば阿片蛾争後正に首年、イギyスの文淋倭略の氾念物ともいふ
べき杏港の的洋は、イギりスの女那支鮎の捗来を意映するのみならず、
モに帝港が、ジプラルタ几、シンガポール等とともに七ツの海を女配
するといはれたイギyス世界文舵紳の故も有カなる】壌なりしことに
想を救しまナれば、その賠帯は正にイギ,ス世界文配め桝孝を最も端
的に示ナものといはねばならないのでありまナ。
しかも上海、腑末陥洋後、政治的に軽粁的に番港を唯一の坑職蛾
鮎としてをりました丑康政鮮の銃域カが、今後急速に蚊滅ナべきは明
らかやあり‡す●
求に希港こそは俊郷物賓の四剤乃至五刺を賄ひ、更に韓怖縦持のた
あの金繊捷作の吋心地でもり延鍵と英禾との唯一の沌紡地鮎であつた
のでありまナ.この香港の占萌こそ、滋鹿の死命を倒したものとい払
ねばなりませね。
丈に番港陥落のアジ丁諸托凍及び仝陛界に輿ふる彰卒は麓し渦汐知
るべからぎるものがあると、樅信します。
今こそ眼前にまぎくとイ車リスの此浪を見た立那及び偽印、鴇水、
柵印、フィyaビン、ビ几マ、インF西帝アジア等永くイギリスの鵬
政に菅しむアジア十億の級民族は、今後急速忙日本への借玖感を廿ナ
とゝもに、アジア推新の典怠を自鹿するに重るであらうと思ひまナ.
阿什蛾笹後、官年、今こモ香港臓落によりまして、世界史は新たなる
界に向つて救歩を押し池めたのであります。
世界の髄史は日本にょつて創られつ1あるのであります。日本が世
界の樅史を決鮭しっ1あるのであります.一億閑民轟くこのことを艶
く肝に銘じて日本筐氏としての冷挿を志れぎると井に、盤混を糊せず
して飛び出したる梅の光鮮や命を物ともせすトーナカに向つて突革し
たる陸の弟士の純忠と蛾壕め夢菅とに拝く思ひを馳せまして、宜蛾の
みことのりの示し賂へる如く
駒比各1「弗ノ本分ヲ盤シ億兆】心拘水ノ組カヲ撃ケテ柾域ノ日的
’捷成」し、以て大御心に糾ひ鮮らうではありませんか。
囲を思ふ道にこつはなかクけり
戦の鬱に立つも立た恥も
ハ寸〓月〓十七日枇適)
ヽ′
†2
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マ
ニ
lフ
占領
の
大東亜取申勃教以来、庫かに十入日にして香堪は陥落いたし、今ま
た米駒東亜位略の蟻粘たるマI→ヲは、わが渾の軍辛貞憐するところと
なりました。疾風払零、皇革の向ふところ†でに敵なく、大東亜赦設
の大業は、日一日とその甘現のE歩を進めてをbヰーす.
この取裁、この件業、これひとへに、御稜成の然らしむるところで
あbます。さきの〆ヴアオ賂落に攻いで、このたぴの了三ノ占領に上
りせして、もはや全フィリ’ビンは、制鮎されたものといつて上いの
であゎま†●
曹さんの申には、’ィリ,ビyといへば、7メリカのものだつたら
ぅといふふうに、犠分曹からお考への方が或ひはあるかも知れません
が、これは大きな聞珪であつて、アメリカがフィリタビyを占餌した
のは、明治三十一年のことであり、餅有以来庸かに、四十年にしむな
らないのでありま†。その前は、スベイソが占領してゐたのでありま
す。
スベイソがマりヲに政虎を閑いて、全7ィリッビソに朝をとなへま
したのほ、今から恰些二首七十年前の、畠紀ニニ三一年、すなはちが
正親町天畠の御代、足利義昭の時代でありま†。
それ上り五十年前に、かの最初の世界一局で有名なる、スベイソの
†ゼランが、初めてフィリッビン鳥に着き、この地で馳死をなげまし
てから、スベインの比鳥餅有黙は次鮎に品まり、妄凹二年に車つ