躍進の明治時代
− 新しい日本の夜明け −
日本は明治時代を以て日本本来の姿に生れ変り、明治時代を以て
世界に乗りだしました。
慶応三年十二月九日に皇政復古の大号令が下されました。皇政復
古、この言葉はどんなに大きな喜びと希望を以て、全国の津々浦々
に響きわたつたことでせう。
新しい日本の夜明けです。
三百年といふ長い間しめられてゐた戸をあけて外を見ると、眼に
映つたものは、目まぐるしい勢ひで進歩発展してゐる世界の有様で
した。海には汽船が走つてをり、陸には汽車が走つてゐる世界で
す。大抵の国民ですと、余りに激しい世界の進み方に、眠がくらむ
か、おじけづいて足がすくむかしてしまふものですが、我が日本人
は臆するところなく勇敢に世界の中に飛びだしました。
「半髪頭をたゝいて見れば因循姑息の音がする。
総髪頭をたゝいて見れば王政復古の音がする。
ザンギリ頭をたゝいて見れば文明開化の音がする。」
この明治の初めに流行つた謡は、当時の日本のうつり変りをよく示
してゐます。
×
ちよんまげ頭は、万事に旧弊で進歩発展といふことをしらない幕
府時代を現してゐます。かうした幕府時代を破り、皇政復古の基を
ひらいたのほ勤王の志士で、志士の間には総髪を結ぶことが流行つ
たものでした。これが一転しますと、次に現はれて来たのは、ザン
ギリ頭の青年たちです。皇政復古は行はれ、維新の大業はなしとげ
られました。日本は昨日までの島国ではありません。世界の日本と
して、激しい国際競争の舞台に立たなければならないのです。遅れ
てゐる点は、一日も早くとり戻さなくてはなりません。そして外国
に劣らないやうに、としどしと進歩発展しなければならないのです
文明開化の呼び声が盛んであつたのもかうした事情からでありまし
た。
かうして堰を切つておとしたやうな勢ひといふものは、日本人の
逞ましい進取の気象の現はれに外ならないのでありまして、この溌
剌とした元気があつたればこそ、明治の御代のあの非常な発展を成
し遂げることが出来たと申されませう。
この逞ましい溌剌とした力が、国内では、藩籍奉還、廃藩置県、
藩を廃し県をおくといふ新らしい体制を見事になしとげることにな
り、封建の制度は全く廃せられて明治二十二年には、 明治天皇御
親ら帝国憲法をお定め遊ばされて発布し給ひ、翌年の二十三年には
第一回の帝国議会が召集されました。これは明治元年の五箇条の御
誓文に「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スヘシ」と仰せられました
有難き思召によるものであることは申し上げるまでもありません。
×
かくて御英邁な 明治天皇の有難ぎ大御心の下に挙国一致の政治
が進められ、いろいろの制度はあまねく整へられまして、我が国運
は旭日のさしのぼるやうに盛んになつたのであります。
一方外に対しましては、我が国の発展はいよいよ目ざましく、日
清戦争を経て、一躍世界列強の注目するところとなりましたが、そ
の後東亜を侵略しようとする欧米列強の不法な圧迫に対しましては
国民は所謂臥薪嘗胆薪にふして胆をなめるといふ非常な努力と団結
を以て国力を蓄へ遂に満州から朝鮮に手を伸ばして、東亜を支配し
ようとしたロシアを討つて、東亜の平和を保つたのであります。
当時のロシアは御承知のやうに世界で第一の陸軍国だつたのであ
ります。いよいよ日本がロシアと戦ふと決する時、時の枢密院議長
伊藤博文公は桂首相に向つて「果して勝味があるか」と言つた
のに対し、桂首相の答へは「大和魂で戦ふのみ」といふのでありま
した。また伊藤博文公が「今度の戦は実に陸海軍でも我等でも成功
の見込はついてゐない、しかし日露の形勢真にやむを得ず我国は国
運を賭して戦を始めなければならぬ。そこで万一にも我が軍が破れ
露軍が侵入して来たときは及ばずながらこの博文も昔の北條時宗に
做うて自ら武器をとり、身を兵卒の中に投じ自分の家内も時宗の妻
に見習はせて軍隊の炊事にあたらせ、夫婦共々九州なり山陰なりに
出かけ、残つた国民と共に海岸を守り一歩たりとも露兵を日本の土
地に上らせない決心である」と言つたのは有名な話であります。
この気魄、この精神はとりもなほさず明治時代の気魄であり、精
神に外ならないのであります。政府も国民もうつて一丸となつて奮
ひ立つたのであります。
果して我が軍は陸に海に連戦連勝、戦へば必ず勝つといふ皇軍必
勝の伝統の精神は、この赫々たる日露戦争の勝利によつて確立され
たのであります。
×
かくて日本はこの日露戦争によつて、世界の強国となり、世界の
日本となつたのであります。しかもこの日露戦争の勝利は、ひとり
日本だけの勝利ではなかつたのでありまして、日本の勝利は、西洋
に対する東洋の勝利を意味したのです。
長い間西洋の努力に虐げられて来た東洋の民族性、何れも同じ東
洋民族である日本の勝利にこおどりしてよろこびました。東洋の民
族はひとしく、日本の勝利に東亜の勝利を見、東亜の天地に明かる
い夜明が訪れたことを知つたのでした。
「日本勝てり」といふ日本の勝利を伝へる声は、アジアの隅々まで
響きわたりました。それは遠くアラビアの砂漠に、或ひは地中海に
臨むトルコにまで伝へられていつたのです。
支那では国民党の産みの親である孫文が「アジアは立ち上つた。
アジアの暁だ。日本はアジアの希望だ」と叫びました。インド人も
アラビア人もトルコ人も、長い間忘れてゐた東洋民族としての自信
をとり戻し「民族の独立」に向つて立ち上りました。
これを偉大であると言はずして一体何んと申しませうか。
明治の御代四十五年間に日本がなしとげた進歩発展はど、目ざま
しいものは、世界のどの国の歴史にも見出すことは出来ないのであ
ります。西洋の歴史家は、これを歴史の奇蹟であるといひ、また欧
米列強は眼を見はつて驚きの声を放つたのであります。
この輝かしい明治の御代を持つたことに対し、私どもは明治の御
代をお築き遊ばされた 明治天皇の御威徳に対し奉り、かぎりなき
感激の誠を捧げなければなりません。
そして、私たちは、挙国一体明治天皇にまつろひ奉つた私ども
の父祖に深く感謝しなければなりません。世界歴史に類ひない、
明治の御代を持つ私ども日本人はまことに幸福な国民であります。
輝かしい歴史を持つ国民は常に輝かしい将来を持つてゐる国民であ
ります。
今や私たちは 明治天皇の御志をうけ、明治時代の私たちの父祖
の後をついで東亜新秩序の建設のために、戦つてゐるのであります
私たちは、父祖にはぢないやうに、御稜威の下一致団結、この昭
和の御代をあらんかぎりの力を以て、築き上げて行かうではありま
せんか。
(十一月二日放送)