満洲開拓の現状 拓務次官 北島謙次郎

文頭の新秋序建績の象璃であり、世界鹿史稗換の一大導火線となつ
J′沌岨州♯鍵が勅親してから、早くも、十年の歳月を経過し、明後、十
入日にその輝く十潤年抱念日を迎へることは、日沌師団民にとつて瞑
に要に堪へない次鶉であろ。
崩みるに・革鍵勃頚前の類叩を支配した破作革袋申艮父子が、支
那中原倒初の野単に琴礼・帝全土を野げて紳収の*魚と馬し、虐政
枇政の限りをつくした結果、日啓HH産の南役に於いて†‡の失き人命
と二十億の亘薪の由布を犠牲として蔽ち雑た我が萱ほ、全く有名無
銘と化し去り、藤には我が大和揖族は、彼等の齢池に堵へ♯ね、こと
ごとく淋洲から退去せねばならないやうな状態にまで押しっめられて
ゐたのである9
 かや〜な繋過した髄叩の下に放いて、亀に昭和六年九月十人早の夜
中・革天郊外柳簸の蛾漫蔽に端を数し、我か回は併千島を鼓
動し、地に漬州川串世の勃竣を見るに頭つたのである。
 その緒果多年狽軍偶の娠制下に坤吟せる末彗享甘罠糸∧讐
り、♯雛彗牛年を攣る昭和七年二宮一息捕湘南が創建された
のである。
 いふまでも無く、この篭は八紘−字の我が虫鉄に義ぎれて
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準坤した閥であり、興詑の大乗を使命として負荷された、所帝糊であ
る。その捷観の理想とナるところは、鳥隣と一段不可分の腑俸を義成
し、民族協和と王道柴土の丈現を励らんとするに在るのであつて・臭
くも揃洲田島常陸下に於かせられては、昭和十年距朝後宜布せられ
た何卒に於いて
 朕日本天皇畦下と精紳一晩の如し爾衆庶等更に常に仰いで此の恵
 を捜し友邦と壷l心以て開園永久の基鍵を食定し東方藩橡の床義
 を改組すべし
と仰せ出されてゐることは、‡に日浦爾園の粥係を璃的に和義ほしに
になつたものである。
 以上申地ペた如く、浦洲覿が我が帝国と一憶不可分の鯛係に在る以
上。青々大和民族ほ。この弁別を弛までち堅持して東亜新秋群の養
に只管舞徒湛湛しなければならない・而してこの不可分坦儒叩を・民族
的に基礎づけ民族協和を頴親して、坤く正蜜Tエを蓑する馬めには
如何なる方策を官庁せねばなら抱かといふに、何と丑つても大和民放
の仙茫叩大鹿大移動こそ、その女も大切な‡柄であることを曹し得る
と思ふ。それには官公雫今批旦、商工革者の渉住ももちろん史せし
いことではあるが、それ上中もl肝切賀な開放は・蒲湘申の各地に於
いて永逢にモ著性を有する費粥拓民を逸ることである・
思想短文にして身壊強健なる内地の農民が・多数満潮の地に移住定
著して、満荘民の中塚となり、その勤労奉公の生活により、四鞘の
朗氏族を指導し、大和民族の止芳なる園民性と、文化とを中心として
之に土葦狭間有の文化を結合し、斬らしき大健文化を創造†ること
「⊥つて、揃珊開は薯々その建鞋の米を学げ、格ざなき故国む鵡を築
くことが出水るのである。
 かやうなわけで、大和民族の犬樺太移動は、日浦南餉炎通の東大圃
用であるので、浦洲開拓卒業は我が閑に於いては、これを環大開策の
一と†ろとともに、淋洲園に於いても、また賽五ケ年計蝶及び北地
積興政雄と赦ぷ≡大所策の→として掲げてゐる次第である・
 例L乍ら、この日満雨畝の一組約束嬰劉旅として、盈行せられつゝあ
る純桝開拓事葵が、新茶距の爽石を築くべき大使命を以て、今日のや
〜に大きく材架繰上に脚光を浴びるに至るまでには、過重牛准転に鈍
って苦難の席史が秘められてゐるのであるが、‡襲前のことは暫く措
いて、‡世故のそれを見るに、帯雄の梢類未だ滑えやらぬ昭和七年十
月に、早くも簾−偶の武装移民が北描の捷木斯に入植し、似て今日の
浦洲醐拓民事薬の先解を属したのである。かくてこの鈷竺次榊拓抑カ
ら、昭和十年の第四次開拓邸に至る甘でのいはゆる粥幹移民時代に・
千入首戸を幾りてゐるのであるが、その成統良好であつたので・昭利
十l年時の庚田内閣によつて、滞洲鵬拓♯莱は大陸速鞋の稗私的申爪州
として決意せられ「二十簡年官許戸逸出計きの群立とな巾、昭和十
〓年上り、その第一期十萬戸迭帖計輩の下に。壌年その成果か■収めて
歩つたのであるが、l方同年七月支那串鍵の勃変となり、♯難が械オ
するに及んで。いつは開拓帝築椎弛の襖となり。いつは珂防上国土の
守りといふ使命を績びて、璽三重に収浦範囲拓青少年栽研軍の制舵
が軍けられたのであつて、木妙粁の促進に大きな役割を駒じてゐろの
である。
 かくて木♯薬剤始以来、セに九鬼渾、満洲開拓事業は入植者の累増
に件ひ、著々その成果を牧ら、本年鹿を似てその第二期計雀を宅了ハ
執仰定である。
 現菅でのところ−般朋拓民的u衰三千戸。青少年拳男軍五富故に
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達し・昭和十瓦年度の作付而積は一般順柘ペに於いては泊九蕗叩妙に
及び竪埋な頚座を京してゐる・明年洗Jりは準一期針篭に向つてその
信歩を進めんとしてゐることは、偶に商民各位の興亜鞋築む耳賛し挙
らんとする旺盛なる熱意の現はれとして、深く感謝すろ次第である。
然るにいまや琴l期計車の‡施に入らんとするに普つて、世上軋も
すれば替薔幣姶の槻係から開拓民の染出に庚教を款さむ着のあること
は−甚だ救憾のことと申さねばならない。かくの如きは】時の事象に
眩撼されて、潔く酋貸穀省察せず・我が輩何の大盤想たる八攣学の
将紳を没却する智漁と申さねばならない・申ち親潮鵬柘民事菜の酔紋
としての使命ほ、現在に於いてもなほ従前と泰りない許サでなく、時
局山盛雇はさらに之に食瑞相蛮・雄健薬勤雄琴斬らしき使命を浪加し
弊鈍鶴ま¢なき閉幕慧下に於いては・周防上さらにその緊要性を
加へつつあるのであつて・如何なる困難をも断乎としてこれを克服し
是非とも所期の目的速成の焉め量湛せねばならねものと確膚してゐ
 るのである。
 堆ふに開拓民の供出粘泉となつてゐる我が内地農村の現状を見るに
耕地の線面魂大宮七萬町歩、並等戸数五官五†‡戸であつて、二戸嘗
り平均耕作反潮は、一町左妙に過きず、而も、一町歩来淋のもの三
冒太†訳者戸を占むろ搬態である。内地に放ける生来の鹿正壌普掛件
閻雛が何の鞋庶のものであるか性、遽に遜断をゆるさぬが、秒くとも
一町こ反歩以上であることは明白であり、僻に之が一町五反歩とかこ
町歩とかに相成りました彗昆・莫大なる飴剰盤蒙を生ずる攻革であ
る◇宰すろに、鼓薬経営の合理化または農村の再締成、盤築労働者の
 合鎚的配分が行はれましたならば、内地の農村は郵つて生活の安定が
 侍られぜすると同時に・二十掛年曽木戸別野に懲鮭せられてゐる軽度
の腺応民遠出は渦に容易に甥行し得るであらうし、至1必†行はね
ばならぬものである0従来粥柘民募集の想鮎を、仲村分郷においてゐ
るのは、全く以上の見地から割り出したものである。
また汲時統制政雄に基づく我園蛮築猟の持崩成に件ひ、中小商工業
頚の方面に於いても配給機構の徹底的合川化及び概築の再細成が行は
れたならば・和音多赦の略取業者の出現が瀬徹せらるる次錐であつて
政府はその封策決定に醸して・珪先として沌洲捕柘民をその言加
へたのである0従つて、牌拓事業は持腱渠封鮨の分野に於いてもま黎
な硬嘲を瀬ずることとなつたのである0
 さらに本事業の時局的意♯として・看過†へからぎるものに、長班
糖斐の隅馳がある0勧ち現下醜態冊琴の楽浪を考虻するときは。鼻舐
のキ裏町膳が喫棄の響藩であることはいふまでもないことだ。崩洲は
可耕地四千書町歩中末耕地性、些事二宮首町歩を有するのであつて
開拓の故地艶めて多〈、彼の故湘に放けるウクライナに堪独する世界
三太板倉粗糖の}として・地味飾る鞋かに、節分は施他の必車も無く
甘つ開墾は替勿である0替カ♯材の供給さへ十分であれば∵」れが閉
費ほ擁めて容易であり・且つ急並に土塊し頼るのである。翌民に材
しては・言常十呵歩の土地を劇普てるのでをるが、北海菰に馨達し
たいはゆるプヲウ農法を擦り入れるならば、この十町歩全部の耕作は
比故的容易であると#ずる・現在までの半脈を見ても、内地の農家に
比し、捗くとも四、五倍の士地を耕作してゐるのであつて、農家一声
の能率を琴ぐる上に放いで両者の聞に鴇厳の椰漉があるのである。
すなはち食碇増産といふ見地上り見ても、満洲弼新本業の使命は蔽J
五大なるを肺感する束帯である。元盤珠粗の於敵地軒現在の如く伽印
泰特筆隔の地に低くことは・一朝有和の際に於いて短めて不安であつ
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 って、ことに専ら海上亀題岳だざるを得ないやうな稚叫に於いては
−甘の不安を琴乙ざるを得ねヶ駒防上の見地より見ても・我が閥の主
要均は、何うしても我が局内外地及び揃榊大陸に求むへきであると
付ずる。満抑事襲の†過年記念日を迎ふるに常つて・満洲例の育成と
粥拓民事乗の乗客性に就き、些か私見を申地ヾた次第であるが・8本
包囲態勢の転力下乗官有の正大危機に直面する我が開としてほ高度
荊肪所耗娃制の確立といふ粘よりいつても・また我が温義的大陸政策
の振楷を堵孝確立し、東亜新秋序趣役の渋二段槻を固める見地上々し
ても、我々戦局は、釆鵡し来るあらゆる搬胸を突破克服して、満洲開
拓の大観紫を推池し・似て減料亭鞭をして有終の爽あらしめ、興亜の
鞄菜を尭幾せしめんが馬め、全力を傾倒せぎる「からぎるを痛感する
衣妨であろ。          (九月十六8放彗