車展する蒙轟
(9与)
 北支那の錘済開襲は前にこの幽
民諌木の時間に申し上げました。
今晩は宗河地方の葬罷航りを吋し
上げることに致します。
 栄職とは揃琳閤と支那、外鮨古
に囲まれ、内或祥を中心とする一
帯で、両構は約茄十萬平方粁であ
のます。茄十孤平方粁と申します
と、我が木州、四閉.それに九州
と朝僻良斡あ女繋ふぬ秒旅やであ
りま†が、人口は璽つて少くて
五宵四十常であります。∵」の五田
凹十嵩といふ人口の内諾を見ます
と、大部分は漢人で、蒙古人は約
三十常人、同数族が約十舐、日木
人が約三者瓦千人といふ内挿にな
つてを巾ます.
 崇滋比旗がジンヂスカンに革ゐ
られて東洋は勿愉快洲まで征粥し
たのほ今か_入討年軽前のことで

ありまして、その盛んな有様も徒
に昔語りとなり、蒙古人は舷かに
沙浜の民として生活をしてゐたに
均ぎなかつたのであります.とこ
ろが民閲元年へ大正元年)から後
になりますと、北京と内蒙古を綽
ぷ京辟埼薙が欺かれ、これにとも
なつて洪民族がどしどしとの方面
に池出して来たのであります.さ
うしますと牧畜を渠とする蒙古人
は自然沸民族に駈迫されて北に温
はれることになつたのであります
が、帯介石政槻はこの蒙古人をこ
と毎に醍治しましたため、添に崇
古人はその生活を板木から脅され
ろことになつたのでありまナ.そ
こで、表古人の民族自治運動がお
こり蒙古人は立ち上つて蛍時の滴
京政府に射して拘立運動をおこし
たのであります.これが昭和†−
年の秋におこつた綴逢尚忍であり
ます.
 ところがその黎年に支那串山野が
おこり、兵事がチヤハルこ入りま
すと.この附泣の所見族の肝に帯
介市政桃の手をはなれて掲立する
動きがおこつたのであります.そ
して薮前代汝と洪民族が一緒にな
つて蕪醗聯合委員曾が生れ出たの
でありますが、更に昭和十四年の
夏に現裾の蒙古聯合自治政府が出
来たのであります.そしてこの禁
古耶合拐治政府の下に、袈古拭族
と洪揖族はお互ひに手を挽へて進
むことになつたのであります。
 この穀岨は、御東郷のやうに外
蒙古に挟してをりまナ.絶つて共
産ホ敢の仏入を防ぐ防炎といふこ
とから見て、大熊大切な地位を占
めてゐるのでありまして、攻が周
防の上からいつて摘めて冤魂なと
ころであります。
 それだけ袈此の政治上、短済上
の効展といふものはとりわけ目ぎ
ましいものがあるのでありせ†。
 殊に銀山実の方面では、その饗
かな絨とポ淡の関頭に全力が注が
れ.眈に副竣四簡年別賓を終へて
新しい飛醐に血伊らうとしてゐるの
でありヰー†。
 羨慨の践産物と申しますと、第
一に大同の石炭と覿舶の縮があげ
られますが、大同は北京の西にあ
つて、京掟繊澄によつて進みます
と北京から西へ向つて宵四†盈程
待つたところにあります.
 この大同の炭田ほ、右衆の埋赦
免ほ冒二十備に虚してゐる大衆田
でありまして、現在大同炭破株式
魯敵によつて閑牽が池められてを
り、労働者の故は千人を毯えてを
ります。
 この大同の石山訳と並んで名高い
罷栖の銀鱗け大同上りもずつと文
によつてをり、北京に近いところ
にあつて、北京の西北に営つてを
ります.質の良い赤線鋳を産し、
その埠萱は一億粥一を喝えてをり
ますが、昭和十閏年の真には閏舶
篠鎖骨批が乾けられて鋼頚に常つ
てをります.     ヽ
 またこの薮由にはこの現や石浜
のはかにも.穎とか、首巻、石綿、
宰母、黒鉛等の多くの鋲物に恵ま
れてゐるのでありまlT.
 次は牧畜と建薬でありますが、
賓窪としては摘草や用▼牛、豚.
路舵などがあります.暗に羊毛は
東亜共桑頗の内にほ、ほかに資源
が乏しいので、大切なものであり
ます.従つて萩鑑でほいろいろの
施設をつくつて、この事宅の檜壷
に努力してをります.そのほかの
畜産につきましても、潜産は浣娼
の大切な産葵でありますから家背
防疫断や番壷試験場などをつくつ
ていろいろの調査研究を行ひ、蕃
藍の睨召には大きな努力が挑ほれ
てをります.
 また農産物としてほ高梁や粟、
稗、大数、小数、玉秦濁などの堵
寵計塞が立てられてをりますが
また林をつくる幾林計宅も三十簡
年の洩定で故にその第l歩を踏み
咄しました.−しれらの農産莱や林
産棄を指堵するためには、中央兵
林試験場が昭和†五年の正月に#
肯聯合自治政府の下に設けられま
した.この仙黄林持故場飴、出水て
.以衆甘だその日もは巧く富叩も十甘
(皇l〜)
に出充てゐませんが、今後の括和
が注目きれてをりまナ.
    ×
 さて輩社の金融の中心となるも
のは煮甜銀行であり、昭和十〓年
の羊から弊社の中央銀行として活
動か始めたのであ勺ます・それか
ら駄に二面年中になりますが・そ
の聞立洗に牽靖致しまして、名筆
共に蒙柁の中央銀行としての成拭
をあげてゐるのでありま†.
 この袋虹銀行の銀行券の費行者
は、去る四月ニ†R現在で約六千
九符落胤に上り頭金高は昨年の宋
で約七千七官許概に撞しました.
さらにその後この溺金は今年の一
月から燕泣に至る間に約一千宵茶
畑といふ拇加ぷりむ見せてゐるの
でありま†.
 この舗維粥行の椛功こそ、薪撫
民衆の弛晒を護り、肪兆思想を確
流し.椰済粥巧む飽したもので、
その功桝ほ庇に大きなものがもり
まナ. (八月二十一日放古)