進む北支那の建設
盈戦ここに捕凹年を担へ、寿節
は大陸の各地でまことに駄々たろ
敬果を収めてをりますが、一方支
那大陸の建設は日を租つて健頸に
弛められてゐるのであります.
支那では背から「商船北馬」崗
は腑、北は馬といふ召粘もあ巾ま
す通り、北支那と南支那は気候や
風土が異つてゐろばかりでなく、
人梢や風俗、蔭物を異にして−山る
のでありま†.
由来北箕郷には北方人の地方と
いふ思想があり、解介市政札の労
力に勤しても別に一つの勢力とな
つてゐたもので、攻が園とは外交
上、凝済ヒ郵袋た関係a保つて躾
たものでありぜす.さらにまた地
色の上から見ましても、北支那は
日本や浦和組と魂ひは塊を鼓し或
ひは海む脇てて隣りし、我が固防
止火切な地位み▼パめてむります.
従つて、難航に汗粍伽比を笥跳
とする閑代政府が成北しまして後
も、北支那にほ新に弊北政淋委員
何が設けられて、北支那の自治性
は保たれてゐるのであ〜ます.
さて−」の北梨郷は鈍凍物の盟か
なたころであ勺石数は殆んど舛釦
械といつて上いほどとれますが、
その他繊や金、タyグステソなど
があ巾ます。これらのポ災や績、
公、タソグステソの閉準には北支
那関語合融が満つてをり、滑々と
鋼寂の成桔を琳げてをります.
この捏かな資源む持つ北支部の
工業ほ・光づ興破棄ほ昭和十三年
の十一月箋坤の郊特にある石丑
山製堵研が作業む始めましたが、
次いで山池筍の陽泉製確断が翌年
の十四年六月から、また同じく山
西省の大原製堵析がその年の十一
月から.それぞれ作業を始め、柏
営の成績を夢げてゐるのであり増
す。
攻は資源開発の原動力となる電
力であ袖ますが、去†Q昭和十凹年
の十一月仁北支那関数禽批の千倉
杜として華北電莱排式合融が設け
られ、北支称の電気帯築の復興と
附数に普つてをりますり
従来北支那の電気串策は火力襲
電に備りすぎてゐた秋晴がありま
したため.この牧師む祁ふために
水のカを利用する水力頚問の計宅
が何てられ、日下その耗醜となる
調査が行はれてをりますから、浄
水火力と水力を併び用ひるやヽに
な巾ま†と、北支那の碩叙事薬は
非常な車竜をとげるものと期待さ
れてをりま†.
次代食塩としてまた工業用とし
て必魂な曳でありますが、北安郷
の兜の売地は長故牌と山東盟であ
り、何れも名高い浬の帝地であり
ます.叔盤盤は拗海瀬小淵にまし
山東建ほ茨海か勅海瀬に亙る山梨
牛島一碓の海岸から採れるもの
で、昨年以来應の檜索計茸が樹て
られ、頗の関挙がすすめられてを
ります.
これらの椀済を聞出†る上から
また治安の維持といふ上から、交
通といふことは栃めて大きな役割
をするものであります。四年前の
七月の七日に、孝雄が勃蟄して.
北京、天粋地方が我が軍の手に軒
しますや、照月の八月にほ早くも
柿綴の手にエつて、北安和淋局が
設けられ、繊道の難悌が始まつた
のであります.
昭和†四年の四月になりますと
準北交泣骨杜が泣けられ−北支那
全挽と張紙の安弘林常ほ航匙を除
いて全部この禽放で桝管されるこ
とになり、河を利用†る水盤、ま
た日払車や港の無骨もこの甘牡の
(3∋)
手に一つて行ほれてをります.
先づ稚蓮でありますが、先程も
申しましたやうに支部でほ−南楷
北属」といふ官業がありますやう
に▼頼支部は河が多いので自然胎
の交流が開け.北支部は河が少い
ため月を用ひる陸上の交流が襲毒
したのであります.その上北東部
は災い聞清朝政治の中心地となつ
てゐましたため陸上の交流が表意
し、錬邁の牽尭ほ真布で一番進ん
だところでありまして、‡建前で
北支部の鋳造は約五千二百キпA
二千三百虚レに為し.会費郡の繊
盈の年分以上を占めてゐたのであ
ります.
串艶後はこれらの締正のほかに
きらに我が方の手によつて新に♯
蓬がつくられ、ヰ襲以後我が方が
つくつた蛾邁は昨年の宋で貸に入
胃五†七千P 〔的二百十五盈)に
上つてゐるCでありま†。
この新しい銀温の中でも、石破
線の持つ働きは注目されてをりま
す.この蛾荘は河北大平瞑の中心
を親類に貰いて、末溌、津浦の二
大派遁を緒ぶものであり、治槻附
捉の石盤を埋ぷと非に河北省の治
安の維持に大きな役割を果すもの
であります.
次は沌でありますが、枚が園と
北支那の貿易は今獲いよいよ盛ん
になるものと漁想されてをりま†
が、我が伊と北支那との貿易は海
によるほかないのであり、それに
は北支那に大仕碑の沌をつノ\急こ
とが第一に先づ必襲になつて衆た
のでありますD
それには天絆の末:商海瀬にの
ぞJ‥塘活に眠がつけられ、婚清推
の粗野はとり敢へず昭和十入年の
末までにつくりあげる日楷で、き
はめて大仕掛な肝茸で行はれてを
りますが、この施括捲は賭衆北支
那の交洩計窪の中心となるもので
あります.
このほか天浄や有為の南港も、
来年の末を一概の目標として、港
の設備を大さく†ろことになり、
眈に工事が弛められてを巾ます.
さて救淡は北東郷建設の土一と
なる通貨へお金)の方面eありま
す.中鞠研合準僻銀行は北支那金
融の中心として♯鍵が也まつた翌
年の昭和十王年の春虹仕卒を始め
ましたが、その後この併合準備銀
行は筆な歩みを続けその紙幣匂
挙行高は去る五月の中旬で約六億
六千萬軋に上つてをります.又溺
つてゐる顎金の租紡は昨年の宋で
約五億畑、貸出の馳耗は約≡稚二一
千嵩凰で、前の年の宋に比ヾます
と、演金材ほ約一世五千詳∬、費
出頼も同じく的一破五千諌佃とそ
れぞれふえてをりますから、非常
な腱進ぶりと申さなければなり甘
せん.
)ハ
かやうに北支郷の耗軒並背ほ力
担い考展への歩みを穎けてをり、
北支那建設の裁硬は庶に成つか
のであります。
へ入方十入日放蓬)