共同防衛の併印
さきに日本と彿仰が炎同して、
仰印中断町といふ約束が成巾たち
ましたことは皆様制衆知のことと
存じま†.
さてこの併椰軒ち沸領抑圧支郷
は、地嘲を郷党になりますとわか
りますやうにまと南は博支那海に
持み、爾ほビルマとタイに嗣堵を
恭し、書生喜丁一
つの省に蓮つてをります.
この形をごく大摘みに申します
と、つまり俳印ほ支部と印度の聞
にある牛島の}郭を占めてゐるの
であります.そして、地潔や経済
の上からも、この箕郷や印度によ
く似てをりますので、印度支那と
いふ名で呼ばれてゐるのでありま
ーす}
この体印の大きさは.約七十四
苗字方粁でありますから、フラン
ス木簡の一倍牛に営り、我が戚の
全担上りも少し大きいくらゐの既
きであります.
地勢は一般に北の方が高く、再
は疎くなつてをりまして、川には
メコy河と虻抑といふ二つの大き
な川があり、メコy河は南安部海
に流れこんで、その河口に大きな
三角洲をつくつてをり、虞々とし
た平野が開けてをりまして、他界
でも指折の米の蒙地となつてゐる
L・シ▲.ン
のであります.又紅河は文京洋に
注ぎ、有名な東萩地方の≡角洲を
つくり、ここもまた単−かな米の産
地となつてをります。
気候は全睦に暴くて強気が非常
に多いところであります。
彿印の人口性的〓千三富嵩であ
りまして、安商人が】香多く、次
がカンポジャ人、タイ人といふ砺
庁になつてをカ滝すゃ−1
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■■■■lll■】
安帝人は.併印の人口全線の七
創〓分飴りを占めてをり約一千大
富嵩に上り多くは点薬に従つてを
り、安商人のゐるところにほ必ず
お米の田があるといふ官業さへあ
ります.
未にカyボク†人が約王官‡、
メイ族が約百四†賞を汝へてをり
ますが、とれらの民放は何れl、
チベットや淘支那又インドから入
つて衆たもので、土唐のずつと甘
から托んでゐた民族ほ、山地の方
に租はれて原始生活を管んでをり
ます.
その外、外閑人としてほ家郷人
やイyド人がをりますが、支那人
はいはゆる準備として和男の万両
に労力を張つてをり、その放は四
†‡に達してゐました.1ロツ
パ人は、フランス人やその他を合
せて四筋人そこそこであり我が同
胞もこの内に含まれて計ります
.が、現在この彿印で済碓してゐる
(▲1)
冊仙仙州件B[州
‖川川[州b刑m川
溌‰柑胞め観は礁瀬喝…ヒコ百人足
らずでありました。
× × ×
次に価印の沌深について申し上
げますと、俳印の煎薬は農業が中
心となつてをります¢そしてその
為売物は米や玉観黍、ゴム、コプ
ラ、格花生、胡臓などが主なもの
でありますがこの内でも最も耶数
十ンキソ 」サイゴ′
なのは米で、氷水米や粥頁米の名
で細られてむりその爺椅は昭利十
三年で約一二千誠石にJつてゐまし
た.
根深に次いで主た耗紫は鉢山発
であ巾ます.厳然物は大襲挫かで
あり、石浜を第一とし、錫や金、
詳細、タソグステy、燐銀などが
探れ中でも石奴ほ非常に照常であ
ります.
)へ × ×
さて革粟ほこの〈らゐに歓しま
して次ほこの血仰印の師史であ巾ぜ
すが仰印は曹の安帝夙で−巧から
千年m鮪までは義の鋼士だつた
のであります9ところが、その後
和廿して資南醐となつたのであり
ますが、今から山一再年現前にフラ
ンスの勢力が伸びて来て、フラン
スの支配下に入つたのでありまし
て、現祁はフランスの総督がゐて、
治めてをりま†.
我が規とこの価印との関係は、
陀分古いのでありましてい祖川蘇
府が鋭閥政鱗を探ろ前にほ、円本
人がこの伴印に鮎帖して、盛んに
爪締し、日本人叫が山水てゐたの
であります.
ところが、この日本人の朽耶は
捻川栽何にユつて禁山されました
ため、一時柑絶えてLまつたので
ありますが、併し明治から後は又
次鮪に関係が野くたり、現裸体印
は梨耶炎染田の中に含まれ新しい
東誠の鍵設に一つの役割を拾つて
ゐるのでありま†.
即ち仰印で箆する膀料ほ架恥共
焚幽にはどうしても必嬰なもので
あり、とりわけ■併印のお米は我が
‘閑にとり牡駄仏サーr転】なち虹計いも
のでありまナ.
フランスもまた、この我が闘と
の粁耗な関係を認め、昨年の夏、
換同前外務大臣とアンリー大使と
の間に苫合がつき、我が閥の俳印
に放ける地位をはつきりと認めた
のでありますが.更に今年の五月
には状が祓と経済協墟を結び俳仰
は政治Lも梓折卜も我が粥と手を
携へて水たのでありま†ぅ
ところが投汝悌印を偽る内外の
形勢は、非常に不安な状嬢になつ
たのでありますD釦ち、落介石政
拍と第二叫周は柏績んで.俳印をと
りかこむやうな形労をとつたので
あります.その工作を見ますと、解
介石政械の労力範贈である支那の
西縞部とビルマを給び、更にマレ
イにのびてシンガポールと述終し
」▼
併印をとりかこむと同時にl方で
ほ俳印の内部に働きかけたのであ
りまn.そして役等は由らこれを
日本を包閥†るA払CD政策と冨
つたのであります.つまりAはア
メりカ」加持汀平川ス、eは家郷D
は憮仰を指し、それぞれその固の
頭文字をとつたものであります.
もしこのやうな情勢が大きくな
つて、彿印を混線におとし入れる
やぅなことがありますと、俳和ら
が節二のバルカンとなることは明
かであり、仇印は固より、我が閥と
しましても何らを徹るためには、
噺じて見逃†ことほ川水ないとこ
ろだつたのであります。恰もこの
情勢ほ∩詣職撃常時ロシアの勢力
が絹州の野計砿ふて、朝鮮に工作
し・朝鮮を刹那して耽が閑の守り
を危くし発議の平和を脅かさうと
した岬と同じやぅな感があるので
あります.
かくして我が国と併印ほ共に立
つて手を結び一緒になつて仰印を
守ることがどうしても必彰になつ
て米たのでありますゥそこで童る
〓十山日に、日本とフランスの間
に仰印を北へ同で肘貯るといふこと
に詑が山致したのであります.
ヽノー
切一−
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