西部アジアの民族運動
預部アジアと吋しま†と、大池
トルhやイラク、イラy、アブザ
●−スタy、それに地中海沿岸のy
リヤやパレスチナ、さらにアラビ
アの各地方を含んでをります.
この附近は、妃兼と呼ばれて水
たところで†が、これは西洋女中
心とした呼び方であ勺まして、架
洋を中心と薮しますと、米洋の西
のポ舟でありぜすから、西部アジ
アであります.
この西都アジアは、地倒を御党
に叱るとわかりますやうに.西洋
から来の方へくる終に常つてをり
ます。そしてその一萄火切なとこ
ろ、心酸邸ともいふヾきところは
地中海から紅海へ抜けて肘るスエ
ズ運河でありすす.
徒つてこのスエズ運河を含む西
都アジアは地激上きはめて貰黎な
ところでありますが、その上イ’
ソやイラクからは梓山の石油がと
れるのであります.
イギリスは第一次の世界大戦の
時にけ、この方耐に軍蝕むすすめ
て、一時は建く.イテyの北のy
に潔く喰ひこんでゐるのでありま
す.イギリスは現在スエズ運河に
蟻つて西はエジプトを抑へ、東ほ
西部アジアの大部分に労力を梅ゑ
つけてをります。
このイギリスの鮭迫に封しては
酵部アジアの各地に娘強い反共運
動があるのでありまして、さきに
おこつたイラクの反英戦争ほ、丈
にこの迦勅の急先鉢となつて、口
火を切つて落したのであります.
と.ろで、此鹿に注目されるの
は、この西部アジアの件民の殆ん
ど大部分は倒汲む信仰してゐると
いふことであります。トルコもイ
ヲクもイヲyも、またシリアやア
ラビアの各地方、さらに√フガ一−
スタyも旧教を奉じてゐる観であ
ります.
同数はアラビア民族からおこつ
たもので、マホメットの数へを革
ずろ宗教でありまして、伽数十キ
セン和覿を建てたのは今から一千
二言H年ほど昔のことでありまLて
我が粥では大化の改新が行はれる
少し前の頃で、西暦Jは七政杷の
ことであります。アラビア民族ほ
マホメットが亡くなつた後も、よ
くマホメットの教へを弘め、領土
を征服して七世紀から八他抱に亙
つて、非常に柄勅しまして、粥金時
代をつくり上げたのでちります.
その文化は、サラセン文化と呼ば
れ、枚挙や犬文串、科挙、柔術に
非常に血液な仕♯をし、漫かに昔
時の練粥の文化む転したのであり
ます.常時の敗削は見る形もない
暗黒時代で、到底サラセン文化に
太刀対することは山水なかつたの
であります.
ちのやうに慨歎稔が飲料の民族
をおさへて、他界的に蓋し.東
洋の民族として軟かしい文化をi
みだしたことは、Aに件大でもつ
(皇さ〉
たと申さなけ九ばなりません.と
ころが、γラビγにおこつたサラ
セン文化と官へば、→穀には一風
鍵つた地方的な文化、西洋人のい
はゆム輿故紙の文化と堵へ炒ちで
世維的な文化とは考へないのであ
りますが、これはキyスト教掟で
ある西洋人の†いた西洋歴史の見
方であろことを忘れてはなりませ
ん●
きてかやうに同教徒の勢力ほ非
常に盛んだつたのでありま†が、
併しその後歎洲は、文酷似刑期と
いはれるルネクサンスを経て、活
瀬に流動しましたため、同数徒の
勢力は欺珊から温ひのけられ、次
鮪に求へを見せろことになつたの
であります.
併し現在旧教杜ほ、世界の各地
に住んでをり、その牧ほ珊碓なと
ころははつきり致しませんが、】
口に三億と官はれてをります9昭
和十一年にエジプトの政府が塑表
した統計に上りますと、余地界の
間数徒は三億二千四官舐しd胃はれ
世界の人口の】割三分に常つてゐ
ることになります.そしてその入
酌までが、雑件に雄つてをりまし
て、日本や純洲願、箕郷、タイ図
を除くと、架洋の陶の約んど†べ
ては概数閉であります。
澱秤に次いで間数維の多いのは
アフリカであります.
かやうに他教鎚の欺は、多いの
でありますが、これらの凪教民族
の殆んビ大部分ほ、普に反して今
は欺州列強の箕飽の下に旺かれて
ゐるのであります.同数絶食挽の
七糊充分、人‖にして約二億三千
入神裁といふものは、餅洲締閣の
純然たる相托咄や憐土となつてゐ
るのであります.この内イギリス
の支配するところが一番多く、イ
ンドやマレイを初めとしその同数
徒の人口は、一億に近いのであり
ます.
かうした欧州諸例の支配と鮭迫/
に封しましては、旧教揖族の間に
狩允運動が唱へられてをりますが
中でも住用されてゐるのはアラビ
▼民族の血叩立運動でありますクこ
の丁’ピア民族の掲☆確勤は、反
共超勤と鈷びつく運命にあるので
あむまして、アラビアの天地がイ
ギリスに抑へつけられてゐる以上
そのイギリスの労力を犯さない限
りはアラビア民巌の伺立と自他は
決Lて得られないのであqま†.
西部アジアの敬ひは、ただ穣軸
側とイギリスとの戦ひだけでほな
いのでありまして、漑に東洋の民
族であるアラビア民族、同数掟の
粥柑となづてゐるのでありま†.
アラビア民放の反英粍允鵜軌ほ
根強く絶えず行はれてゐるのでち
りまして、これが爆致する東和は
十分出来上つてゐるのでありま
す.かくて酵部アジアに於ける新
秩序撞毀の気分ほ潜々た動いてゐ
るのでありますが、西部アジアの
民族に曹の盛んであつた時代を想
ひ促し、軟湘のきづなを放しよう
としたことに一替大きな働きをし
たのは、油紙くは∩雉町馳寧であり、
近くほ今度の串鍵に於いて.我が
何が東亜一新秩序の捷投に#りだし
たことであります.
日甜敬牢で我が」閑が大勝利を縛
ますと、この勝利ほ丈洋人を刈取
して、光洋の揖族に大きな市盛と
弟親を舛へ、タイ囲や仰疋、それ
に柑部アジアの民族は歎糊の支配
からはなれて純立し上うと決心し
たのであります.
我が周が沌洲#熊の攻、研壌堺
似から睨狙して世界の正しい秩序
の址詑に殖り出しま†や、縦邦掬
仰腑閲も我が尚に他つてこれにさ
加したのであ巾まナ.・」のことは
西部アジアの民族にも形甘を輿へ
粥沸アジアの民族は新しい秩群の
拭設に烈しい熱情む以て北ち上ら
ぅとしてゐるのでありま†.
東維新秩序の捷笥は、北洋の新
秋序の寒であ〜私兆は同じ粧洋
の民族として西部アジアの民族の
動きには潔い関心を持たざるを得
ないのであります.」
(七月十六‖放迭)
く99)