穀倉ウクライナ


 rィ’とyデイエーの故学に上
って、ヨーロッパの軒倉とい作れ
るウクーフイナは、世界中の人の注
甘の的となつてをります.
 ウクライナはソヴイエトの西嫡
の部分を占め、ドニエブル何に琴
り鳥海に払んでゐる.大きな平原
であ勺ます.鷹さは約由十五番平
方軒我が内地よりも大きく、人口
は約≡千古耳といほれてをりま
す.
 このウクライナが注目される断
切は、その非常に饗かな産物にあ
るので、F−Pツパの穀物の倉と
いはれるやうに、食売物に凄まれ
てをります.ウクライナに住んで
ゐる入、九創までは費民でありま
すが、これを見ましても.ウクヲ
イナが如何に土産物が†かである
かが剃るのであります.
 兵車物ほ小湊を立とし、珠#や
鵜奔、玉萄弄、甜菜、亜麻、煙草、
砂糖が採れ土地は肥えた黒土であ
ります。
 ウクライナは、かやうに点尭物
が飽かであると同時に、また鉢産
物に泣まれてをりまして戎や有
罪、マンガンの埋赦丑は、yブイ
エー鰭山といはれてをり、近年で
はソゲイエトの束黎な電工築地背
となつてゐましたり今ウクライナ
の鼓なエ‖蜃意をソゲイエト全他
の生産と比ヾてみますと、最近の
数字では、石鮎が約六、七剖、報
銑が六割、銑蛾が的七割に達して
ゐるのでありますPこれでも分り
ますやうに、ウクライナは、農産
物が盤かである許りでなく、敬字
に大事な王工築地粁としても大切
なところであります.
 それから世界の眠がウクライナ
に注がれるのは、さらにその政治
上の立場のこみ入つてゐることに
あるので、サク’イナの正史はド
イツ民族とロシア民族の撃ひの歴
史があるといふことが出来ます。
 ウクライナはもとは瑞立印であ
りましたが、今から三胃年軍曹ポ
ーラyド人と撃つたことがあり、
この時ウシアに助けを求めたた
め、その緒果Pシアの領土となつ
てしまつたものであります.
 ところで、ウクライナとドイツ
八郎結びつけられるやうになつた
のは、今から苫入十年樫前にロシ
アのカクリナ二世の招き‥によつ
て、大鍵のドイツ人がウクライナ
の朗墾に常ることになつてからで
あります.その後四十年程してア
レキサンドル一世の時も、ドイツ
人が帝かれたのでありまして、ド
イy人は一時ウクライナ人の中心
となつて帯締したものであります
が、今ではソゲイエトのはげしい
躯迫の下にあります.
 次いで第一次大戦の時ドイツは
戦争も終りの頃大正七年に軍除を
幾つてウクライナを占併し、ここ
に親粗末の粗立政府をヰてたので
あります.そしてこのウクライナ
の産物をベルリンやウィーンに幾
つたものであります.併し捧局は
ドイツが犬敬に放れましたので、
ウクライナはソヴイエーの儲柚と
なつて今日に至つたのでありモし
て、このやぅにウクライナほドイ
ツにとつてまことに困換津からね
土地なのであります.
 ところでソヴイエト政府は、そ
の後このウクライナに我が司のや
ぅに山人一人でやる個人為栗を併
してPシヤ式の集師農薬のやり方
をおしつけやうとしましたため、
ウクライナ糞民の反感を買ひ、ウ
クライナの掲立建物が行は九るや
ぅになつたのであり誉す.
(▲3)

巧lrl■L
一方ドイツではその時既にナチ
スが政碓を凝つてゐたのでありま
して、ナチス、ドイツの東方透尾
といふことが、盛んに取沙汰され
てゐたものでありますから、ウク
ライナ岡見は再びドイツと結びつ
けて考へられるやうになつたので
ありま†.
ヒーター絶統の有名な「我が閃零し
といふ木にほこのウクライナのこ
とが殻かれてをりますが、ナチス、
ドイタの東方我見の日樫ほ、この
ウタブイナであるといはれてゐま
した。今定のドイツとツゲイエト
の戦琴の楳周につきましては、世
間ではいろいろ硬沙汰してゐます
が、未だくわしいことはわからな
いのでありますが、併しこのやう
にドイツが前からウクライナに眼
をづけてゐた理由としては、次の
やうなことが考へられるのであり
 ます.
 つまり.第一ほいふ迄もなく食
 嘗の解決といふことでありま
 して・h声三拝資♯野を或丁〔入れ
ることで、ウクライナはただいま
小しましたやうに絨.マンガン、
れ舶む虚し、また賦内み流れる川
ほ水力佗窺を供給しますが、さら
にウクライナに煩くコーカサスは
和名な市油の涜地であります。
 耶ニ‥はドイツ品の消費市場とな
ることで、而椚約四十五蕗平方粁、
人口て†胃萬を持つウクライナ
は、ドイツにとつては大きな市場
となるものであり普す。
 節Mは年々抒脹して行くドイツ
拭族にとつては、サク一フイナほそ
のはけ口として縄貯の條件を兵へ
てゐろのであります.
 かやうにソゲイエト領内のウク
 ライナは、ドイツ民族の黎膜地と
して叫分のない土地だといふので
 あ勺ます.
 ともあれ、ナチスドイツの東方
池出が−埠されてゐた常時.ヒト
 ラー紙雄は昭和十一年の【ニ丁ル
 ソベル〆の舗大倉で、共産主義を
 汝蝉した較、
 「ウタルの席料品、yベリアの山阿
犬な森林、ウクライナの坤限の潰
物がナチス黙の指溜の下に、ドイ
ツの所内にあろとすれば、物資は
団に満ち溢れるであらう。」 と述
へたのであります。
 併し、第二次ヨーロッパ取替の
直前、ドイツとソゲイエトが、手
を過ることになつて、ウクライナ
開祖は漸くその存在か忘れられた
かの感がありましたが、今岡ドイ
ツとソゲイエ下が和持つに至つ
てqウクライナは再び俄かに団摂
政局の耕#の上にあがつて世界中
から注目されるに至つたのであり
壊す・ ハ大空一1四日淡彗