江先生に同行して 特命全権大使 日高信六郎
今岡中華民国同氏政府主席粂行政院々長江精砺閑下が我が南を訪閥
せられ、巣立をはじめ奉り朝野各方面の熱烈なる欺迎を受けて居られ
ますことは、新生同氏政府の基礎を剛め日車両閥の及株を弼が上にも
緊密ならしめ、東維新秩序の建設に亘大なる一歩を弛める所以であり
まして、渦に御同慶の至りであります.
江閣下の訪日の使命故意糞並びに汗先生その人の人岱等に付きまし
ては、数日以準」のラジオを通じて多くの方々が種々の方面から十二
分に論じ毒された後でありますから、私が蛇足を加へる故地もないの
でありますが、偶1今岡瀞一行と御一柏にこちらに参り、途中行動を
共にさせて頂きました御耗もありますので、江先生とお知合になりま
してから十年衆折にふれ見聞して感じて揺りま†ことに付きまして、
簡単に申上げてみたいと存じます.
(14)
托先生が白領の青年として革命の耕意に準乙、鳩印を抱いて北京に
撫入し、替噂ときめいた滞初の栖政王を狼はれたのであ巾ますが∵J
と成らずLて鞘れ、ほに下られたのでありますが、その著さに似合は
ね勇東に感じました簡親王の頓計ひで、一命を全うし・その径常時の
同志でありました朕彗君女士如rウ今日の托夫人」一指婚されましたこと
等は、あまりにも有名であります。撰文先生の秘接前子として常に革
各超勤の第一線に立ち、身を挺して貨戦に常られた気塊は・あの慢し
い物睦を見ただけでは想條も出来ないくらゐでありますゥこの列′々た
ろ気塊と勇気とは年を経ても少しも消耗せず、今同和辛み唱温せられ
るに歯りましても同志を感奮興起せしめて厨るのでありま†.
× ×
近頃托先生御大宰から糾しく伺つたことがあるのであ‖まrが・御
両人が着き革命の同塩として東京に掛られました呼・汗先姑は民報と
いふ新和に名筆シ痕つて不免思感の域吹に努められ居つたのでありま
†、そのかたはら御二人とも火森り榊的場▲−これは只今はあり膏せ
ねが、巧五年前まで慶應のテニスコートがあつたあの場所にあつた
のでありすす1あの射的頓に行かれましてピストル射憤り槽ねをさ
れてをつたさうであ〜ま†。その仲間の中でその日の成鱗が良かつた
人にはドンアワが出たさうでありまして、その時の昧は忘れがたいと
雷つて居ら丸ました.琵夫人の如きもその呵稚Cドンブリ.∴・い字を
学えて居らかたといふくらゐであけます・その気蝕ほその後映民米の
頭人となられ再演政府の犬尤物となられました後にも一向煙りはな
い、浦洲事艶の前後排白の袈気が淵溝して居りました弊け南京に居る
政府挙措の人々は確端に噂殻を恐れまして、外出の陛等ほ蚊十人の紐
葡仁取尚まれて物々しい恰好であ勺ましたに拘らず、昔時の江行政段
々昇兼外交楚々長は殆んど謹触らしきものも遜れず、地方を駈廻って
同車仁雀撃オてをqまLた.ちやうど昭和入年の秋商試で全閤浬動大
倉が硯かれたのであります.その時敷布の人々がスタソドを埋めて居
りました呼、托駐兵が昔時の錬邁部衣長でありました腹心の曾仲鳴氏
を遜れただけで租粥ト.入場せられ、無造作に群衆の前を洩つてその此
小に梢雁せられ、浦堵の拍手を潜びられたあの光景は、今〓もなほ目
の前に鬼才るや〜な気がいたすのであります.今糀釆鍵を椚て暫くハ
′イにをられ、ついで上海に居を移され、さらに南京に落付かれたので
あ巾ますが、それまでの間にほ紹介危瞼なこともあつたのであ巾ま†.
しかもその聞終始貸付いて殺然たる態度を失はず同意の人々は先生の
頂の如き態礁に力づけられて、虞に自分等の首領として摘み切つて、
ユの渦褐に心眼して尉られる有様であります.日立盤携に関†る先生
の信念も亦近切姶つたものでほありません.明治三十入年のことであ
りますから.東京e小硯同地骨が約繊せられて、所謂第一革命孔母性
が州釆たのであります.その綜出水ました粥領の中に「日支南開開局
の親書漁礁を期し」といふ租官があるのでありま†.これは−」の同盟
曾の中心人物で_けヰ・†持丈北矩を撃ッて、その起革「・常られました
江先生の信念がこの育糞の中に現れて居るものと恩はれる竺でありま
(1る)
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す・その後滞洲本鍵後日藩雨団の関係が棲めて瞼憩となりまして、嫌
R抗日の親和が一般に淋d巾跳仰の心あろ人々の間にほこハてはな
らぬ♪思つた人々玖少くないに拘らず敢へてこれを公言†ろ葬私事婚
つた人が殆んどなかつた時に、江先生は行政院及粂外交静々長として、
中開の生きる途は和隣する日華開園の抗替にあらずして捷挽にあり、
輌圃柑捌け合つて初めて雑拒を肌徹し、その折北を全うし待るもので
あるといふ信念をはつきhと唱へ日本との間に常時蠣つて居りました
各搾り難問み決併し・醍に圃交打開のために心血を注がれたのであり
ます0併し・その聞政敵のために北づ片腕と摘む外交部次位牌布某氏
が上海仲租界で兇徒のピストルに出れられたのであります.雄いて御
自分も帝京で所民先の集骨の席↓敢弾を受けて傾き産に志か簸げずし
て・その地付む去られるに至つたのであ卜ます.その荷後の場合に於
きまlても・汗兜生ほ身にl表の弾丸を受けながら.従容とLて毅然
たる態変を持ち繰けて居られたさうでありまして、托夫人も亦女史犬
たるに恥ぢない心掛で挙りま↑・この…来季は我が失に輿へられたる
天の使命であり・天にして若し彼に更に大いなる串業を成し速げさせ
る鎌りであるならば・彼は必ず1命む取止めて、再起†ろに違ひない
といふことを官はれたさうであります.その覚悟と藩鼠込には、聞く
人†皆ほとほと感に打たれたといふことでありま†.
1昨年末慶を出て来られますまでにも、随分度々抗戦といふことが
鞭蛮であるといふことむ説いて燕介石等と敢然と概論を交し、遜にハ
′イに出て罪られたのでありまして・ハノイに於きましても.罪界側
の手は江先生を狙つたのでありますが、誤つて晩心の骨仲鳴氏を籍し
たために奇抜的に助から九たとい 攻鵠であ巾ま`
× ×
これ∈分¢ますやうに、江北坐が今旦詩つて居られま†生娘は、我
我同党拍の平生を織つて厨巾ま†ものにとりせ亡ては、決して耳新し
いものではないのであ巾禁して.十年一日の如く唱へて屠られま†。
末梢の興畦・目撃の協力・中開の更生・トふこの信念が、研なる表現
を以「噴へられて居るに過ぎないと混ふのであります。托先生は又、
昨年出来・園民政府内外の同怒の人々に封Lまして、全而和平が到来
するまでは、新秋拝の先瀦老でありま†.日本軍と態秩序の走狗であ
る中開側の血ム昭」轟ひが招けられて揺るのであゎまして、その聞、
拭民政府は日本側と協力1て、その目的速成のため焚力を紐すペきで
ある・併しその目的を薙げるまでは繋な芯しほ出来ないさ発情をしな
ければならぬ。抗批心苦しいのであるが、和平の閑ひといふものは、
さらに苦しいといふここを上く粁らなければ和平の耶土たる朱柵ほな
いといふことを、繰返して同志を蝕まして居られろので丸ります.
江先生は瀬越せろ政治家セぁりま†と同時に、現代東郷が生んだ最
も勝れたる詩人の一人であ町ます。その斡を絹みま†と、来洋描帥に
徹した愛国者である先生の河両目がよく分るのであります.
(1(;)
モれから、究先生か由q分の知衣を偶せられるや領めて粁いのでありま
Lて、飼を上げま†れば、先程申上げました曾仲唱氏の如きは、その
御兄弟が革命の先払者として尉托されたのであむます小それ山水江先
生は、曾仲鴫氏を親身の弟のやうに愛睡せられて来たのであ勺すナ・
叉甘仲鴫氏自身がハノイで兇時に崩れて以来は、その未亡人′速見と
に射しましては、賓に行偽いた世簡をせられて居られるのであります・
曾仲鴫托がハノイの客含で朗死の床にありながら「紺事を托するに江
先生あ巾狭卒を託†ろに我が婆あり」とさけばれたといふ語亡あ勺ま
す.それは繋に故ありと恩ふのであ巾ます.また碓文先生等と共に・
革命のために轟挿してそのために、命を落されました我が闘志士があ
るのであ巾ます。例へげ今‖払おいでになりま十川胴純三郎氏の兄上
の如きでありますが、こ九等の人々に射しては轢い席謝エ艮蛸の憫を
清掃けて居ら九ろのであ巾ます¢又特命のために韻力せられました・
故犬婆翁や.岡山さん琴の方々に射しまして屯極めて謙娘な態鼓を似
て縫始これに接して居られるのであ=ます。又先頃御円分で尭唱され
て、陶民政府に放きまして決定を見たのであ勺ますが、今年の秋を和
しまして、これ等の日本の同意の人々の中亡くなられました方々の姐
特を招大に行ほれるといふことになつたのでありますが、これ等は溌
に先生の奥擬しさが偲ばれるのであ巾ま†.
又日米照準中に師弟の湘休む蹄ばれました万々例へば故柑博士や−
官許博士の方々に野しましては.常に潔い思茶の念を抱いて居られる
のであります。今岡もお忙しいプけグラムむ刺いて、お耗歩巾かされ
たといふことは御存じの通りであ巾ます.
y Vハ
今年の也月牟ば輿些凧帝繍大畢の名♯秋津であります山門三良先生
が、他に申者の方々を窄ゐて商談に参られたのであ勺ます.その時、
江先生を御訪偶になりましたのでありますが、その際旺先舷は≡十入
年前に法政大挙に革ばれました常時.その常時の恩師であります、山
田先生をよく準ズてをられたのであ〜まして、非常に惧しげに種々昔
のことや拳岡のことをお謂になられました。別れるに薗つてほ、自分
の器官に郷自分で「鍵生江兆銘」−耕名して山和光生に盤上げたので
ありま†ゥこのことは常時私に桐りまして机恩師であらせられます山
田先生卿積甘が感激に満ちた御常媒キ似て私に耕しくお漏らし下さつ
たことであ巾ますP今柾の娘行小机平生の盛り、極めて簡素な生汚を
械けて居られるのであ巾ます.御H分時のために同解の人々が.迷癒
しないやうにといふやうな粘に付きましても、特に呆を使つて帰られ
たのであわます.このこと埠は的にその輿体しさに打たれたのであり
ます.
× ×
ちやうどいまから六、七年前の破る日のことでありますが、帝京で
英、米、狗、俳専各例の外交官の適中が集まハまして、私共難儀をし
て厨つたことがあるのごあります.たしか常時行政捨所長の窯咄にあ
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らせられました、今日駐日大使であけます渚地租怯も同畑だつたと記
憶して厨るのでありますが、その横詰が常時の托外H叱溺々長に及んだ
のでありま†。托部長が中規青年の熱札的の入試を拒めて居られるば
か巾でなく、内外人を通じて、一皮魯つた人を心から引附けてしまう
といふあの魅力はどこから椚るのであらうかといふことが話超になつ
たのであ巾ま†.或る人ほ先生のあの美しい琴晋eあると言ひ、或る
人は先生の澄みきつた目つきであると雷ひ、或る人は何と旦∃へない
温みのあるあの瀕事項であると冨ひ、又或る人は封議中現される構錬
されたるあの態度であると言ひ、結局その絶ての屯の穀ひつくるめた、
笥はく、官ひ難しといふ溌るものがあつて、それであらうといふこと
になつてけ巾がついたのであります。
私かに恩ひまするに、これは、今まで申上げましたや・−な托先生そ
の人の光沢な人格そのものからにじみ山て来る#榊災にあるのでほな
いかといふふうに凰はれるのであります.
× ×
最後に時に申上げたいことがあるのであ巾ます。それは托発生が抱
いて居られまする信念、即ち、東亜を防衛しこれに新しい持州を吹込
むがためには日華南酎の心からなる盤琳が偉も必朝であるといふ同い
府念は、琵先生が日本のお蹄柄に野しまして、津キ」湖畔を以て磨られ
るといふことに基くものでありまして▼殊にその我が盛事に射する携
帯なる寿を、▲牡辞しで▲厨られる蕗が特に申上げたいのであ¢ます.
昭和九年に先生が帝京に於きまして、兇漢のために狙撃せられたのは
申ヒげた通りでありますが、その畔常時の我が有音大使は 天皇陛下
の鳳召しを捜せられまして、現しく病院に榊見舞に行かれたのであり
ます.
× )へ
その曙碓光生は資に敬虔なる領虔で、大使を迎へられたのでありま
す.苦橋を忍んで病淋に起上つて空恩の市さに感泣し、建んで 型昏
をお受けになつたといふことであqます.そのことは常時有音大使か
ら私も親しく伺つたことであります1叉その感激ほ今も、琵先生の胞
に釈なるものでありまして、そのことにに付きましては今度の族行中
江先生御自身も特にお話されたのであ勺ま†.今庄真備として宮中に
上がられまして、 梨上陛下から有雄い御青海を賜られたといふこと
を流れ乗つたのでありますが、この憶に放きまする琵先生の感激は更
に深いものがあつたであらうと御推察申上げるのであります.それと
典に我が 天皇陛下の御凌威が背く束拒の天地に照り坤きまして菖人
吉物その御恩辞に潤ふといふ有難い有様を日のあたり弗察されるやう
た心持がいたされるのであ巧ま†ご」れを以ちまして私のお話を終り
ます. ハ六月二十三日放彗