東亜の新しい秩序
支那事変が始まつてから、四周
年の記念日が近づかうとしてをり
ますが、この折、江精微主席の一
行を迎へ、日支両国がい上い上し
つかりとお互の手を凝りしめると
いふことは他県に恋並迦叩いことであ
ります。
私共ほ今日太閤民として来宮有
の長期戦を戦つてゐるのでありま
すが、私共が矛をとつて立ち上つ
てゐる所以は申し上げるまでもな
く斬らしい東拒を築き上げるた
め、即ち東維新秩序を建設するた
めであります。 、
新しい東禿を築きとげるとはど
ういふことかと申しますと、来演
に射する欧米列強の傑鴨を排ひの
け、中国人の中励、束漁民族の東亜
をつくり上げることであります.
欧洲諸堵の勢力が末純に伸びて
氷たのは非常に古いことであ巾′ま
すが、この侵略の手が直哉文科に
喰ひこんで来たのほ今から丁度甫
一年前我が天保十一年におこつた
阿片数学から後のことでありま
す.
この阿片教学から後、箕郷は故
米列強の侵略をうけて、全く和立
閥とLての働きを失ひ、欧米列強
の植民地となつてしまつたのであ
巾まして、それ締りでなく、支郷
は欧米列強山東洋政競の根城とさ
へなつてしまつたのであります。
それでほ欧米列強の丈洋政洪と
は何かと申しますと、それは東洋
を永遠に己の駒の杜氏地として、
(38)
Lほ巾とるだけはしほり七つてし
まひ.丈喪を氷久仁収湖にして智
かうといふのでもりま†。−」の欧
米列甥の政躯から見ますと、一番
邪魔になるのは日本であけます。
日本のやうに力強い団が東洋にあ
ろ以上、東洋を恩ふままにするこ
とは拘禁ないのでありま†。絶つ
て槻米列強ほ、換に陽に民木を抑
へつけようとしたのでありまし
て、支那ほこの軟牡列強の凡本に
射する政策の足場とさへなつたの
であ勺ます.か〜した緻米列強の
勢力に操つられ、尻押しきれたの
が雑介石地横でありまLて、満介
右政地は欺米列曙の手先となつ
て、抗日に狂新し、藻に♯弊をひ
きおこすに至つたのであります.
これが支淋苛簾の原樹であ¢ま
す.この股凶を無くさないかぎり、
文拒水追の平和といふものは、穎
掛に甥現することは出来ないので
あります.硬楷永遠の平和をうち
たてるた仏には、どうして色欲米
列強の手足となつた蒋介石政括を
亡ぽ†ばかりでなく、そのうしろ
にあつてこ九む助け、丈稚をかき
乱さうとすろ勢力▲ゾ衆拍から払沸
はなければならないのでありま
す。
私共ほ、−」のために丸ち上つた
のでありまして、愁痩が朝職とい
はれ、発掘托施の開放、瀬汀山東
洋シ甥硯するための鞄ひであると
言ほれろ僻川であります0粗糖ほ
かくも大きたb他のために柑つて
ゐるのてもります。悦米列鈍り鮎
洋侵略は.H年はおろか、一.打年、
ニニn年っ順史を柏つてJど巾ます。
この長い撃ノ却つて牌米列強は求
の洋各地に噴ひ入つたのであ勺ま
すから∵」の接米列減の努力を澱
浮から除くことが、山河一夕に出
来ないのは化然であ巾ます。骨の
組まで喰ひ入つてゐるこの効力を
一塩サるためにけ、椰岬…長い年月
を以て、徹底的に勒はなければな
らないのであります.箕郷耕襲が
長制敬を必」竿‥し、長渕望はを必
黎とするのは、この理由に上るの
であ¢ます.
今陀ひ戌かないと、東一呼水述の
平和む打ち村てることは圏ない
し、東寵民族の開放といふことほ
永遠にその槻禽を失つてしまふの
でありま†.
日本は、東正嘩狭のために、家
格摺族のために粘つてゐるのであ
ります。東雅民族の開放のために
は∵碓氷日本と支欄の嗣揺払は手
をト.り合つて、頂命を北ハにして戦
はなけ.ればならないのでありま
†0然るに稗介市政槻は、この窓
昧み分からうとしないのでありま
す。杏、分つてゐてもそれむ甥行
することが出水ないのは、猶介石
枚柚が欣求列雌の手先となつてゐ
るからであけます。
しかしこの水城揖旗の遊金を双
府に放つて−馳つてゐる日本の底
意を知ろ者ほ、あつたりでありま
す。束維民族のために亜ひを同じ
ぅし末梢百年の後に脹を注ぐもの
があつたりであります。→ての人こ
そ江柄徹主席とその同着の人々で
あります。
我が閑は昭和†三卒†一月三8
に「帝樹の糞成するところは、文
豊永逢の安宅を確保すペき所秩序
の捷黎に在¢。今次征和の究鎚の
日的亦此に存すJ とi朋致しま
したが、更にそのR近衛総理大臣
はラジオを通じて、「巳木は東洋
人としての屋に甘党めたる支郷
嘲民と和舵へて、揖に安妃せる束
鮎の天地を難かんこ1一穀欲†るの
でありますご と、政府の新明を
救朽されるところがあつたのであ
ります.
これに憶じて允ち上つたのが江
持和室碓であります。江料循主席
は若い頃糊和む窄んで描∽締政壬
瓶鵡む棋つたことがあ〜ま†がそ
の才を惜しまれて死刑になること
は許されたといふ穣の人物であ
J、愛闘の士でありま†.その内
済胡は倒れてしまったのでありま
すが、江精衛主席は革命超勤に従
ひ、肋溌民と北ハに様文夫右の七立
触となつたもので.箔介石よりほ
(きひ)
先学であります.
江拷衝車席はかねてから日本と
支那が執ふ−」とに確封に反封の態
度彰探つてをhましたが、晦和十
三年の十二月初めに、直哉帯介石
に射し.日立南国の和平を述ペた
ところ、盗m介石がこれを容れなか
つたため、丑に環碇中葉てて俳印
のハノイに入り、和平難勤を炊け
るに到つたのであります.
江主席はハノイの態家で難介石
の彦つた曙殺園のため、同志骨仲
鳴氏を失ひましたが琵主席はこれ
を難いて、野明を考し、琵々たる
和平の信念を地べたのであ巾ま
す.
この影明で江精衝主席は、
r余が誠心誠意を似て求むるとこ
ろは東寵百年の大計であるご と
いつて、某詭百年の大計からほ、
日本と支那が手を携へることがど
うしても必率であり、日本と支那
が和平しないでは凍詐青年の大計
ほ山岡でられないと紛いたのであり
まr.そしでその経りに爪餉んでほ、
「余はこの文章を牽表した後は何
時如何なる時に曾仲鴫先生に続い
て兇手に樽九るか・も知れぬ‥ででれ
は余れ招むところである。余の死
後国民鞘君が克く之ら余の鵡した
文字を熱醍玩味して、余の主張を
明確仁曾得して貨ひたい¢之が中
国の批存と掲廿に快くことの出水
ない温であるしL同時に、之が枇界
故に繋呼水洩り平和を縛るに鋏く
ことの椚米ない道でもあるのであ
るご とありまして、江主席の信
念の雛を幾ふに足るものがふりま
†.
この班梢櫛毛席の下につくられ
た斬駒場政府こそ.粥に「茶瓶民
族のため覆を同じう†る士」であ
り.「東洋人としての自発に日灘
めたる支那閲托しの政府でありま
†.
新しい支那の建設ほ.この間民
政府が舟醍に準廃して行くことに
ユつてのみ、はじめて山水るので
あり、琵精微氏を主席とする閑地
政府は、眠距新秋序の建設に大き
な役割を分繚してゐるのでありま
す.
かくして丈絶の新秩序が力畑く
恥き上げられてゐるのでふ巾烹す
が、この新秩群建設の叫ひは次い
で槻洲「於て玖唱へられ新秋序盤
設の戦卜緒けられてをり、糾しい
秋野り建設といふ−」とは今や世界
的な動きとなつてゐるので∴巾ま
す.
この時に滑り、江梢撤去碓を担
へまLJ▲ことは脛に革びに堪へな
い次彷でありまして、琵主席を音
別とする国民政府の頚鹿身心から
所つてやま山次雄であります。
(六月十八日放迭)