一億同胞の協力曾議
一億樹民の家族常骨といふべき
第一岡中央協力骨髄は.執存じの
通り十六日から大政現繁簡本部で
開かれてゐますが、→飽どんな話
し合ひが行はれたのでせぅか.極
くかいつまんでお話して見ませ
‘「ヽ
†六日の窮一日は、各方面から
選ばれました代衷肖六名と、同数
の六大椰朽肘瞞代魂を迎へて午前
九時から開かれました。地裁近衛
紘椚大臣をはじめ刷粗雑の柳川司
法大臣、願撃ニして小倉触伴析相
似下大臣万の何も繍ひました。
鹿”研汁江循絶‖野ほ、
今や皇閥む繰る世界の情券はい
よいょ緊組む机へ桝州火馳の特水に
横大の山添む辿巾つつあり.何時
全世界を動乱の巷たらしめるかも
計られない形勢にある¢
と、閣民の}韓智起を〜ながされ
たあとを受けて、かつて、太平洋
ににらみをきかせてゐた盤督誕長
の末衣大勝総
合群は形式ばらず穎漁に蛙せ
ず、家族合議のやうに、町内骨ま
たは部試常曾山やうに、和気鴎々
のうちに、率直端的に意見をのペ
るのが建前である.粥のため番い
と思ふことを敬冨†るのに何の悌
るところがあらう。讃論もなく、
批判もなく、ただ命これ従ふ政治
的秋風状態が、一世のふうをなし
たとしたら、それこそ国民の自蟄
的創造性をなくなし、盛り上る団
ヽ
民の愛覿的情熱穀殺してしまふこ
とになる…=・
どうかこの曾演をあの天の安河
原に於ける岩戸開きのあの大骨痢
のやうに、これを泣じて轟不安、
デマ廼汀の演軌糊む一桁し.閥民
みして前途山帝輔に耶き、乱雑を
沸して時熱誠附に邁剋せしめるや
う・活気に強ち拭側味の荘れた醸
民常食、家族禽破にしよう.
と挨拶をしました.
× X
こんなわけご、節減は域族常曾
としてのなごやかさの中にも、緊
池した世妹情勢女ビリつかせなが
ら弛められました.
各界代炎の池m宏氏がいの一番
に
「フランスの敗れたのは、指堵上
肝臓枇が弼敗晰淋し閉火の志気が
落ちて革柴主義に建つたからだ、
この際日本も現准の脂肪に酵ふこ
となく、時局の院柑を知らしめ、
印民柿紳の晶拶をはからねばなら
ない」
と口火を切つたのをきつかけ
に、「支那小野に国民の心を集中
Lて性懲りで行かう」
「粗均の軽命を左右する決党的瞬
ヽノ
d9
●ウ
・一.一−I■・一一I−‖邑
伽「を丸叩にして、報山晋を排して、」団
翰を一木にして、押して行か〜で
はないかJ 「大東亜弗畢鞠の鶴立
の決意をかため閉民的関心を南方
へ免綽せよJ
と.強洞すれば、宋次荊長も「こ
れはそのまま閉民の弊である」と
支持するなど、漸く熱を排びて衆
ました.
次いで.第二都の同氏組織に舶
する憫崩に移ろのですが、これは
身を似て大政焚賛の地方組織と四
つに組んでゐろ地方代表の潤増
上、
町内骨、部落曾を下郡組持とし
て汚▲用せ上
背壮年の租出を強化せよ
などと、地についた鐘設的怒見
が出、第三部の行政機構の刷新運
用の間領については、官界新絶榊
がいろいろとギ盟されて第】Hせ
絶つたのですが、今までのやうな
大政巽懇ハ曾についての抽象論など
少く、「胃の讃論上りも旗山鳩」とい
ふ大官民の朱持がうかがほれまし
た.
X X
第二日の十七日は、彷川部紬済
椚他、那茄郷党紺竹薮、約六郷数
背文化の例題、耶七稚堵増額括榊
掛について、希代裁から恵几がの
ペられ、粘かでした.
食粗相療では、将藷のための米
佃の引上げ肥料の竹和の渉招など
‖たつに糾して、ハ押出柵火〓は、
政府として十分考へてゐるが→結
局出村に放ける時局諷識が必嬰で
ある.椰何と接村は手をとり合つ
てはしい」と反省を促したあとを
史けて、浦榊移民の内原訓杜所の
洗、加藤仙忙治代は、農村の心瑚ほ
金ではきかないと思ふり
と農民道をといて広剣な冷試が
行はれました.文相代炎り}人菊
地懲比は、
「中等準横の入拳河漁を褒へ内申
制墟をやめて抽奴にするがよい」
とやつ丁世の執心に訴へました
」刀
これにほ先づ反射論が飛出し、
くしくも同じ苗字の文部省の菊地
次官が、「現在の制度で改むべき
ものがあつたら改め上う.くじ引
きは教育の根本を破壊†る、===」
と述ヾて、おあづけになりまLた.
‥X X
この日は朝の入時から晩の七時
まで、賓に十】時間、三十二名が
☆つといふ勉強粥り、しかも科済
代議科準代韻、文現代衆といふ脈
かさで、紅三脇のうち二人も立上
りました.
桐淵と⊥女史は、「家庭生活ほ
私事ではなく、公のものです.こ
れは直接閥域につながる謁大間鳩
です.生活を根本から輿へて新出
卑†る必挙があります」と大阪市
でやつてゐる家庭先括研飽制の生
きた架例をあげて、祭図の主婦の
指導の必要をとけば.教埠の木内
キヤウ女史は、しんがりを乗つて
働く母への渇い保護の必牢を訴へ
て、掃人代表としての下惜J洩を
行ひました.
またこの日、代表の一人住友鎖
菜の三村起一氏から、大阪の董
需工場の出来串、
それはトPツコ、もろとも糾つ
て姐の中に引き入れられ、全身A
黒にな勺鵡の息の中から、
「ここで死んでも大場で柁んだ兵
除さんと同じでせうかご最後に
かすかに 天曳倭下端歳を窄喝し
て息u準えた.一能架粘土の件/、も
ぅるはしい語超が紹介さ九「嘲塘
の職殉」に封する同家的議形を主
張されたのも人々の蜘をうつもの
がありました。
X X
かうして二日に亙る組合は経つ
て、十入日は七部に分れて黍負骨
が聞かわ、今日十九Hの把禽で各
香艮長の報告が行はれ、政府側の
役員からも答へがあつて一層括架
づきました.
今〓は妙疏、瀬訓小の汗柄杓式
椰桝迎の憩を表すれば、それに答
(さア)
へるやうに、宜伴都の林伯生氏が
ひ上つこり倉場に現はれて傍漁、
文字通りの日華弟香の常曾、また
この日娃衝楓汲もみんなといつし
上に箱群をかみ込むといふ、家族
曾誘拐りを見せまLた.そして午
後から明日にかけては、「生産力
洩売方策如何といふ諸岡を中心に
懇談昏が開かれ、この協力合議の
叢を朗ぢることになつてゐます。
さて、一取上げられた間髄はどう
なるかといふ山間髄で†が、それは、
運営委員倉を演じて政府へ具申さ
れるもの、調査委員昏にまはされ
るもの、下部組織を洩じて賀壊さ
れるものとそれぞれ‡行に移され
るのです。
× ×
この五日聞の団民常魯を通じ
て赤裸々な各方面の盤情と至誠史
一国のうつぽつたる情熱が、下璃上
流されたのですが、末次講長のい
ほれるやうに、いひ放し、相同き放
しでは何Fも。罫姥がありません0
そこで政府では、この合一の上申
に基づいていろいろとこれからの
政治の上で考へて行くことは勿論
ですが、国民の「意のあるところ
をいつたから、あとは政府の仕事
だ」と冷かに考へるやうなことで
はいけないと思ひます¢
何しろこのむづかしい時代であ
り、何をやらうにもさう簡単にや
れねときですから、南方で歩みよ
り、力を合せてやつて行くより数
万ありません。政治するものとさ
れるもの、上意下建と、下憫上通
とが、仙樽然一段になつてとけ合ひ、
一也となつて行くところに民の一
億}心が生れるのであつて、この
争議がさういふ大きな収穫を得る
やうにありたいものです.
この常曾を通じて、大政艶賛曾
の帯出凄もさらに具性的の一歩を
進めたのです。これから中央.地
方を通じてみんなで力強い、盛り
上る楽焼に移らねばな勺ません。
ニハ月十九日放送〕