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  江精衝立席
  訪日の意義
     淋.諾粥 馬 淵 逸 雄

 中華民国々民政府首席行政除長江楕衛級コは・我が朝野の増大なる
欺迎の中に昨朝紺戸に入推せられ・本日午前入時四十五分口車術所々
交上座史的意義軟い帝都入りをせられたのであります・本日中華民国
の大使館に入られるまでは行政臨長・即ち、日本でいへば尭撒者の地
位にあられる人であ巾ますから、宮中の御偶式には中準揖岬の元首の
郷資格でありまして、我皇壷に於かれましては、絶て鞄先例家の元首
を迎へると同様皇室の御賓客としての意過を辱ふしたのであります・
我が憐としましてほ、外囲の元首を正式を迎へましたことはこれで〓
同日であります.即ちそれは浦洲留皇帝陛下を倒迎へして以来のこと
でありまして、日本の應史からいつても、東亜の歴史かちいつても・
京大なる安泰を有する盛儀であります.
今岡江先生が日本を訪問せられます本営のお束縛は、日支基本嬢約
が根絶ばれた掩脅に、特に食徹し窄る日本の 天巣陛下に兜尺し拳勺
ぉ絶を言上申上げたいといふ破顔なるものでありまして・それが今ま
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で椰今によつて延びて居巾ましたのケ、今M壮行せられたのでありま
†。批朗ではややも†れば先生がこ爪初日の槻禽に何か日本に托文を
つけたり、或ひは何かいひがかりをつけるのでほないかと、いふやう
やうに考へるものがあるといふことでありますが、かくの如き不純な
ろケチな考へは先生に限つて毛頭なく、ただ粁民小絶の日本の悶絶に
槻れて出己の信念をしてこれが蛙瞼の礎たらんとするにあるのであり
ます。昨日紳戸に上陸せられました時に日米の官民、頭是ない子供ま
でが喜び迎へる有様を見て、側近のものに湖された中に、天鼓の大御
心を官民一晩となつて心として迎へてくれるといふことは約に和難い
ことで、この官民一線の圏の賓には何ともいへない感機せら九たとい
ふことでありました。又上演の途中で碓粍耕土山を仰ぐことが何上り
も柴しみで、汽革が沼浄む過ぎると〃嘲であつたにもかかはらず、早
くから眼耗を盤へて紳さぴて高く食い欝士の斐む眺め、側虹の人々に
「あゝ富士だく」と日本語で繰返されたといふことであります.
 先生訪日の次の目的はこの繊昏に於いて北姑が和平銀脚糀勤む開始
以来日本朝野の絶大なる軍授.支持に料し.感謝の怠を窮するとゝも
に、日米朝野の牢賂と胸襟を開いて熱誠鞍薙げ日報輌刷り猥鞘む辞め
んと†るにあります.
 今や世界情勢は塩めて冤犬なる桝態に北至り、安郷革鍵は枇牌の勒
撃と}遜一環をなし.東亜に於ける‖支の動きが機嫌なる商機性をは
らみ、東大なる時観であり、殊に内外に及ほす影響は大なるものがあ
りま†.殊に焉慶拭椀は英米の支授む悼み.四億拭衆を抗敬抗日に徹
底せしめるために、江政府をもつて日木の他備であり、江政府には主
樺も私立もない、紀衝#明も、旺安野もみな虎偶の宜停に過ぎない、
江政府は結局日本の侵略の発射をなすものであると宜侍し揖衆をして
これを信ぜしめんとしつつあるのであ〜ます。日本に於いて班先生を
掲寸劇たる中華民均の元首として、又行政院長として、これを知遇し
所民撃つてこれを蠍迎するといふことは全く日本が閥民政府の確立、
主榊を食冤し、闘民政府の主棚の存在を認めて、電彪政鵬を認めない
といふことはこれが菰超側を初め、第三閥に及ほす影響は大なるもの
があるのであhます.
 群先生は、青年時代から蚊蹄文先生の大アジア主義を壊現すペき使
命穀以て、大アジア主義の県の絶唱老としての信念に生きて雑た人で
あります.之が岱戟乾か沌生の巻をくぐつて衆た人であります.江先
生の信念と†る犬アジア主義は日本とは擬携しなければならね、8支
の紛寧は局地に於いてこれを解決し、全面的紛牢に溶くことは板力こ
れを避けなければならぬ。日支が全面取替に障つて流血の惨を見るこ
とは、東弘をメチヤメチヤに導くものであるといふ考へをもつて、支
那一L挽‖気勢の湖り渡つた時、敢然として日支不純事件の矢面に立つ
たのであります.彼の凍一周の上海串奨の際に、日支の停戦協定を取
結んだのは常時行政院長であつた江先生であり、又北支停職協定を塘
活で締鴇したのも行政暁長乗外交部長であつた江先生でありました.
この時先生の股肱であつた外交部次長麿有土は暗殺されたのでありま
す.それから叉、彼の有名た梅浄何勝欽脇完穀締結し、さらに埼清協
定を内常吉方面に延長した軒、土肥煉秦憶純協淀も、その常時の糞任
者は江先生でありました.これがために過概分子からは肝浦頑闘士と
周られ.きらにピストルで狙蝶されて身に三坪をうけ、その一和は今
もなほ先生の身に喰込んでゐるのであります。満潮掬の粍水盤に8本
(2B)
のとれに珂†ろ親馳ほ、甘受湘係の淑化に拍革をかけたのでありまし
たが、江先生は時の外交部長として沌洲との漁交、滴郵の問題を解決
致しましたごれは常時の中南としては随分恩ひ切つた措庶であつて、
今日中屠が浦洲周と相互乗私の端をなしたものであります。右は冤要
開祖のみを拾つたのでありますが、このほかに各桂のE支軍要案件を
慮理して、再開の不幸なる全面衝突を起さないやうに努力せられたこ
とほ.先生年生の事賀が蛾群にこれむ物触…つてゐるのであります.江
先生が兇蝉に体つき政治の衆面から身を引くや日巽南願の関係は森化
の→途を辿り、轟に今次支那事声となつたのであります.事艶勃撃と
ともに甘木ほあらゆる努力をして不棚犬、局地解決をはかつたのであ
々ますが、大勢の赴くところ姐大の一途む払りこの不率の林野に立至
つたのであります。
 日本が近衛野明に上つて、事康成矧の大方針を陶明†るや江先生は
甘宰」れ穎上取へば南開とも砺つき.中吼は白木と和することに上つ
て銅盤を保ち、日本と和することに上つて中岡民衆を救ふことが出来
る、日立ほ兄弟壇にせめぐの執をやめてともに東亜の釈秩序建設に協
力し、文雄を併放すべしとの信念に燃え、敢然霧島を脱出してハノイ
に重り.さらに上海に来り.一兵をも徒へることなく身を日本軍占領
地域の広只中に偉き、雄々しくも和平建兼ラ動を展開せられたのであ
りま†.
 私は江先生が上海に衆ちれて和平濯動を旋開せられ、その筋一撃を
上海故蓮局に於いてあげちれる常から、座主その轡頓に凍†るを得た
のでありますが、紋潤笛丈の記録を鵡へて来られた方とも見られぬ柔
和な優しい、洗練された文化人であり、併し烈々たる意気を内に包耗
せられ、その抱擁力はよく同着を統制睾起し、同意は命令せずして絶
対服従するといふ有線であります。これは谷萩大佐から伺つた楷であ
りますが、江先生がハノイを脱出して上海に到着せられると間もなく、
血液の検査をしたいといふ話があつたので宿舎の近くの海難病既にお
陛話すると、その日の中に血液緻査を六†敷名のものがやりましたが、
琵先生は0剖でありました.それで同志のものが口々にいふことには、
我々が翼慶に封抗して和平連動を展開する以上生命ほ勿論投出してゐ
る。ハイノでは控先生の股肱曾仲鳴氏が曙殺され・香招でほ同恵のも
のが迭漏ざれ、林柏生氏−今の宜停部長でありまして本日琵先生に随
行して来られた方であります1も兇漢に狙撃せられたのであります・
これからも、上海でほ同志が兇坪に仲れることを覚悟Lなければなら
ぬ、お互ひに命のある限りお互ひの血を分け合つて、皿彗の場合は牧
血をして奮闘しJう.と堅い爽bを立てたのであります・旺先生の血
の熱は確か0型でありましたが、それを見て同じ血の烈の同志は操を
流して、俺は江先生と同じ型だ、琵先生に蕗一のことがあつたら憎が
輸血をすのだ、といつい泣いたといふことであります∧二昨年度上海
に於いて和平浬動尿閑以来什れた同意の尉覆祭が行ほれたのでありま
すが、その閏年年の間に六十八人の同意が外れてゐるのであります・
誰かが今度は碓が六†九人日になるであらうか、と口を切つた時に江
先生はスツタと立上つて、六十九人日のために態め乾杯しやうでほな
(23)



いか・といはれた瞬間敬虔の気に打たれたのでありま†.
江先生がハノイに於いて曾仲鴫氏を失つた時、烈々たる信念をもつ
て東絶百年のために呼びかけた、いはゆる二女弊明のために宵仲鴫氏
が除終の育♯として・団政は琵先生にあり、家革は我賽にあり今や我
は心配すべきJとなしといふのがありますが、全く同志はその気持で
同まつてゐたのであります・又この輩明の中に次の嘗襲があります.
出来ることならば予が先に兇時に什れたかつたゥ予はこの文節を頚表
した後は、いつ如何なる時に曾仲鳴先生は次いで兇手に什れるかも知
れないが、それは予の望むところである.予の死後、同氏拍常はエく
予の残した文字を熱鯛含昧して、予の志を明確に親常に威催して頂き
たい∵Jれが中粥の生存現立に不可放であると同時に∵」れが枇界故
に未申水逢の平和に不可秋のことである云々と、汗兜弛を小心と†る
緒戦・璧口はかくの如くでありまして、我古式士に見るやうな信念の
強国ほ常数に債†る次第であ巾ます.
 この情念、この熱伸あればこそ最も閑雑なる環境を克服して開局政
府を南京に改組遁都し、埋邦二週年にしてあの政治力を築き上げたの
でありま†・先生はヰ舞前・抗日風潮四宮傲州に濡つた中に対日外交
をなし簸げ、又事鍵の混食中流日蝕の燃へ感つてゐる瞬只中に、敢然
困を救ふために和平に邁進したといふことほ、飴程のふ璧必と功気がな
ければ出来ないことで、世界の政治家の中でも、これだけの修練を積
み、皇混の明かな政治家は蝕りないと息ひま†.
 先生今岡の日本訪問の意義については、先にものヾたところであり
ま†が、これを迎へろ耽々嗣民としては、洋先額一行が血みどろにな
rづて命がけで仰大たる挑圃のために☆働いてゐろ人速であり、又命が
けで日本訊問をされたといふ、
その心意気を壮としなければならない州
のでありま†D日本詞民の中開鶴園に対する熱意は、潰憾なく蒙挿さ
れてゐろのでありまじて、この銃後閑内に琵先生を迎へる我々銃後常
民としては、戦場の兄弟同胞と同棲の気持で、然も直例の束縛で賊意
と熱意とを夢げて迎へるペきであります.開局としてあらん限りの敢
迎をつくすヾきであります.
 先生はいはゆる代衆政治家でありま†戚式張つた官の枇迎よりも、
陶襟計開いて贋く民衆と擬簡†ることを心から老び又希望せられろの
であります0今岡我が閉曳の中に盛上つた琵先生薔歳の瀬は、期せず
して象に閉民大食にまで襲果敢さうとしてゐることを阿いて、甚だ愉
快に感ずる次第でありま†.この盛況こそ床に次が嘲民が先生を迎へ
る圃の表規として、必ずや江先生の感粥女将することと信ずる次第で
ありま†0先般換同外相がドイツに擬した時ドイツ朗民の熱誠溢れる
敬迎は、日本の朝野に如何なる影響を輿へましたか、日本は琵政府と
ガツチリ組んで行くことによつて、支那事艶の聯決は見出されるので
ありますから、−」れほど緊密の事柄はない背であります.東鵡新秋序
建設の熱意を有する閤民は・恰もドイツ開が公開外相に示した如き熱
誠渾れる感情を持つペきであります。日本覿民が江先生に封して示†
熱誠こそ、事醍聯決の熱意であり、発意新秋序無芸紫蘇でありま†.
支那四億民衆は内心平和を畢みながら、和平か、抗戦かに幾つてゐろ
に封し、我が日本開局の事典解決の熱意は、上くこの四億の民衆の心
持キ汲み寧りなければならぬのであ巾ます.
                      ニハ月十七ヨ放送)
(24)

(六月十七日放送)