国防保安法の施行 司法省刑事局長 秋 山 要
今議会を通過した国防保安洪は、昨日より施行せらるることとなり
ました。仍て此の機会に同法制定の理由と其の内容に付き簡単に説明
致します。
皆様御承知の通り近代戦の特色は、国家総力戦たる点に在るもので
あります。従つて、総力戦下に於ける諜報活動の目標は単に軍事上の
秘密に止ることなく、広く外交、財政、経済等各般の事項に及ぶこと
は理の当然でありますし、武力戦と併行して宣伝、媒略等いはゆる秘
密戦を実施して敵の戦意を喪失せしめ、内部崩壊を企てることも亦自
然の勢といふべきであります。今や我国は支那事変を遂行しつゝ盟邦
と相携へて東亜新秩序の建設に邁進して居るのでありまして、我国に
対する敵性国家の秘密戦が今後愈々熾烈化することを予期し、万全の
備へを為さねばならぬのであります。
然るに我国の法制は従来斯様な国際的秘密戦に対処するに付き、遺
憾の点が尠くなかつたのであります。即ち之を刑罰規定に就いて見ま
すならば、軍事上の秘密以外の国家的秘密を保護すべき直接の規定に
乏しく、外国の行ふ宣伝謀略を防止すべき法規亦不備たるを免れなか
つたのであります。更に、之を刑事手続に就いて申しますならば、此
の種事件は其の特殊性に鑑み、連絡統一ある一元的捜査を行つて、一
挙に諜報謀略網を粉砕し、合法的捜査を実施して国際的紛議発生の余
地なからしめ、他方、操作及裁判手続を特に敏速に致すと共に、審理
の過程に於いて熊密が漏泄することなからしむることが肝要なのであ
りすすが、言行刑事訴訟法は其の必要を十分に施し得ないのでありま
す。かかる法制上の不備を整備して、外諜活動より国家を防衛し因て
以て帝国の安全を図ることが、本法制定の眼目であります。
本法の規定は第一章罪、第二章刑事手続に分れ、全文四十条より成
つてをります。
第一章の規定中最も重要なものは、国家機密に関する規定でありま
して、第一条に国家機密定義を掲げ、第三条乃至第七条に於いて国家
機密に関する罪を規定して居ります。第一条に依れば国家機密とは、
国防上外国に対して秘匿することを要する外交、財政、経済その他に
関する重要なる国務に係る事項であつて
一、御前会議、枢密院会議、閣議、又は之に準ずる会議に付せられた
事項及その会議の議事
二、帝国議会の秘密会議に付せられたる事項及びその会議の議事
三、是等の会議に付するため準備したる事項其の他行政各部の重要な
る機密事項の一に該当するもの及之を表示する図書物件とせられて
居ります。此の国家機密はその性質上当然に秘密たるべきもの即ち
自然秘をいふのであつて、特別の指定を待つて初めて秘密とせらる
るもの即ち指定秘ではないのであります。而して具体的事項が国家
機密に該当するや否やは其の事項が第一條の要件を具備するや否や
によつて定めらるべきものであり、結局裁判所の判断に待つて決せ
らるべきものなのであります。燃し乍ら取扱の慎重を期すると共に、
理論と実際の調和を計る必要がありますので、本法施行令に於いて、
主務大臣又は会議の長等は国家機密に属する各事項に付、其の取扱
者等に対し、秘密保持上執るべき措置等に関し、必要な指示を行ひ
且その指示のあつた事項を表示する図書物件には一定の標記を附す
べぎ旨が規定せられてもります。かやうな取扱が行はれて居るとい
ふことは、裁判所が国家機密を認定するに就き重要な参考資料とな
る訳であります。
国家機密は前述の通り、最高度の機密でありますから、之を保持する
者は特定の官吏其の他少数の業務者に限らるべきものであり、外諜活
動も亦此処に集中せられるものと予想されますので、官吏其の他業務
に因つて国家機密を知得領有する者が之を漏泄することを厳重に取締
ると共に、外喋又は其の手先の活動を抑圧すれば概ね防諜の目的を達
し得る訳であります。仍て本法は先づ業務に因り国家機密を知得領有
した者が之を外国に漏泄又は公にした場合に於いて最も重い刑を以つ
て臨み、夫れが過失に因る場合をも罰し、更に外国に漏泄し又は公にす
る目的を以て国家機密を探知収集した者其の者が国家機密を外国に
漏泄し又は公にした場合に対し重い刑を規定してゐるのであります。
更に本法は国家機密に関する罪の外、三つの罪を規定してをります。
その一は、外諜又はその手先となつて活動する者が情報を探知収集
した場合に関する第八条の罪
その二は、外諜のいはゆる謀略宣伝を行つた場合に関する第九条の
罪
その三は、外諜がいはゆる経済謀略を行つた場合に関する第十条の
罪であります。
次の第二章は刑事訴訟法に対する特則に関する規定でありますが、
特に注意すべきは、本章の規定の適用せらるゝ範囲は第十六条に規定
せられて居り、それに依れば第一章に規定すろ罪に対する事件に限ら
ず、広く思想、経済破壊等の謀略に利用せらるゝ虞ある罪に関する事
件にも亦適用せらるゝといふことであります。
第二章に規定せられた特別刑事手続の要点は、大体次の三点に帰着
するのであります。
その一は、捜査の中心機関である検事に対し相当広汎な強制捜査権
を賦与したことであります。
その二は、控訴審を省略し、原則として二審制度を採用した事であ
ります。
その三は、弁護士の指定制度を創設し、司法大臣の予め指定した弁
護士でなければ、第十六条に規定する事件の弁護をなし得ないこ
とゝした外、弁護人の数、弁護権の行使等に或程度の制限を加へ
たことであります。
以上で大体の説明を終りますが、非常時局下一人たりとも本法に触
るゝが如き者の無からんことを切望致す次第であります。
(五月十一日放送)