日仏印経済協定の成立 情報局第三部長 石井康

 日・併印経済協定ほ、争議に亙る南国代表者の努力が繋を錆びまし
て、五月六日午後四時、外相官邸に於いて帝閑側金棚委員払岡外相.
熟音大使、併絢爛重油アンリー駈8大使、ロバy名替地督の四条柿の
間に正式調印を終へたのであります.
 摘みますれば、昨年九月皇革の彿印平和池駈後、爛もなく十月二†
−日併印河内に於いて、ドクー併印紙督と、我が松宵大使との聞に、
日・伸印穫済交渉が開始されたのでありますが、督時の閥惰博労その
他が田をなし、捗々しく池まなかつたのであります.その径俳醐側の
希望もあつて、曾淡み東京に移すこととなり、十二月中旬作木閥より
P.ハン特低位節、及び副閲兵以下十六名が来朝し、十二月三†日、鮪
】同文試合淡を閑地し、爾来祈硬を正ねた綺梨、今他愛締を兄るに重
つたのであります.
 日・伸印耗済交渉受給の緒兵、日・併印触済陥係は益j緊密となり、
東亜に放て日・併開閉が協力することになり、我が大架沌共巣周建竣
は.五歩を踏み出したといふ鮎に於いて、大きな恵維があるのであり
ます.
(彗さ)

 さて厨住航海條約の督ナに、相互の閥民及び船舶の待遇について親
宏したものでありまナウ
 即ち・日・併印相互間に於いて、入国、虚位、動産、不動意の所有、
及び使用・商工梁の漢瞭の取引、各種瓢税の眈誹、岡野倉址の待遇単
について・主として内国民待遇、然らざるものは、環塞均待娼を許興
すること・及びに給油に勤しては、辟刑として臼園除待遇を興へるこ
とを為正してゐるのであります.
 次に関税・貿易及びその決済の様式に関する協定について申します
れば・納税に対しては互ひに濃意牌待遇を的十るはか、併印は虫寧日
木品に射し腑祝免除・または現行顆條鎗窄の擬渡を詔め.その他につ
いでも、凡て蘇條碑率を諷することになつたのでおりますご」れに均
し・日本もまた主賓備印琵品に酎し、隈添上の特典を許興し、さらに
租過挽の免除についての、規淀も含まれてをります¢而して打・仰印
間の貿易関係を品!緊瀬ならしめるために.準玉宴∴心狭符捕鈎
扱轡垂褒悌印藷品の数日樽出、弛びに織維エ粟品、礁貯轡の拝本品の
野併印取出に関する話合もついたのであります.そしてこの質易の決
済は、求償制度に掛つて、相互の交椀を横渡正金銀行、及び印度支那
銀行を通し、周班及びビアストルに依つて決済することとし、一々の
取引について、外漢籍革を襲せぎることとなつてをります。.また悌印
刷は、日本が買ひつける仲印の米の支繍について、特例を舐めてゐる
のであります.
 この他伸印輸出入組合に野する日本蹄鉄加入、彿印に放ける農琴
妨薬、水力等の各櫛朝野卜射する日本舞木の加入.併印に於ける日本
人準校の開頃日・仰印爛の→蚊確汐骨誠を、淀期的に粥催すること
 時にづいても、持合がついたのでおります.
 かくの如く内容が艶笛でありますので、この悌鑓は全文≡十傲條に
上り、その粥虜丈香を入れますと、斑に尤大なるものなのであります.
昨年†月二十二日悌印河内に於いて、我が松宮大使とドクI彿印絶督
との合議似水牛歳態に亙り、その間幾多の迂飴曲折があつたのであり
まナが・本庁こごに曳を結びましたのほ、閑際情勢の形績もさること
ながら・南開使節牌の熱意とたゆまざる努力の賜であることを信じ、
ここに敬意を衷ナる爽締でありま†。
 今岡の甘●彿協定の成立に解り、打本としましては大東弘井男悶の
貯有の一が確立したといふ、政治的軍或は勿論東大なものであります
が、この他に甫l■坊■餐l翼を、衆大の肖軒としてをりま†日本の
粍粁力を、麓i弛lにならしめ岩こJとも、耗を*れないところであり
書ナ・これを併印側から見ま†れぽ、★仙拳に依巾、併米国との迩
終が十分でなく、現在技用品不足に悩んでゐる安帝人、その他にとつ
では・泳が嫌貸煩の構入に掛り、大きな詞菅を滞らされるわけであむ
ます・普た併印の経済界が次第に活況を鼻すに至るでありませう.F・
仰印の経済提携に依つて、未開頚の塑嘗な替瀕が謂攣されるでありま
せうL・また在彿印華僑の封‖蹟巧拙性閥象の旅勅を防止ナるにも
役就ちませう.落介石に封する封蝉は陳列なるものがありませうし、
事鍵以来兎角併印ルート等の名に於いて、日本国民に輿へた不愉快な
印象屯完全に珊拭され、名文ともに協力関係に入つたのでありま†.
 なほ昭和二年八月三十甘我が石井葦ハ舶大使と、ブリアン仰閉会他
の間に調印された六條より成る、「甘木閥及び印度支那聞の居住茨び航
海の制乾を澄むる概定率」、及び昭和七年五月十三Bバリーに於いて、
我が長岡春一大恍とクルデイ金牌との間に粥印を行つた七條より成る
 古本印及び印度箕郷闘の頃易親鞋を智定的に鞋むるための、日本観、
(望8)
.−1
,,ソス嘲私費勒潅」は本條約並協定の成立に放つて・自然的に拘減
 ナるものでありま†が、約二者に比し今岡の協定は・その内容が質に
於いても、盈に於いても、比較にはならないしつかりしたも灯台あり
 ま†。
 甘木は昭和七年の日・例通商僻約に依つて・悌印に於ける特凄的地
位を健得したのでありま†が、彿本駒は8木と同様エ築閑であるため
日本の1梨製品の併印准出をおそれ・その後関税引上げを未払し・馬
替位落儲からの輸入品には、蝶番補償附加紀を恍許し、剰首鮮既、又
は蹄入許可倒を毀荒する等・郁々取入制限を削つたため、白米は片貿
易の不利な状態に紅かれてゐたのであり誉す・
 桝印から日本に輸出された主唱物薄け・石桝桝・玉川刈窮、ゴム、琴
線錬.彗睦秒、米、綿花・マン声ン・チーク材等で・日本から粍川
†る主な商品ほ、捺綿、生秩・ベー右板、アスファルト・†ツナ、陶
位琴柑子、網、人絹織物・昂釣竿石浜寛束等でありまナ1新開に
放つて靡く榊通されました、併印の】部に於ける封日敵性も漸次影を
ひそめ、俳印の官民が一晩となつて、大鹿祀共衆軸の壷としての役
割を達成ナることも、今は時日の間琴ピはないかと存じまナ・
昨年九月二十七日の臼・掬・伊=面同Y成女を鞄樹として・術周外
交は大末部蒙朗確立の日舞に向つて滞々その歩穀赴めてをります・
即ち、昨年+二月≡十日の日華基本條杓・去る四月十三〓調印の8●
y中立條約.今岡の日俳印栖済協零さらに近く正式洞印が行はれる
泰・俳印嗣鱒耶紫條約等は・それぞれ大粛花井艶朗樅先のための−快
くヾからざる弊件であり、これ等がかくの如く短時日の5ちに成功を
収め、域ひは成功を収めんとしてゐるのでありまして、これは日米の
大東柁に於ける地歩が、一雄二歩柘血されつつあることは−械に御岡
慶の至りでありますe
 以上で大祭耶北ハ弊匪禁航の一段摺としての・今倒の8併印絨済解定
の概弊.」、その妄aお循し殻しましたが、我々8本国民と薮しまし
て、木協定の成立を準ぷとともに、木協定をして・凡ゆる角度から#
敷あらしめるやう、出新得る限りの努力を致さなくてはならないので
ぁりま†。     (五月六日AKより放送)