靖国の神のみたま
たたへよ御国の守神
靖国神社春の臨時大祭はけふ畏
くも 天皇陛下の御親拝を恭うし
九段の社頭一入の光栄に輝きまし
た。
靖国神社は畏くも 明治天皇の
国民を愛しみ給ふ御仁慈により、
「忠魂を慰むるために神社を建
てて永く祭祀せん。益々忠節を
抽んでよ」
との有難き思召によつて建てられ
たおやしろであります。今を去る
八十入年前、嘉永六年アメリカの
軍艦が浦賀の浜に現はれてから、
日本国中は大騒ぎとなり、国の前
途を憂へた各藩の志士は、家を忘
れ、身を抛つてお国のために尽し
たのでありますが、そのため中途
にして生命を殞(おと)すものも相次いで
おこつたのであります。しかもこ
れ等の志士達の亡き後は、弔祭も
出来ずに、そのままになつたもの
も少くなかつたのであります。
孝明天皇はいたく之をあはれま
せられ給ふたのでございますが、
明治天皇の御即位遊ばされますや
先帝の御心をつがせられて、明治
元年五月、京都の東山に新らたに
社を建てて、嘉永六年このかたお
国のために斃れた人々の霊を祀る
御旨の御布告を発せられ、七月十
日と十一日の両日河東操練場で盛
んな弔祭を行はせられたのであり
ます。
また之より先、戊辰の役の東征
大総督有栖川宮熾仁親王が、明治
元年四月二十盲を以て江戸城に
入らせられますや、六月ニB江戸
城西丸の大荻間で、おごそかな余
興が行はれたのでありま†。−−れ
が東京に於ける招魂紫のはじめで
やがて東京に紹殊敵が建てられる
瀕となつたのであ¢ます。
準えて・明治二年二日東京に都
を集められますや、斬らたに畢机
に翔鈍統を設けられる御内儀が起
り・今の九段坂上の均を浬び、直
ちにおやしろの盤管に取り掛から
れ・その榊僻鮫が出来ますや、鋭
舵の鱗を仰せ出され、六月二十九
日から七旦一言まで五日の間盛ん
なお焦が執り行けれたのであ勺ま
す。
その後明治入年になつて、書き
に京都東山の招魂址に祀られた方
方の覆をも。特に恩召を以て、こ
の招魂故に祀らしめられ、また各
晰緑でお祀りしてゐた志士の一を
もお祀り鼓ばされる由仰出されま
したのご、今日の帝国辞故には嘉
。聖へ年以来、吼のため生命を梓げ
た人々の御容が、御祀りせられて
ゐものでとぎい††。
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仙苛†こ毎rさらに息、廿にヽ▲つて
この‡諌血叩魂敵影】呵均一挿牡と執政
めの上、一別格宮山冊故に列せられる
屠山叫されました。その後、この
並の臨時大祭に至るまでお条は五
十入周、御名紳は二十者八千七首
七十大様に毒せられてゐろのであ
ります。
靖閣紳址にお祭り申し上げられ
てゐる牛ユ址町は申し上げるまでも
なく、身を約てて臣民のまことの
鵡を行はれた方々であります。
けふよりほ
かへりみなくて大君の
醜の御一礪と
いでたつわれは
海ゆかば水埼く尿
山行かば革むす屍
火照の壌にこそ殉なめ
かへりみはせじ
と話つて、大君の馳の観相と勇立
つた私どもの細光の心は、時には
和束滑農公の猿き心となつて、君
盲の名分を邑し、ヰひは‖補正成土
の大lIとなつて 天意をお止誹りし
浪Tウ、または北條時宗の太い肝玉
となつては、富者の故を破けたの
であり普†が、降つては畠政復古
を究賛したてまった鵜末志士の働
きとなつたのであります。近くは
今秋の胡艶に於ける我が将士の奮
闘となり、柏永け柑付へて一億同
胞の駒に胴桝々と批うつてゐろので
あります。
私どもじ本人がお闘のためには
笑ひと浦足を以て生命を挿げてか
へりみないのは、切に日本人の妊
骨伯であり、私ども日本人は】且
ことあれば義明公に準じ、準と放
つてはお閥を呼る抑となることを
信じて疑はないのであります。
濁子兄前の内にお樹のために粘
れたものがある坤ほ、托に別gた
悲しみよりも、光づお繍のお役に
立つたと喜び紆へるのでありま
す。
お例のために搾げた姻人の生命
は、日本といふ大きな生命の■申に
生弁I、陛下の仙刊♯■声をいエいよ世
界に推し益丁るとともに、一孝一凍
のうちに永久に生きるのであり†
す。
靖閥紳祀御紫紳は、畏くも勅裁
を仰ぎ率つて御祀り申し上げてあ
るのでありまして、その御殊故の
万々は、まことに全周の津々浦々
に亙つてをられるのであります。
繋に靖刺繍牡は日本国民をうつ
て一丸とする。同氏精紳の中心で
あります。
明治天皇の御製に
一間のため
いのちをすてしますらをの
たぜ祭るヾき
時ちかづきぬ
と仰せられてゐるのでございます
が、御題に「析にふれて」とござ
いまして、明治三†九年の御製で
ごさいます。
その年の容の例穎の前に詠音せ
拾▲ぎたものと舞摂致します。園の
ためにあかn坐●を■打た人†の
ために、頻一興†dには庚も粛でて、
その人々の一を∬め上うとの御者
妹をl含すせ給ふたも玖と井瀦薮
しまして、漉こぽるるばかり恭な
い次雑であります。一臣下として
陵下の御演邦を敷くことは、まこ
とにもつたいないことマあ勺ま†
これも架にお珂のために身を投
げうつて助はれたればこそ、その
身は靖鴎の紳として祀られ、畏く
も 払下の巨e秤をかたじけなう
するのであります。名皿甘の勒一代を
された方々ほ、私どものどのやう
にしても及びもつかない、人聞の
地位を避兵た。我が閥の紳となつ
てをられるのであります。
戦犯した人々の御窪を、閥の抑
として紫め祀るといふことは、日
東以外には絶封にないことであり
ます。
外聞には撫名戦士の茎といふの
がありま†が、それは敬柁者の亜
教材めろために紐てられたもので
ありまして、群としてお漁りした
(39)
ものではないのであ¢よ†。
ここに日本といふ圃の世界に勝
れた市排さがあるのてもりまトd
この食い賦の守抑√なられた軌
鼓砦の辻族の方々は、ど〜か精神
を一甘ひきしめて、今後榊雀を祀
るにも紳様として、かしついてい
ただきたいのであります。そして
幼いお子さん方にもその理由を上
くわかるやうに、お括になり、教
育上の板木として抑を媒ぷことを
教へていただきたいものでありま
す。
そして辞と祀られた方々の親族
として、強く立液に生きて下さい
まナやう、お断ひする次集であり
ます。
甘た輝く銃後の私毒ほ、大君の
桝馬身を耕てて毒された英怒のい
さをを、肝に武じて、ほまれある
渡族の万々を、どこまでもお守り
してゆくことを固く背ひませう。
盤に感rんで
明仏芸の草■女帝瀦させて癖
さま†。
んむL子に
カたりきかせユ蛸のため
命†てにL
親のいさをを
剛山ため
命むすてLますらをの
姿をつねに
かかげてぞ札る
あかつぎの
わざめねぎめに息ふかな
閥に舶し。
人¢いさむを
‡代の
ふみのうへにぞのこさたむ
脚につくしし
臣の子の名は
(四月二十五日放送)