東亜共栄圏に
 新らしい東亜の歴史


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 さきごろ我が国の調停によつて
タイ国とフランス領印度支那、つ
まり仏印との争ひが解決し、仏印
側が昔タイ国からとつた領土の一
部を、今度タイ国に返すことにな
つたのは、御承知の通りでありま
すが、このことは新らしい東亜が
築き上げられてゆく、最も力強い
事実を示したものでありまして、
東亜の歴史にとつては、実に大き
な出来ごとと申さなければなりま
せん。


  西欧人の書いた東洋史

 東洋はかつて輝かしい文化と、
豊かな富を持つてゐたのでありま
して、ポルトガルやスペインの船
乗りたちは、東洋の金や銀、さて
は香りも高い香料を手に入れよう
と夢のやうな憧れを抱いて限りな
い大海原を東へ東へと船をあやつ
つて来たものであります。
 これが西洋史にいふ大陸発見の
時代でありまして、西洋の歴史を
ひもどく時、私達はアメリカ大陸
を発見したコロンブスや、または
印度への航路を発見した、ヴァス
コ・ダ・ガマなどといふ人たちの
名前を見出すものであります。こ
の人たちは大陸発見に先がけた者
として輝かしい存在となつてをり
ますが、これは西洋人によつて書
かれた歴史であることを注意しな
ければなりません。実に東洋の運
命はこの時から暗い影がさして来
たのでありまして、さらにこの古
風な帆前船に蒸汽船がとつて代る
頃になりますと、今度はポルトガ
ル人やスペイン人をおしのけて、
抜目のないイギリス人やフランス
人、オランダ人たちが続々と東洋
にやつて参りました。そして彼等
はまるで白蟻のやうに東洋の到る
ところに喰ひこんで、東洋をむし
ばみ侵して行つたのであります。
 殊に彼等の活動は十七、八世紀
からは著るしく活溌になつて来ま
して、イギリスとフランスは西南
から、ロシアは西北の方から、ア
メリカは遅れ馳せながら、東の方
から、お互ひに競争しながら、東
洋に侵略の手を伸ばして来たので
あります。お釈迦様の国として高
い文化と無限の富を持つてゐたイ
ンドが、イギリスの支配に移され
インドが、イギリスの「金庫」と
なつてしまつたのは、その頃であ
りまして、ワーレン・へ−スティ
ングスが、初代の印度総督となつ
たのは、いまを距る百七十年ほど
昔のことで、我が国では安永二年
に当り、丁度杉田玄白や前野良沢
がオランダ医学を勉強してゐた頃
のことであります。またフランス
が当時の安南国に勢力を植ゑつけ
今日の仏印の基礎を築いたのもこ
の頃であります。安南国は安南民
族がつくつてゐた国でありますが
今日仏印の人口約二千三百万人の
うち、安南人はその大部分を占め
約一千六百六十五万に上つてゐる
のであります。かうして安南がフ
ランスの手に収められますと、こ
のことは安南の西に建つてゐるタ
イ国にも影響を及ぼしたのであり
ます。タイ国は蒙古民族に属する
タイ民族が今から六百年ほど昔、
我が国でいへば吉野朝の時代に、
全国を統一して建てた国でありま
すが、これから後は、絶えず仏印
から領土を削りとられる運命に置
かれ、現在のタイ、仏印両国の争
ひの、原因(もと)が、つくられたのであり
ます。さらにまた今日仏印と竝ん
で注目されてゐる蘭印をオランダ
人が、直接自分の国の植民地とし
たのも、やはりこの頃でありまし
て、蘭印の豊かな石油とか、ゴム、
錫などの鉱物資源がオヲンダの手
に握られることになり、蘭印はオ
ランダの宝庫と呼ばれるやうにな
つたのであります。オランダが、
我が九州にも足りないやうな小さ
な面積を持ちながら、八百万に達
する国民が、高い文化を持ち、豊
かな国民生活を営むことが出来る
のは実にこの蘭印の犠牲によるも
のであります。

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 かうしてヨーロッパの列強は、
次第に東洋の各地を自分の植民地
として、その支配の下に置いて来
たのでありますが、この勢ひがい
よいよ烈しくなつて、遂に起つた
のが有名な阿片戦争であります。
阿片戦争については別に亦この時
間で申上げようと存じますが、当
時インドから阿片がドシドシ支那
に送くられてゐたのであります。
阿片は御承知のやうにこれを吸ひ
ますと身体は全く害なはれ用をな
さないやうになつてしまう恐ろし
い毒でありますから、時の清朝政
府は国民生活を害するものとして
当然この阿片の輸入を禁止したの
であります。ところが、イギリス
は反つてこれを口実として乱暴に
も支那に戦争をしかけたもので、
これが阿片戦争であり、この結果
イギリスは支那に対する根拠地香
港を手に入れたのであります。こ
れを手初めとして、フランスやロ
シアもまた支那に侵略の手を伸ば
したのでありますが、この阿片戦
争がおこつたのはいまから約百年
前の西暦一八四〇年のこと、実に
我が天保十一年のことで、幕末の
風雲がやうやく急にならうとして
ゐた頃であります。
 これと前後しまして、西洋の圧
力は我が国にもひしひしと迫つて
参りましたが、幕末に際し、イギ
リスは薩摩や長州に味方し、フラ
ンスは徳川に兵を仮さうとし、そ
れぞれ自分の利益を計らうとした
ものであります。然しこのことは
当時の識者の早くも看破るところ
となりまして、彼等の野心を封じ
てしまつたのでありますが、私達
は維新当時の聡明な識者に対して
いまさら深い感謝の念を新らたに
するものであります。
 かくてひとり我が国だけが幕末
当時の荒波をのりきり、その後躍
進の一途を辿り、東亜に於いてひ
とり万丈の気を吐いたことは、こ
こで申上げるまでもないことであ
ります。
 併し、一方他の東亜の諸国、東
亜の民族はどういふ状態かと申し
ますと、東亜の各地は殆んど欧米
列強の植民地となつてをり、東亜
の民族はその独立を失つて、奴隷
のやうな境涯におかれてしまつた
のであります。地図を手にとつて
東亜の世界を眺めて見る時、列強
の勢力が如何に到るところに喰ひ
こんでゐるか、列強の政治上、経
済上又軍事上の根拠地が如何に巧
妙に打ちこまれてゐるか、いまさ
ら驚く外ないのであります。
 かやうに東亜は西洋の船乗りた
ちが進出して以来。常にむしばま
れ、圧迫され、その植民地となり
経済の市場となつて来たのであり
まして、これこそ古い東亜の偽ら
ない姿なのであります。
 これに対して、新しい東亜とは
これまで欧米列強によつて圧迫さ
れて来たこの東亜の民族を開放し
東亜人の東亜をつくり上げること
であります。東亜の民族が手を携
へて一体となつて新らしい東亜を
築き上げることであります。東亜
新秩序の建設とか又大東亜共栄圏
の確立といふのはこれでありまし
て、この新らしい東亜をつくると
いふことが我が国閏初め心ある東亜
人の目的なのであります。
 かう考へて歩りますと、我が国
の調停によつて、仏印が領土を譲
り、タイ国が昔の領土をとり返し
たといふことは、新らしい東亜が
築き上げられる第一歩であるとい
へるのでありまして、東亜の歴史
にとつては大きな意味を持つもの
といへるのであります。
 ヴァスコ・ダ・ガマやコロンブ
スの時代から西洋人の書いた東洋
歴史が始つたとするならは、これ
からは東洋人自らの東亜の歴史が
その第一頁を誌(しる)してゆく時であり
ます。
          (三月十九日放送)