「バルカンの日本」
拙ブルガリヤを語る
情報倒地裁 伊 藤 述 史
私の祐二倒の土峨放出(不払例胱併収)で鋼際情勢について述へま
した僚rバルカりこに粥しましては、ドイツが外交工作が除ほど故を
爽L、「ルーマニヤJほ既にドイツの勢力†にあり、ブルガリヤも大雄
同方向にあり、ユーゴスラグ中ヤ及び土井古もまた、大勢を無魂する
ことが出来ない状勢である、と云ふことむ叫したのであります.
今倒ブルガリヤは魅i態乾を明倣に致しまして、三月一日ヴヰソで
珊伊三朗條約に加入する摘めの條的が懇箭調印されましたことは、御
熟知の洩りであります。之れで「ブルガリヤ」も慈ヱ我々の覗邦とな
つたわけであ巾ます。でここにはブルガリヤの榊詔彰致します.
ブルガリヤほ日露鞄研後「ハルカンの日本」と構されまして、闘は
小さいが閥民ほ勤勉且つ涙雨日で、軍馳が蜘いと云ふことで有名にな
つたのであります。前の敗洲大戦では殉塊、即ち中央帝閲仙に立つて
さ放したことは挙結スの成りでありまして、一九】九年のヌイイ丁稚
和條約に依りまして、その領土中ドデルタア地方をルー†エアに、ト
ラキア地方をギリシャに、剖沸することになつたのであります.
大概後のrデルガリヤ」ほ内政外交叫に非常に閑銚なる地位に立ち
ました.統一には筋桝約†山車平方キP、人口大宮飴欝と云ふ小用で
あるのと.
照一ニトは同例の地剤的位檻が丁舵伯林、巴盟、奨痢等桝部中部欧州
から士耳古へ山るいはゆろ快紬交通幹線をなしてゐると云ふこと¢
締三にほ閉止創出の外に、肥伯金をも支挑はなければならなかつた
のですが、開園は純然たる農薬駒でありますので、経済上特殊な困桝
を感じたと云ふやうな稀々の糊伯がありましたが、所力快現に磁々労
力しました.例へば軍備の制限を受けて居ります脚捲から、大和直後
闘民の勤労迅勤を起したのであります.
之れを大洩桟に採用したのが、有名になつたドイツの「アル.ハイト,
デイーyスト」でありまして、ドイツの略は紫に【ブルガリヤ」にあ
るわけであ勺ます.
右のやうに周家がその困鏑のどん底に沈んだl九一九年に.スク▲
ポルスキーを常軌とする為民沢僻立内観が伯楽ました.がその窮膣択
は閥内の不満を甥ひ、一九二三年クーデタが起り和裁的の内閣の成立
を見ました。この均動的内閣ほ、複雑な閉内政情を安定させることが
出来なかつた憎め、一九≡四年政雄が租り、ヂエオルヂエフを首班と
する軍部の相裁内観が出来まして、講魯を姫徹し.政鴬績政をやめさ
したのであります.且つモラトリアムを布合し.義民僻鵜四例の棒引
の命令をする等、紺常思切つたことをしたのであります.
而しこの掲出内閣に封しましても閥艮の各肝から反掛の雄が粗くな
り且つ硬備渚揆の反射が包り速に一年を辞すしてl九三五年四月蛙冠
することになつたのであります.
同王ポリス三他は、この横すを巧みに利用されて、珂王の柚カを舟
大隈圧に伸長され、さらに一九三七年十月には、所無法の薮布となつ
たのでもります.以来内政上に玉串な鍵化はありません.
(甘)
外交上に於きましても、大我後.ハルカンの現情打破を大方針として
をりますが、ハソガリγのやうに表面にさわがず、比性的渦健な政媚
を揺つて米たのであります。而し常に現梢維持恨の行励には反刺して
をりました、ハンガリアの失地挟後に封抗する馬め仁‖来ました小協
硝、バルカンに於きまする布団の傾土偶金と、平和椰措か榊杓として
帽狭ました、バルカン聯合等に射しましても、ブルガリヤだけは常に
その周外にをりました乃も、その馬めであります。
際洲大職以来その野外貿易に於きまして、愉憎入の六七割はドイツ
依存と云ふのでありますから自然政治的にもドイツとの関係は深いの
でありますが、同時にスラブといふ民族約関係から、ソ柳との関係を
考ぼLてゐるといふふうな状憶にあつたのでありま†。それが今周三
園同盟に加入しましたのでありま†.ブルガリヤの日和伊楠榊に参加
したといふことほ、欧剛及び近東の形勢に詫大な形弊を珊ら†もので
ありまして、之を契機としまして、この万両に担化穀生ずるのではな
いかと思われます。
この「アルガリヤ」には我が閑も一昨年朱公使飴む詑檻致しました
し、私も昨年坪敵の際同団へ旗行しまして首都ソオフーヤにこ盲滞在
致しました0ソオフイヤは小さいながら消純と巾しますか、コザツバ
リした町であります、同市には私の親友の一人がゐますので、久し振
りに同族を†ろ捲骨を梢ましたことは、いまでも愁ひ山すのでありま
すb
私は個人的にはブルガリヤ脚民は好きでありま†から∵」れ等の託
を†れば轟きませんが、これくらゐに致しまして、終りに新川邦の謹
厳、ブルガリヤ映代の仙詫言桝つて出へ止む維ります。
(三月十五日放送)