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満洲の開拓について

 三月一日は満洲国が出来てから
満九箇年の記念日に当ります。満
洲国が誕生したのは御承知のやう
に満洲事変がおこつた昭和六年の
翌年昭和七年の春三月のことでし
たが、その後満九箇年の間に満洲
国の発展は日に日に進み、政治に
経済に交通に文化にまた外交に、
実に目覚ましい成績を挙げてをり
ます。
 満州の大地に鍬を揮ふ満洲の開
拓もまた、立派な成績を収めてを
りますが、新らしい東亜が生れ出
ようとしてゐる今日、満洲の開拓
といふことは、いよいよ重大大にな
つて参りました。これとともにま
た産業の再編成によつて最近お国
のために職業を変へることを余儀
なくされる人々のうちには、この
満洲の開拓に参加しようとしてゐ
る方々もありますから、満洲の開
拓はまた新らたに大切な意味を持
つやうになつたのであります。
 満洲の開拓を語るには、開拓に
先がけた人々の血と汗の尊い努力
を忘れてはなりません。
 我が第一次の開拓団が満洲に入
つたのは、満洲事変の戦火も未だ
収らない昭和七年のことでしたが
この第一回の開拓団が満洲へ行く
ことになつた蔭には、今度の事変
で戦死された東宮宮大佐やまた加藤
完治氏のお骨折があつたものでし
た。
 約五百人の在郷軍人から成る第
一次の開拓団が松花江を遡つて、
当時の吉林省、現在の三江省のチ
ヤムスに着いたのは、昭和七年の
十月十四日のことでしたが、その
夜忽ち紅槍会といふ匪賊が襲つて
来たものでありまして、開拓団の
困難な歴史は、実にこの時から始
まりました。そして翌年の春にな
つて、一行はやうやくチヤムスの
南の永豊鎮に入つたのですが、当
時の永豊鎮は実に見渡す限り荒涼
とした野原に過ぎませんでした。
開拓団は或ひは匪賊と戦ひ、病気
と取組み、土と闘つたのでありま
して、その努力は非常なものであ
つたのです。
 かくて荒野の中から今日の彌栄
村が生れでたのですが、彌栄村は
昭和十一年の十月には自治制を布
き、完全な個人経営に入りました
今日では農業は高い程度に機械化
されてをりトラクターが走り、加
工場ではベルトがうなつてをりま
す、緬羊の毛からホームスパンを
作り、ソーセージの製造も行はれ
てをります、小さな都会を凌ぐほ
どの機械設備を持つてゐる工業農
村となつてをります。
 続いて昭和八年には、第二回目
の開拓団がこの彌栄村の南に当る
七虎力に入りましたが、ここでも
また開拓は、先づ銃を以て戦ふこ
とから始まつたのでありまして、
今日の千振の繁栄も幾多の犠牲を
払つて作り上げられたのです。
 次いで昭和九年には瑞穂村が生
れ出ましたが。この頃から治安は
次第によくなり、かくて昭和七年
から昭和十年までに約千八百戸の
開拓団が満洲国に渡りました。
 政府ではこれらの開拓団の良い
成績に鑑みまして。昭和十一年に
二十箇年に百万戸を満州に送る計
画をたてまして、これを重要な国
策の一つとして、昭和十二年から
実施することになつたのでありま
す。そしてこの計画は事変がおこ
つた後も引続いて行はれまして、
十四年、十五年と進められ、昨年
から今年にかけては、第九次の開
拓団が満洲に入つてをります。
 一方また昭和十三年には全国か
ら青年や少年を選んで満蒙開拓青
少年義勇軍が設けられましたが、
十五年度にはこの外集合開拓民の
制度が出来、戸数にして五十戸程
度の小さな集団を、それぞれ満洲
各地の交通や産業上大切なところ
へ送ることになり、合せて三千戸
がこの三月までには満洲に入るこ
とになつてをります。さらにまた
内地の学生や青年団を動員しまし
て、満州建設奉仕隊がつくられ、
この満洲建設奉仕隊は現地に行つ
て土木や開墾、牧畜等いろいろの
方面で勤労奉仕を致しました。
 かやうにして満洲の開拓は着々
と進んでをりますが、これらの開
拓に活躍する青年たちのためには
いはゆる大陸の花嫁さんたちが、
どしどし満州に行つて甲斐々々し
く働いてをります。
 かうして現在では開拓を血で彩多
つた武装開拓当時の話は、もはや
昔のことになつてしまひました。
匪賊も全然ゐないわけではありま
せんが、殆ど問題になりません。
 作物は豊かに穣り、古い開拓団
では殆ど一戸当り十町歩の面積を
耕してをりますが、その他のとこ
ろでも三町から五町歩程度の作付
をしてをります。作物は大豆とか
小麦が主で、粟や玉蜀黍、麦類高
梁の外自分の家で食べる分として
は水稲を栽培してをります。また
一般の野菜類はもとより、煙草や
甜菜、大麻等の作物も見事な出来
栄えを示してをります。
 土を耕すには、主に馬を使ひま
すが、また牛や緬羊、豚等が飼は
れてをりまして、開拓民や義勇軍
の手でホームスパンや鞣皮、蜂蜜、
バタ等が出来てゐます。
 またどの開拓村にも。見はらし
のよい小高い丘に神社がまつられ
村の人たちの生活の中心となつて
をります。小学校はもちろん病院
もだんだん設けられるやうたなり
ました。
 日本人の生活程度では、満人の
低い生活程度とは競争出来ないだ
らうといふやうな悲観論は、跡か
たもなくけし飛んでしまひました。
同じ農作物をつくるにしても。日
本人は素晴らしい成績をあげてを
りまして、満人をおどろかしてを
ります。今日では満人の方から教
へてもらひたいといつて来るやう
になりましたが、開拓村の花嫁さ
んから、満人や朝鮮人の娘さんた
ちが、裁縫を習つてゐる風景もよ⊥
く見うけるやうにな心ました。民
族がお互ひに扶け合ふといふこと
は、かういふところからも始めら
れてゐるのです。
 いまや我が開拓民は戸数にして
二万五千、人口にして約五万、ま
た青少年義勇軍は約四万に上つて
をり、開拓民の、また青少年義勇
軍の日の丸の旗は、遠く北の東安
省また三江、北安、興安等の各省
に飜つてをりますが、黒龍江の流
れを隔ててソヴイエトを望む黒河
省にまで、青少年義勇軍の訓練所
が設けられてをります。
   (二月二十八日放送)