昭和十五年度
陸軍の戦果
(敵の損害) 敵の遺棄死体は | 六三、〇〇〇 | |
捕虜は | 二、五〇〇 | |
鹵獲品は 迫撃砲 | 三三 | |
重機関銃 | 八三 | |
軽機関銃 | 四五四 | |
小銃 | 一四、四八九 |
次いで一月の下旬から二月の上旬にかけて、南支那に於ける
賓陽の殲滅戦が展開された。賓陽は南寧の東北方にあるが、南
寧を奪ひ返そうとした敵は、尨大な兵力を以て攻勢に出て来た
のである。
これに対し我が軍は殆ど殲滅的な打撃を与へたのである。
(敵の損害) 敵の遺棄死体は | 四六、八〇〇 | |
捕虜は | 二、五〇〇 | |
鹵獲品は 迫撃砲 | 六八 | |
火砲 (大砲) | 四一 | |
重機関銃 | 一一〇 | |
軽機関銃 | 五四四 | |
小銃 | 六六〇 | |
擲弾筒 | 一二五 | |
戦車及装甲車 | 八八 |
越えて五月から七月にかけて宜昌作戦が展開された。宜昌は
湖北省の揚子江沿岸に於ける要衝であり、この宜昌作戦は、今
年度に於ける最も大きな、然も最も重要な意義を持つものであ
り、我が軍は敵第五戦区の大軍を席捲して六月十一日に遂に宜
昌を占領した。
(敵の損害) 敵の遺棄死体 | 約九〇、〇〇〇 | |
捕虜 | 約五、七〇〇 | |
鹵獲品は火砲 (大砲) | 二八 | |
迫撃砲 | 五五 | |
重機関銃 | 一四八 | |
軽機関銃 | 五七七 | |
小銃 | 六九一 | |
擲弾筒 | 一〇九 |
次は九月に行はれたフランス領印度支那に対する進駐である
が、我が軍は九月下旬、堂々仏印への進駐を開始し、援蒋公路
を遮断した。同時にこの仏印に基地を得た我が荒鷲は、ビルマ
方面からの援蒋公路を徹底的に爆撃し、蒋介石政権に痛烈極ま
る打撃を与へた。
この外一方九月上旬には江北に於て、共産新四軍を殲滅、十
[三字不明]十一月にかけては、山西省附近に於て、共産第八路軍の
本拠を押しつぶしたが、これより先十月上旬からは、江南の平
原に於て、第三戦区の敵軍に対する補足殲滅戦が行はれ、続い
て十一月から十二月にかけては、湖北省の漢水を中心として、敵
第五戦区の大軍を包囲し李宗仁を主力とする敵軍を撃破した。
かくて各地に於て蒋介石軍の殲滅戦が展開されたが、皇軍は
事変勃発以来、幾多の電撃戦と殲滅戦を行つてかくも輝かしい
戦果を収めて来たが、去る七月七日の事変記念日に陸軍当局が
発表したところによると、我が戦線の延長は約四千六百粁(一千
五十里)我が占拠地方の面積は約百六十万平方粁に上つてゐる
実に我が国全体の約二倍半であり、我が作戦用兵の規模の大
なることはヨーロツパ戦争の比ではない。
皇軍将士の活躍するところ、北は満ソ国境から南はフランス
領印度支那に及び、この間或は朔風ふきすさぶ極寒、或は灼け
つくやうな炎熱と闘ふその労苦だけでも並大抵ではない。皇軍
将士の健闘に対して感謝の意を捧げると共に、戦没将士の英霊
に対し、謹んで衷心より哀悼の意を表する次第である。
(十二月二十六日放送)
(註) 昭和十五年度一月より十一月末迄に於て我が軍が敵に
与へた損害は次の通りである。
敵の遺棄死体 | 五八九、八八八 | |
捕虜 | 五五、一二七 | |
鹵獲品 | ||
重、野、騎、山砲 | 一三四 | |
機関速射、高射砲 | 五三 | |
迫撃砲 | 五四一 | |
重機関銃 | 七八〇 | |
軽機関銃 | 三、七〇八 | |
小銃 | 一三八、四四四 | |
洋砲 | 一一、二三〇 | |
戦車自動車等 | 七六七 | |
装甲列車、機関車 | [ママ] | |
客車、貨車 | 三三 | |
舟艇等 | 一四七 |
事変勃発以来の敵の損害は遺棄死体が約百八十万に上つえ
ゐる。航空部隊の戦果は昭和十四年十二月二十五日から昭和十
五年十二月五日までに敵機の爆撃数は八二、爆破一六合計九八
に達してゐる。これに対し我が方の損害は九である。