十四年中の陸軍
の輝く戦果
東亜新秩序の建設に着
々と大きな歩みを続けて
来た昭和十四年もいよい
よ暮れようとしてゐるが
今回は昭和十四年に於け
る我が陸軍の汚かしい戦果について述べる事にする。
× × ×
武漢三鎮の攻略後、事変は長期建設の段階に入つて新新秩
序の建設がすゝめられる一方、之と併行して我が武力戦は蒋介
石政権の潰滅に向つて徹底的に遂行されて来たのであつた。
今年に入るや早くも二月十日、我が陸海軍部隊は緊密な協同
の下に、突如海南島北岸に奇襲上陸を行ひ全島を制圧したが、
この作戦に依つて支那西南方面の海上封鎖は一段と効果を発揮
し、蒋政権の蒙つた打撃は非常なものがあつたのである。
次いで二月には安陸作戦、続いて二月下旬から三月上旬にか
けては海州作戦が展開されたが、海州作戦では徐川会戦後江蘇
省北部に遁入した敵、所謂魯蘇戦区約二万の敵を包囲殲滅した
のであつて、海州塩の確保と隴海線による海州と連雲港間の連
絡が保持されたことは、この作戦の持つ経済的な意義である。
続いて三月二十日前後から、我が南昌攻略の火蓋が切つて落
され、武漢陥落以来約半歳に亙つて南昌一帯の陣地の強化に狂
奔した羅阜英麾下の約二十ケ師は、もろくも我が猛攻をうけて
潰滅し去つたのであつた。
これと前後して敵は四月攻勢と称し、我が占接地区に対し全
面的な攻勢をとらうと企てたのであるが、皇軍は機先を制して
安陸作戦や南昌作戦によつて敵の意図を未然に封じ、四月攻勢
の出鼻を叩いたのであつて、敵の四月攻勢は潰滅に終つたので
ある。
次いで五月には襄東作戦、つまり漢水流域に於ける季宗仁麾
下約三十ケ師に対する捕捉殲滅戦が展開され、翌六月には蒋政
権にとつて広東の陥落後、海外連絡路として重要な役割を演じ
てゐた汕頭を政略し、一方北支では七月上旬以来、安作戦が
展開されて安平地に対する掃蕩戦が行はれたのである。
又南支方面では我が軍は八月十六日探、沙頭角を占領し、
香港より深、恵州方面に通ずる軍用品輸送路を遮断したが、
イギリスの援蒋行為の跡は歴然たるものがあり、従つて香港側
に与へた心理的影響も大きかつたのである。
一方敵は満蒙国境方面に於けるノモンハン事件に呼応し、七
月攻勢、九月攻勢と称して宣伝大いに努めたのであつたが、我
が精鋭部隊のため猛烈な反撃を受け、各方面共脆くも惨敗に終
つたのである。
次いで九月江南作鞄が展開され、岳州、南昌間の敵第九戦区
岳の指揮する約四十万に対し襄東作戦と同じく捕捉殲滅戦が
行はれて武漢攻略以来の最大の戦果を収め、崩壊の一途を辿る
抗日蒋政権に一大鉄槌が加へられたのであつた。
越えて十一月我が陸軍精鋭部隊は海軍との緊密な協力の下に
敵の不意を衝いて北港附近に上陸し、疾風迅雷の北海作戦が展
開されたことは記憶に新たな所である。
かくて蒋政権は徹底的に痛烈な打撃を蒙つたのであるが、執
拗にも冬季攻勢と称して北支中支の各方南で蠢動をつゞけ、到
るところで皇軍のため撃破されてゐる状態である。これは汪精
衛氏一派の中央政権の樹立運動を阻げ、更に国民、共産党両党
の軋轢、且又従来の敗戦を蔽ひ民衆を重慶政府にひきつけるた
め企てられたものと見られてゐるが、徒らに蒋政権自らの兵力
を害うに過ぎないであらう。
× × ×
この外ノモンハン事件は、五月のソヴィエト外蒙軍の不法越
境によつて惹き起されたのであるが、八月下旬になるソヴィ
エト外蒙軍は砲兵、機械化部隊を伴ふ大兵団を以て攻勢に転じ
ホロンバイルの大草原には壮烈な戦闘が展開されたのであつた
我が軍は少数の兵力を以て能く約十日間に亙る死闘を続け、敵
の機甲部隊に果敢な反撃を繰り返へして之に非常な打撃を与へ
たのであるが、九月十五日日ソ両国間に停戦協定の成立を見る
に至つたのである。
他方我が陸の荒鷲は皇軍地上部隊の進撃と共に支那全土を翼
の下に蹂躙し赫々たる武勲を示したのであつて、殊にノモンハ
ン上空に於ける我が睦の荒鷲の輝かしい戦果は既に世人の知る
通りである。
以上の外六月に入つてから天津イギリス租界の隔絶検問が行
はれ、次いで七月日英東京会談が開かれたことを述べて置かう。
これで今年度に於ける我が陸軍の戦果についてあらましを述
べたが、この間にあつてあらゆる困苦欠乏に堪え乍ら健闘を続
けてゐる皇軍将士の労苦に対し、満腔の感謝を捧げると共に、
或は敵弾に斃れ、或は不幸陣歿された幾多英霊に対し、謹んで
衷心より敬弔の意を表する次第である。
(十二月二十七日放送)