開封戦線の二抗日将領


 郷介石は之迄の大合戦に
際しては、南京戦には庸生
智、徐州合戦には李宗仁と
     扱うけい
いふ具合に傍系め称飼を絶
てTl帥として之に敗戦の賓任を
       こ かひ     り ’†
磯嫁させ、自分の子飼の郷銅は全部触疏としてゐたのであるが
泣く展開されるであらうと預想される開封、郵州の合戦を非常
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に笠大槻して、いよく自分の股肱と税む胡浣梢をJ郵州防備
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線司令に任命し、之に二十耗の大軍を授けて一挙に雌雄を映し
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徐州敗戦の恥を等ぐと北ハに、胡勢を比倒しようとしてゐると報
ぜられてゐる。
 かやうに之迄の付職と迎つて、今回の合戦には特に蒋介市か
ら信槻されてゐる桝小水硝が池指抑に任ぜられたことは、槌めて
注目すべき事であるが、滞介右に溌ばルてこ1に鄭州防備の総
帥に任ぜられたといふ胡宗朔とはどういふ舛か.
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 胡宗南は郷介石と同じ漸江の産で、今年桝十川歳、藩介石が
自ら校長となつて創立した斉哺靖官邸校の苅一別卒紫生であつ
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て郷の鑑系であり、軍政部長の陳絨と共に締が秘絨つ兄忙して
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偽る牌領である。彼は早〈から珊介石の股肱の劉時に従ひ、か
って一九三〇年(昭和先年)に鴻玉絆と剛鋤山とが聯合して反郷
の兵を輿げた時には、前山師の副抑艮として各地に挿戦し、そ
の功労によつて劉時の後を承けて第一抑長に外遊した。叉その
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猥年昭和六年に石友三が反簿を棲楷して兵欒を起した時には逸
卑〈京横線方南に出動して之を平定し、その後は南京の対岸の
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糊口に駐屯し、その傍ら安敏省内の共蔵軍討伐に常り、次いで
小火艦察蜜月に任ぜられたこともある。
 彼は陳誠と並んで支那軍界少朴振の最も有力な郷銅で、青年
箪人の問に人気を博してゐる男であり、叉抗日珂慣である離水
耽内の有力な渠オである斉哺同勢禽の布力なメンバーであつて
陳誠が才子肌の人嘲であるのに封して、彼は武人肌だといふ鞘
である。
 彼は液近道第一椰を卒ゐてゐたのであるが、この第一仰は小
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央箪の中でも装備が優秀で、訓練も行き悩いてをり、郷の正系の
蚊も糀銃といはれ叉雅の最も侶槻してゐる範陳だと言はれる0
胡試柄は咋小紋には上海戦線に川動し、畠硯に独向つたことも
あつたやうだが」今や郷州防備の組指抑として二十楷の犬範を
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捉げ、島碓に液後の抵抗を試みょうとしてゐるのである。
 次にこの胡末梢と共に郷州方耐に在つて皇軍に斌托すると倖
へられる職祀何とはどういふ出か。彼は汁鮮省の人榊で、今年
桝十托械、保定植軍軍官準校の出身で、米哺軍官畢校が川発た
時には、迎へられて戦術の教官となり、更に北伐完成後には郊
二仲良となつた。昭和旧年に起つた僻嫡流の反藩戦にはヾ江由
で虜西沢と職ひ、叉昭和五年の鵜、間の戊滞戦、唱和六年のポ
友三の位蒋虜襲に常つて功労を樹てたことがあるといふ具合に
この蹄枇同は北代以来、終始渦介石の腹心として来奔西竜し.
度々戦闘に従つて雑たのであるが、澱後江淋省主席、江南接靖
主任から川川行営主任を経てト昭和十・j牛に吐合州省主席とな
り次いで四安行営主任となり・黎礎群鮮と共に却軒方南軍漁司
令に擬げられ、上梅南京に於て皇軍のため散々な日に曾はされ
た男であるが、彼の軍隊の一部も今や却州に集結され皇笹に匁
向はうとしてゐると侍へられるのである。 ハ六月二日放送)