仏領印度支那と聯絡ずる廣西省
ドイツ人の節串願閑が雑
nを引揚げると同時に、や
くもフランス人の軍部糾問
が漠口に来り込んで雑たこ
とは、フランスの封宅竣功
ひ
の動きを禾すものとして漁Hを濃いてゐるが、その折も斬、団
民政府はフランスの竣助を受けて鮮郵省の首府の南寧と・鹿西
なん払い
さやゴーい
と悌領袖度支郷との境界にある錦南開をつなぐ蛾道を、今後八
ふ せつ
箇月以内に敷設することになつたと倖へられる。この蛾道の敷
設は拷虐政府が溝口を放棄した後、首郡を靡内省に移す那赫で
ある皇口はれ、早くも甘郡の晰肝軒としては浦寧と棟林のこ頂
くわんモく
研が奉げられてゐるといふ槻湘さへ行はれてゐるが、硯凍錦南
柑から、南寧、桂林を経て.湖摘省の衡陽に至る自動革路が、敵
の武凝線入路に常てられてゐる硯状から見て、この横瀬の持つ
政治的、、軍事的な意義は頗る重要祀すべきものがあると報ぜら
れ.てゐる。
鹿西省は南支郷の西方に凍る省で北に.払湖南、貴州のこ省が・
ムrこ
連打.架から摘にかけては席末省に囲まれ、西は宰南省と境し
西南に於て今話題となつてゐる体領印度支那と境界を接してゐ
るのであつて、いはゞ竜郷の西南の隅に孤立したといつたやう
な位故にある.
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ニ十一萌九千平方粁といふ両輪は、朝鮮よりちよつと小さ小
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位であるが、省内は北部に獲えてゐる苗嶺山鳩を始め山地が多
い許りでな〈、その上海岸線を持つてゐないため、之迄は購求
省との問にだけ交通が行はれてゐたのに過ぎなかつたが、事変
以来は立演な自動車路が上述のやうに彿領印度支郷との境界に
ある鋪綿撃ゥら南寧、杜林を経て湖南省の衡暢道場じてゐて、
仰佃印度支那から武漢方南への武器輸入路として使はれてゐる
と報ぜられてゐる0
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山地が多く、交通も不便な上気怯も概して灸碧が甚いため、
人口は一千二百八十茶人飴りに過ぎす.絶つて一千方粁常りの
人口の密度も花十八人飴りといふ、竜郷の各省の中でも人懐の
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稀薄な土地であり、その住民も漢族の外、いろ′く・・な球族が住
んでゐる.本省の窪紫状態は良紫、錦羊等が主なもので、良作
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物は栄を太宗とし、席末に迄捻出されてゐる位であり、米に次
ぐ落花生はま那各省の内第榊位の産頻を持つてゐる.
次に本省は山膚地帯が多い閲俵∫、抑席物に富んでゐて、と
りわけ、マンガン、タングステン、ビスマス、丁ンチモ言−、
銀等が非常に豊富で、マンガンはま那に於ける仝産締の五刺五
分を占め、叉ビスマスは同じく七割正分を占めてゐるとの事で
ある8之等の特殊鞭物の外にも、金、石浜、碓、錫、鉛等が埋
残されてゐるやうガが、犬沸分は未開発の状態ださうである.
農業や領菜の外には林業や牧畜等も和音盛んに行はれてゐるや
うである¢
南寧はこの灰酉省の首府の地である.購西の首府はもと桂林に耀
かれてゐたがこの南寧が軍事上、経済上京嬰な地鮎である折から、大
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正元年に拉杯から南寧に窪されたのである.南寧は常江ハこの河は
席西省の函の山地から氷に流れてやがて巧江となり、更に頒沸省に
入つては珠江となつて庫恥滞に注いでゐるものである)の北岸に治
ひ、人口五、六満といふ都合で、明治三十九年に支那が由ら開放し
た開沌場であるが、外閉貿易ほさまで盛んではない。
次に僻粥省の元の首府であつた杵林は既西の加北部梓江の治梓に
(官)
あつて、朽術は城内と城外とから成り、人口的十常といはれる併蹄
第一の都留であるが、架の代以来、永く省城の地であつただけに朽
術も立泥で蹄米も盛んな十地である。 ハ九月三十H放迭)