米国不戦条約遵守を声明

 アメリカのハル堵務座官
は二十八日アメリカの外交
政先に謝する一つの戌婆な
饗明を教表し、その小でア
メリカは依然として不戦條
約を守つて行く方針であることを明かにしたと報ぜられる.
 この不戦條約とはどういふ條約かと言へば、之は正確に首へ
     “一ヽつ’
ぱ「戦帝政薬に紺する條約」と呼ばれるものであるが、俗には
     てい・レサ・)しγ
この煉約の捉唱者である常時のアメリカの図紡長官ケPツグ比
とフランス外相のブリアン氏の名端をとつて、ケPツグ・ブリア
ン條約とも言つてをり、我閣では過ぐるM小内閣常時に例の「人
民の名に於て」といふせ句で有名となつたものである。

この不職條的は今から十年前の昭和三年八月二十七日に.ハリ
で日本、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、
ベルギ\ポーランド、チエツコスロヴ7キ7の九掛図の榊に
結ばれたもので、その後支那、ソゲイエトを始め各国が之に参
加し硯都では六十敢闘が之に加盟してゐる。
                  いヽ−ヽ−つ
 然らばこの條約は一怖どういふ紆締を以つて械斑するに煎つ
たのかと言へば・昭和二年川月六日(即ちアメリカの参戦十川
年記念臼)に常時のフランス外棚ブリアン氏がアメリカの関川
に一つのメツセーヂを迭つて、・フランスとアメサカの粥図撃ノ
不戦條約といふものを締ばうではないかと捉唱したのに始まる
のであつて、之に封してアメリカはその年の求になつて判りフ
ランスとアメリカの剛だけでなく、多数の図家の問でこの不戦
    ていけつ                        せつしでフ
純約を締結しょうといふことを回答し、こ1に艶多の折術を総
て不職條約成就の気漣が次苅に熟し、かくて照昭和三年の桝月
十三日に至り、アメリカ図按戊官ケPツグ氏が日本、イギリス、
ドイツ、イタリアの桝酎駒の政府に封して、卵−次の「耶山多
遽的不戦條働」を締ぶことを捉試し、つゞいて六月二十三日に
之を改訂した邦二次の不戦條的を松浦したのであつた.
          ,) よさよくせつ
 かくてその後蛾多の迂飴肋折を総て、最初はアメリカとフラ
ンスの條働とする目的で碇唱されたこの不戦條約は、最初に述
べた九囲、イギリスの各自治餅政府と印度政府等を含めて十先
の政府によつて、昭利三年の八月二十七日にフランス外沖省の
       て・ついん
「時計の桝」で調印が行はれ、その後之等の鮮調印図の外、多数の
駒が之に加盟し現在その加盟図の教は六十教団に上つてゐる.
 この條約は化かにニl闘條から成るもので、邦一條と祁二條に
於て
 同家の政災の手段としての軌耶を炊楽し、一軌の閑職紛耶の解決
 手段としては中和的山鹿快方批による。
      十′、ぢや・フ
といふことを約定してゐるのである。併し乍・h川舵紛坤に別し
て中和的庭訓を糾する具鰹的方法は何筆ボされてはゐす、叉
       せいヽヾいさ てい
この條約には制汲税泣も触いのであつて、締局艶際剛鮎とし
        Hにうr▼
てはこの條約は道我的な横倍しか持つてゐないのである。批に
                               かくてい
この條約を結ぶに常つては松村凹のアメリカを始め⊥して各締
やくこく  じ えいけん
糾明は皆自締椎がこの條約の範桝外にあろことを認めてゐるの
                         ゝ−ジい
である.図家の臼術椎とは国家並に臣民の忠迫な危審を除くた
めに固際淡上認められた図家の兆本的な撼利で、何人の均へ=に
   せいたラはうゑいけん
於ける正常防術柑に常るものである。捕して日下戦が凶がとり
つ1ある駄文臍懲の行動はとの蜘家の出術枇に兆〈ものであつ
                                      ▲−U寸、
て・従つて何符不戦條約造反符とはならないことは来より明か
なことである0          ハ加生山十九日放遊)
(6)
             ヽ