紀元節御制定の由来に就て
皇紀二千五百九十八年、
梅花匂ふ十一日、建国の御
鴻業を偲び奉る紀元の佳節
は、あたかも.憲法発布五
十年の感激を添へて、支那
事変の非常時下に、その意義彌々深く感銘せられる次第である。
神武天皇が建国の御鴻業をなし遂げ給ひてより、爾来我が国
運は代々 天皇の御統治の下に、益々隆昌に赴いたのであるが
社会の推移と思想の変遷は、図らずも武家政治を将来[ママ]して、変
態なる政体を七百年もつゞけてゐたのであつた。然し江戸時代
に於ける文教の隆盛は、遂に古史古典の研究に及ぶに至つて、
始めて和が國體の本源を明徴にし、武家政治が、我が國體に戻
つてゐる所以を悟り、こゝに尊王の思想が勃興して、王政復古
が唱へられるに至つたのである。時の将軍徳川慶喜も亦、大義
を重んじて、断然大政を朝廷に奉還し、こゝに再び國體の正し
い姿に立ち帰つたのであつた。而もその復古は、神武天皇御創
業の王政に復つて、皇威を中外に宣揚すべきであるとの議論は
夙(はや)くから京都の勤王家玉松操(たままつみさを)等によつて唱へられ、世論もこゝ
に帰して、明治維新の大業が完成されるに至つたのである。
さればこそ慶応三年十二月九日、王政復古の大号令を発し給
ひ「諸事神武創業之始ニ原キ桁紳武稗堂上地下之無L別室常之公
溝ヲ喝シ天下卜休場ヲ同ク可レ被j澄 叔慮」と仰せ出されたの
である.
それ故明治の抑一新は、全く紳武天皇抑創業の始に基いて、
庶政の革新を行仕れたのであるから、この御精帥の下に、著々
新政の進むに従つて、先づその名義を忙し、こゝに我団の紀元
を定められることとなつたのである.即ち明治五年十l月、従
たいいん小さ だじ†)くわん
来の太陰暦を磨して、太陽暦を行ふに首り、太政官布普を以つ
て紳武天皇の御即位を以つて紀元と定める御旨を宜し、その二
十五口吹上御苑内に邁井研を設けて、紳武天皇の抑祭典を奉げ
させられ、解二舶の文武首官は、稚服を著用して参邦したのであ
る.黎〈る明治六年一月、新に紳武天皇の御即位日を、天長節
よ共忙閑寂の舵口と定められ・その三月七日にその御即位日を
かのえミhソ
寧九節と糾する旨を和普せられ、紳武天皇御即位の宰領の年氾
′ヽいん}ん
川元月を太陽暦に換算して・二H十一口を以つて紀元節と定め
のば
ちれて・明治七牛の本俄から厳に↓され、こ1に二月十一日の
けいが
紀元払が、闘魂の槻Hとして、金団民の殿賀するこよなき日…
庇い日となり、今や川人節の一として大切な記念日となつてゐ
るのである。
かくて紀元及び紀元節が制宰亡れてから、崇紀が公けに川ひ
られる外、民間で刊行される駁撃あ他山蓋H、寄抑にや皇
凝を用ひる事が行はれ、叉紀元節を湖としていろノ〜の行事が
牟げられてゐるが、中にも皇紀二千九百川十九年、明治二十二
ヽrんてい
年二月十二日の紀元節常日、筒石不磨の大典たる、欽定人口本
ひ一、
碑闘怒法の御領布があつたことは、閲民の舛しく染思に感激し、
永久に忘るペからざる−大郷盛事である。殊に今年の佳節は、
くわんはつ
寮法敬布五十年の記念に常り、畏くも恩赦の犬詔を換覆あらせ
いう∧く
られ、盈徳の沸大、叡庶の倭演、唯々感激に域へない攻小卯であ
る..
====・●=・=‥・・
勺▲●
・肝ふに珊界に団は多いとは宮へ∵ニ圃の紀元を抗二代の新生
の御伽位に置き1その御即位日を紀元節と先めてゐるものは、
我が日本を除いては世界の何虚にも見常らないのである.
・兢忙今日世界列強の建国の謄史を尋ねて見れば、イギリスの
建材は今から千古十五年以前、フランスは丸首五十一年以前で
あり、7メリカは南東十九年出揃・イタりJは七十じ年比前で
あるのに過ぎないのである0我閲が地場以水、二千九付九十八
年の悠久なる膿牡を誇つてゐるのにくらべれば、一番長い墟的
い、)■−一丁
の臆史を持つイギリスでさへ、北囲の半ばにも足らないのであ
る。
かくの如きは、賓に和団のやうな、皇糾犬照大紳さまの御紳
勅に基いて、高雅二系の 天皇が天塊触窮に統消し給ふ珂牌に
於てのみ、始めて可能な事であるのであつて、粥が閲撃フ世界
にたぐひなき特色も亦∵」1に見られるのである.
きかのば
遡つて考ふるに、紳武大畠は今よ旦手先百九十八年紡の二
月・二日、いとも粧鰐なる抑俵を以つて、抑即位式を柾原野で
あl U つr ヒか
奉げさせられ、始めて御靖巾代の 天皇として、天つ日例の高
a ′ヽら
御座に卸き給ひてょり→非常に宏大な抑規棋を以つて、亀弧の
くわいこう
天紫を悌弘し給うたのであるが、明治維新以水の復古の精糾は
て、ヽニく
即ち、この皇組皇宗の、凝固の偉大なる抑摘紳にょるのである
から、南米閥巡の爛々抜目で、今‖のやうな呉閲の犬をなした
所以も亦、こゝに基くのであらねばならぬのであ・接 写t
さればこの図家の・一大記念Hに際しては、南民拳つて賀昨の
舛喀を斬り奉り・闘家の隆雄を純綿すると非に、速く皇糾愛ポ
けいば ヽ
卒園の昔を敬慕し率つ写、凝固の大純朴を率博し、古来忘Aし
よくきん
てゐる閲民精紳を敬埠し、以つて臣民焚賛の誠を致すことを音
はねばならぬ.ハニ月†一口放近)