南昌、九江、廬山及南?鉄道

荷回は南京攻防戦で敗竜
南昌、九江、塵山一g
  は・)Y】エビりんち
二線防敢陣地
 ▲■ん“りい けて1・一
の安盤、坪埠



紀かれてある清畠とかその北にある九江とはどういふ威か絢現
に記して見よう.
    こ、)せいし†⊃7
 南呂は江西省の首府で省のほゞ中央にあり、省を南から北に
   は や・}こ       かんニラ
流れて都陽湖に注いでゐる鞘江といふ河に臨んだ都合で、南畠
といふ名は漠の代から硯はれてゐる.、
 人口は糾十萬から茄十萌といはれる中部支那の犬郡市で、帝
江に臨んでゐる許りでなく.陸上の交通に於ても北の方は九江
 なんじん          ゥラムl
と浦宿蛾道で連綿されて揚子江流域と通じ、叉最近には漸江、
               九つかん       せつかん
江西、湖南の三省を来西に横断して甥級蛾道とも接観する漸領
                             l▲・つしよ・つ
蛾追の開通を見、政治上のみならす交通上の一大斐衝である筑
め滞介石はこ1に大本営を駐いたものと思はれる.煮いて南米
も非常に盛んで、閑地場ではないが南米の盛んなことは江西省
節一と首はれ、富の程度も高い虚である.その南光は江西省か
ら産出される農汚物の外、綿糸布.綿織物、肺和、油新、景徐
               ’ ば       しLTフ
鋸の陶磁器、木材等の集散が主で、小規模ではあるが総和、樟
の三ノ
脳、皮革等のエ菜も行はれてゐる.市特性大きな城壁で固まれ
た城内と城外の新市待とから成つてゐて仲々賑やかである.盲
                     一−1}し     ■・丁小■)か′、
い郡合だけに名膠、盲銃も少くないが、唐詩に名高い膝王閣は
我国にもよく知られてゐる虚である.
次にこの浦臼と南蒋餓道で結ばれてゐる九江について述べれ
ば・九江は江西省の北部にあり、上洛から川吉例十克浬の上流
揚チ江に臨んだ閑地場で、正に西江省の〓戸とも言ふべき桝で
江西金省の物資のうち揚子江流域に輸出されるものは皆此虚に
              なかつ▼−ば・)え」●
集散されるのである.従つて仲増貿易が非常に盛んで、貿易上
から首へば梯子江清祥の謂港小≡川位の地位を占めてゐて、人
口は室ハ常人位である.九江の市梢は揚子江の南岸に滑つてわ
          l かい         ぜんしん
て、城内城外並に智イギリス租界から成つてゐる.此虚は前清
 かん姓・)
の成豊入年(安政茄年)の天津條約により成里十】年(丈久元
年)に粥池された桝で、その時イギリス租界が設けられたので
あるが昭和二年に責つて遽に支那の銭めイギリス租界は回収さ
れて了つたのである.我が領事館も怒かれ事襲前には七十人程
在留同胞絹ゐた虚である.
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 なはこの九江は他の代から名を知られた古い郡であるが、叉
    じんや・つ      はくらくてん                 ぴは
唐代の蒋陽即ち布名な自発天の「挿陽江頭夜客を遮る』の繋毯
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行で有名な挿陽の地である.その岱め名聯.古接が数多い中に
      ちな
も白楽犬に囚んだものがとりわけ著名である。この九江の西南
                たい甘ん
約川野(十七キュ飴の朗に、山東省の森山と並び柄される支
        ろ ∫ん   かい捷つ
那の名山の一つである庶山がある.梅披四千尺飴の山であるが
  々・}    えんモラ
暦、宗の焚化の沖叢として最も著名な名山で、この山には中心
                         か・.Jろは・)
とも云ふべき峰はなく李自、白楽天の詩で名高い香嬢峰とか名
勝背碕に官んだいろくの時々が堆を誇つてゐる悠抄『鹿山に
               ゆえん
入つて鹿山を乱す1dと云はれる朗以である.かうした多くの時
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のうちに肺嶺といふのがあるが.この峰は今から四十年許り術
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リットルといふイギリス人心皿教師忙よつて撃ゥれた桝で、支那
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随一の避暑地として、外囲人やま那人の別群が林立してゐるが
最近では政治都市として特殊の想我を持つやうになつて雑て
「庶山合諸」といふ名でしばしば支那の政治壬ユース等に出て
衆た桝である.
 以上で南員、九江、應山についての訟明を終るが、没後に南
挿蛾延についてl育つけ加へておかう.
  南将繊道は九江から南島に至る罰二十入粁像の横道であるが之は
 兜に掲子汀流域に於ける我閥と爪款桝係りある唯一の録道なのであ
 る。元来明治.ニ十七年頃に支那人によつて地設計袈が立てられたの
 であつたが、紡一革命で拙折し、大正元年に北が加地興架から第一
 次倍数を行ひ工事を朽朋したが、いくばくもなく第二革命が起つて
 エ串は叉停頓し、大正三年和び瀬拙興築から爪款して大正光年起工
 以来十年で全枇のエを絶つたものである。この紐迫は開紫以来水避
 の貼迫を被り、而も紬皆済にその人を得なかつた馬め成綺は非常に
 潔く、■肺款の利抑さへすることが出水ないといふ状態にあつたので
 大正十l年に三庶び光餌興栄から椚款し、何時に省政府かち補助金
 を待て、経営の刷新を陶つたのであつたが、同氏鞍命に際して業
 ほ全く薫風を極めたが、四民政府成立往時泣部は本線の嬢理に着手
 し、昭和四年に之を閥祁純泣とした。佃前後三河に亘る借款で東誠
 典範借款は絶締約一千肪蜘に速してゐる。 (十二月十六日放送)