残敵の拠る蚌阜、安慶


 南京の攻防戦で一敗地に
▲息  かふ
象れ、辛くも血路を開いて
敗竜した敵の大部隊は、津
浦線によつたものは安徽省
 牲一フふ
の蝉埠に、叉揚子江の水路
      ちんけい
(14)
められた旗で五色は漢族の赤、満洲族の茸、蒙古族の藍、回族
の自、西成の黒と漢、満、蒙.回、戚茄族協和を示すものであ
る.
                         」さよじん
 衆に十四日新政府の成立式が拳げられた北京の居仁堂といふ
倖ひに逃げた敵は、安故に集結中で、今や安庇を中心に第二防
架線を築いて我軍忙殺向はうとしてゐると倖へられる.南京か
ら揚子江を渡つて敗竜した敵が集結を侍へられる坪埠といふの
は安徹省の北部、絆耶から津浦線で四十飴皇宮七十飴粁の朗に
ある町で、安後手野のほぽ中央に位し、安徽省の北部を西から
     わいが
東に流れる准河の南岸汲んでゐる.そして准河を舵行する民
胎の集散地であると共に、津浦線の掲適後は准河流域地方の物
資集散の一中心地として南米も悠んである.この蝉埠には敵の
飛行場があり、我が航察隊の筑め度々爆撃された事は周知の通
hソである.
欄野憮昭
…冒酎酢m蜘銚弼h紆打払汁e町▲′=汁旨′.
巨匿
                                                                                パ題瀾確題瀾周周届周増瀾瀾瀾儲瀾確凋瀾瀾川畑濁
                                            されて計るこよ吋∴J
中心とならうとしてゐる安駐は、安徽胡の絹部、揚子江の北川杵
にある郡合で、準湖から一〇八沖許り上流の桝にある。ここけ
古く群秋の時代から川けた朗で安位といふ爺は縮宋の時に鶴ヰ仇
                       くわいねい
つてゐると倦へられる。今は安徽省の汁船山地で快満といふ別
名がある。市術は宏大な城廓で閉まれた域内と、城外し」から成つ
               l−て、つ
てゐるが、汽船や代枇等山礪頭は城の南門の近くにある。人口
は五高から七萬位と言はれるが、元々特殊の物産がないため附
近から産出される思荷物・を壮放するに過ぎす、南光も非常にさ
かんとは言へないやうである。唯清朝以来嬰校が開け、文化の
一中心となつてゐることはここの山つの特色といふ黎が山水よ
う。叉箭肪、市拭も少くないが北開に知られてゐるのは甘名な
    Jミつくわ∧はく                  くわ・1ち上
雷浣である劉完自の追跡位なものであらう。伶此桝は前新党緒
二十八年ハ明治ニ∵十茄年)山英拘と支那との問の改訂惟約で、開
港地とするといふ約水が出水たのであつたが、支那政府はまだ
之a醸現してゐない。
 上述の如くこの安毘は摘京山上流にある燕湖から百八郎許り
揚子江を沸つた桝であるが、この郵湖と安拉山問の揚子打沈域
の主な地について三ご‥附諾しておかう。耶小湖については眈に建
                            てさか・フ
ベたので省略するが、この燕湖から拙†托を測ると渦川挿に荻砥
              ご・)もつTつざん
といふ桝があるeここは布不汀桃神化山山柁批の秋川粘である。
桃沖蛾山は状港から十キロつまり二男牛許り南方にあつて、こ
この餓純ほ磁蛾鍬を立とし叫純八几は約五千溌トンと推算されて
特記しておきたい事である。叉この桃沖餓山の西南忙は釧の産
地として小朋名な納骨山があり、叉その商にある九華山は地鈍菩
舵山川仰州域として世に知られた何である。その北にある潰地は人
口一哉飴、米、茶の然故地であるが、この八人地から潤ることし
ばらくで安藍に過するのである。(十∴月十北じ放送)
 編音協蓬故事日